いつかのためのさようなら





「もうたくさんだ」

雑踏の中だったならば誰の耳にも届かなかっただろうというほど、小さな声。ただ彼以外に誰も声を発していなかったこと、また、人の喧騒など届かない場所であったことから、彼の言葉はその場の皆が捕らえた。
塔の外は疑いたくなるほど延々と雪が降り続けている。今この場で世界の命運が決まろうとしているなど、積もりゆく雪らには関係のない話なのだろう。それら自身が世界に終焉を運んでくるのだとしても。
俯き、声を落とした青年は、とても悲しい目をしていた。彼に――玄冬に心を預けている花白は、その目がいつか自分に向けられたものと同じなのだと悟る。彼の大切な知り合いを花白が殺してしまったとき、玄冬は怒りをぶつけた後にこんな目で花白を見ていた。憐れんでいるような、失望しているような。

「くろ」
「もうたくさんだこんな世界」

声をさえぎり、再び投げやりに呟かれたのは、玩具に飽いた子どものような言葉。びくりと肩を揺らせた花白が玄冬の顔をのぞき込めば、先ほどまでの悲しい目はどこか怒りに彩られ、苛烈な色を秘めているようだった。
魔王という呼び名に似合わないほど優しい性根である青年の珍しい姿に、彼の友人である花白はもちろん育て親である黒鷹も眉をしかめた。白の鳥はどうでもよさそうに冷たい目を向け、救世主の子孫は訝しげに目を細める。皆が、玄冬を見ていた。これから殺されるはずの、世界の敵を。

「たくさんって、どういう意味さ玄冬。君まで僕に殺せって言うの、大好きな君のこと殺せっていうの!」
「そうだ、花白。俺は生きていたくない。そしてどうせ死ぬなら、お前の手でがいい」
「バカ言うな、許さないよそんなこと」

生きていてほしい者に殺せと言われ、素直に従えるほど花白は従順ではない。そんなに簡単に殺せるくらいならば、ここまで逃げてなどいないのだ。
怒りに頬を染める花白に、玄冬はふっと表情を和らげる。聞かん坊な子どもに物事を言い聞かせるような、どこか穏やかですらある表情に、糾弾の声も止む。
玄冬は微笑んでいた。ただそれも一瞬で消え、次には苛立ちの混じった表情に変わる。

「嫌なんだこんな世界。俺が生きているだけですべての責任を負わされる。何もしていなくても、恨まれ、疎まれ、死ねばいいとなじられる」
「そ、そうだよ玄冬! やっとわかってくれた、だから滅んでしまえば……」
「だから、殺せ。花白」

理解を得たと喜びをあらわにした花白に、非情な言葉がぶつけられる。笑みさえ浮かべた救世主は、再び悲痛に顔を歪めた。

「……どういうことさ」
「俺はこの世界が嫌になった。嫌いになったし憎んでいる。もう一秒だってこんな世界で生きていたくないんだ。だからお前に、俺を解放してほしい」
「っそれなら、世界を滅ばせばいいじゃないか! 君の憎む人々が苦しみ死んでいくのを見て、君は罵られた分だけ生きればいい!」
「もう無理なんだ、花白。世界が終わるまで生き続けるなんて、俺にはもう耐えられない。こんな醜悪な世界で息をして、見つめ続けて生きるなんて、死んだってしたくないんだ」

嘲笑が浮かんでいた。心底から世界に嫌悪を抱いているような表情だ。
黒鷹は何かに気付いたように息を呑む。いつもは陽気な雰囲気がなりを潜め、身を引き裂かれたかのように痛々しげに唇をかみしめた。それに気が付く者はこの場にはおらず、魔王と救世主が交わす言葉に二人以外は耳を傾ける。

「なあ花白、生きることが罰なんだ。醜いだけの息苦しいこんな世界で生きなければならないということが、俺たちを苦しめた人々への罰になるんだ。だから俺はお前に殺されて解放されたい。世界を続けさせて、人々に苦しみを味わわせたい」

まるで本当の魔王のような物言い。花白は驚きに目を剥いて、次いで困惑気味に眉を下げた。彼の知っている玄冬とは違うような気がしていた。
悪人じみた笑いを浮かべ、玄冬は花白から目を逸らす。彼が見るのは救世主の子孫であり玄冬討伐隊隊長である銀朱。それまで蚊帳の外であった男は唐突に自分に視線が向けられたことに動揺を見せた。しかし先ほどの魔王の人類を馬鹿にするような発言を思い出し、剣呑さを瞳に含ませた。銀朱は彼の守るべき国民を愛している。それは玄冬も承知していることだった。

