さよなら楽園 始まりは些細なことだった。もう原因だって覚えていない。いつもだったら気にならない鳥井の無愛想ぶりが今日はやけに腹立たしくて、笑顔で流してきたはずなのに反論してしまった。鳥井は気に入らなさそうに突っかかってきて、それがまた鬱陶しくて。悪循環にはまってしまった僕たちの喧嘩は、深夜にかかった時間になっても終わりはしなかった。 頭に血が上ってしまっている。つまりはそういうことで、冷静な会話がされていないというのは、僕も、鳥井だって分かっているだろう。けれど引くこともできず、口からはぽんぽんと言葉が転がり出てくる。 「ようは僕が気に入らないんだろう」 ぶつぶつと僕に対する不満を並べ立てられて、苛立ちのままにそう叫んだ。鳥井は多少気圧されたようだったけれど相変わらず鋭くこちらを睨み据えている。これまでの関係で初めて見るくらいの険しい表情だ。 「だからそう言ってるじゃねえかさっきから。俺はお前の全てを肯定してるつもりもないし、不満だってある。何でも受け入れられるなんて考えられるのは不愉快だ」 「そんなこと言って、お前に僕を否定し尽くすことなんてできないじゃないか。僕を否定することは自分を否定することになるんだ。僕が気に入らないってことは自分自身が気に入らないんだよ鳥井は」 「それならそうなんだろう。もとから俺は俺のことを好いてなんかない、だったらお前のことも好きでも何でもないってことなんじゃねえの」 ざくりと切りつけられるように言葉が吐き出される。心底嫌そうに眉間に皺を寄せた鳥井は僕から目を逸らしていて、ごくりと喉を鳴らした僕の様子になんて気付いてはいないのだろう。 鳥井が僕を好きじゃない。そんなことあるわけないと笑い飛ばせないのは、ひとえに本人から告げられた言葉であるからだ。これが他人から言われたのならば自信を持って鳥井は僕が大好きなんだよなんて冗談めかして言えるのだろう。今まで、言葉にして互いの気持ちを確認したことなんてなかった。僕は鳥井が大切だからそばにいるし、鳥井も僕のことを必要だと思っているから突き放さずにいてくれるのだ。そんな考えをずっと持っていたものだから、いざ言葉にしてその常識(だと僕は思っていた)を覆されると動揺せざるを得ない。 嘘だ、これは売り言葉に買い言葉というやつで、本心は別にあるんだ。僕たちはどちらも冷静ではないから、だから。 言い聞かせるけれど、鳥井はまだこちらを見ない。 「なに、冗談言ってるんだ」 「どうして冗談だなんてわかる。俺は俺が好きじゃない。お前の言葉を借りるなら、俺の坂木への感情は自分自身への評価とつながってるんだろう。なら、そういうことじゃないか」 「そんなはずない」 「そう思いたいだけなんじゃないのか。そもそも俺はお前じゃなくてよかった。お前だってそうだろ、俺じゃなくてもよかったんだ。偶然、そこにいたから俺の面倒を見ることになっただけで。そうだろ、お前は、坂木は俺のことが大切なわけじゃない。気付かれてないとでも思ってたのか?」 中学生の鳥井が頭に浮かぶ。誰よりも賢くて、達観した顔をするくせにさみしがり屋な、普通じゃないかっこいいやつ。僕は鳥井に憧れていた。普通な僕は、普通じゃない彼のいる人生を夢見た。 けれどそれは、鳥井だったからか? 少しおかしな面白いやつが他にいたなら、そいつによって僕の生活に潤いがあったなら、僕はそれでも鳥井に声をかけただろうか。 僕の中の自分の姿が、じわりじわりと歪んでいく。 自分が楽しむためだけに鳥井を利用したのか。誰にも奪われることのないように、タイミングを計って計って。いつかの鳥井の、「いい人」という声が耳によみがえった。いい人なんかじゃない、これは、僕は、こんな人間だったろうか。こんな醜いばかりの僕に鳥井は気付いていたのか。気付いたうえで一緒にいたのか。いや、僕がそばにいたせいで、もしかしたら鳥井は自分を好きになれなくて、もしも僕がいなかったなら、いなかったなら。 「鳥井、は」 「あ?」 「鳥井は、僕がいない方が幸せなんだ」 ようやくこちらを向いた鳥井は、目を見開いていた。先ほどまでのような鋭さがない視線にほっとして、けれどぼろりと零れた涙は止まらない。 「そうなんだろう、僕がいい人じゃないから。なんてひどいやつなんだ僕は。僕は、鳥井、僕のこんなひどいところを知っていて、今までどうして一緒にいられたんだ」 「おい、坂木……」 「お前を利用していたようなものなのに、自分が愉快であるためだったのに、それを肯定されることに酔ってたんだ。ごめん鳥井、鳥井。それでも、僕は……」 中学時代がどうであれ、今現在、鳥井に好きじゃないと言われてショックを受けるくらいには鳥井を必要としているんだ。鳥井でなければだめなんだ。確かにそう思っているのに、泣きながら告げてしまうのはフェアじゃない気がしてぎりぎりと唇をかみしめる。 喉が小さく動いて、鳥井が動揺しているのがわかった。僕が感情を任せるに値しない相手だと知っていてなお、鳥井は僕の心の起伏に影響されている。始まりがどうであろうと彼が僕と強くつながっているのは間違いない。ただ、僕への依存は、もしかしたら罪を知らしめるためのものだったのかもしれなかった。僕と出会ってしまったから鳥井は一人でいられなくなってしまったと、僕以外が恐ろしいのだと、僕に自覚させるため。もしかしたら、すべては僕のせいかもしれなくて、それなのにずっと彼を救うなんてことを考えてきたのだ。なんて傲慢で、愚かなんだろう。 僕が、いなければいいんだ。 「違う、ごめん坂木」 僕の顔が相当情けないものだったからか、鳥井自身が耐えられなかったからか。ぎゅうと頭を抱え込まれた。鳥井の顔は見えない。ただ髪がしずしずと濡れていくことに、もはや見慣れた泣き顔を想像した。 「いなければなんて言わないでくれ。お前がどんなでも俺はそれでいいんだ坂木」 好きとか嫌いとか、そういった言葉で表せるようなものではないのだろう。僕にとっての鳥井も、鳥井にとっての僕も。けれど疎まれるのは、憎まれるのは耐えられない。 こんな僕でいいのか。鳥井のいい人だという言葉に目がくらんで、卑劣に生きているだけの人間だ。それを指摘されるまで思い至りもしないような、残虐な人間だ。すべては非日常を手に入れるためにやってきたことで、きっと過去に戻っても僕の行動は変わらなくて。 共に過ごしていくうち、いつしか鳥井を手元に置くためだけに立ち回っていたことを、彼はまだ知らない。知らないから教えない。彼がいなくなってしまうのは苦痛だから。僕はどこまでもどこまでも利己的な人間なのだ。自覚してしまえば簡単で、いい人である必要なんてないじゃないかという気持ちさえ浮かんでくる。 気付いて、また開き直ると涙も自然と止まった。嗚咽の響いてくる鳥井の胸に額を預けて、祈るようにつぶやく。 「ありがとう、鳥井」 だから今日は仲直りをしよう。今まで通りに戻って、僕が鳥井をこれからも囲っていくために。今度こそいなくなってしまえと罵られるまで坂木司でいよう。 そんな僕でいいと、彼は言ったのだから。 END. 2012/10/04 |