「なあ、あんた。非常に不本意だが、頼みがある」
「なんだ。聞くだけなら聞いてやろう」
「これが終わったら、もう俺が生まれないようにしてくれないか。世界が少しでも長く続くように」
「……言われずともわかっている」

銀朱が憎々しげに頷いた。黒鷹同様、彼も玄冬の思惑に気付いたのだろう。ただ、銀朱にとっては魔王が何を思いどうなろうと知ったことではない。世界が存続するのなら、彼の守りたい人々を守ることができるのなら、それでいい。多少は、さみしげに微笑んだ魔王の青年のことを憐れむ気持ちもあったかもしれないが。
二人のやり取りを、花白は俯いたまま聞いていた。玄冬が望むことならば何でも叶えたいと思う。だが結局は彼の命を奪うことになるのだ。世界を苦しめるためとはいえ、玄冬が死んでしまっては、花白が一人ぼっちになってしまうことに変わりはない。

「花白」

優しい声が耳を打つ。

「お前が天命を全うしたなら俺のもとに来い。俺たちの魂はひとつだ。またこの世に産み落とされることがなければ、誰に邪魔されることなく二人でいられるだろう?」

花白の眦から涙が零れ落ちる。そして、大切な青年へ向けて、剣を振りかぶった。

「また会おうね、玄冬」
「ああ、また」



亡きがらに縋りつき離れない花白を見つめ、黒鷹は溜め息を吐いた。慈しみ育ててきた子どもが命を絶たれた。喪失感は大きく、また、諦めに似た気持ちも少なからず抱いていた。

「ようやく終わりましたか」

後ろからかけられた声に緩慢に振り返る。徒労しか感じていないような言葉に感じるところはあったものの、目を合わせてみるとそれだけではないことに気付く。白梟は、困惑に目を揺らしていた。

「どうしたんだい、浮かない顔をして。貴方の望んだとおりになっただろう、少しは喜んだらどうだ」
「それについては満足しています。ただ、何か違和感が……」
「へえ、気付いたか。前回は全く気にしていなかった、貴方が」

口笛でも吹きそうな様子で言う黒鷹に、白梟は眉間に皺を寄せた。もとより感情を読ませない男だ、楽しげにしているからと言って、表情のままの気持ちでいるとは限らない。
黒鷹は声を潜め、白梟の耳元へ口を近づける。まるで内緒話をするような格好。実際そうなのだろう、黒鷹は横目で花白を観察していた。

「私の子どもは、演技が上手だろう?」

はっと顔を合わせれば、金の瞳は悲しみに濡れているようだった。また、嘲りさえも含まれているような。

「まったく、玄冬という生物は変化がなくて嫌になるな。私が育てても変わらなかったのだから、あれはもう魂に刷り込まれているのか」

先の言葉は嘘だったのだと、黒鷹は笑う。嘘と言っても、世界を憎んでいるといったあたりだ。その他はほとんど本音なのだろう。だが憎しみを帯びた声音や表情が嫌気がさしたという言葉に真実味を帯びさせ、花白に剣を振るわせるに至った。

「ちびっこを納得させられればそれでよかったんだろう。現に私どころか、貴方や若輩君にまで察しづかれている。本当に、貴方の育てた子は残酷な男を好いたものだね」

花白が玄冬から離れる気配はない。泣いているのかどうかは音もせず遠いここからでは判断しかねるけれど、強張った背中が誰も寄せ付けることを許さない。銀朱も気遣わしげに様子を窺っている。しばらくは動くことはないだろう。
黒鷹は苦笑し、白梟の肩を叩いた。常ならば苛立ちもあらわにその手を振り払うはずの白梟も、今ばかりはされるがままにしている。

「玄冬が最後言ったことは私も望むことだよ。あの子に会えなくなるのはさみしいが、本人の希望ならば仕方がない。玄冬が生まれることのないよう、人が人を殺すことのないよう。力を尽くしてはくれないか、白梟」
「……善処しましょう。私とて、玄冬が再三生まれ出るような世界は望ましくありません」

頼むよと笑いかけ、黒鷹は自嘲気味に唇を歪める。
白の鳥やたかが一部隊の隊長に告げたところで、人が死なない世界ができるとは思っていない。そんなことが可能ならば、戦争は起こらず、初めから玄冬など存在しはしなかった。
それでも、一秒でも長く。玄冬がこの世に生まれるのが遅くなりますようにと、黒鷹はもうここにはいない創造主に祈る。そのときまた玄冬が命を落とすのか、それとも今度こそ世界が滅ぶのか。もしくは――。未来のことは、今はまだ黒の鳥にも白の鳥にもわかりはしない。
塔の外、いつの間にか雪はやんでいた。春が訪れたのだ、一人の青年と引き換えに。





END.

2012/10/04

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