恋の闇路、霧を往き





ずっと、悪夢が続いていた。眠りについてもすぐに目が覚めてしまって、また眠ることが恐ろしい。膝を抱えて唇をかみしめていればいつの間にか朝が来ている。寝不足のまま学校へ行って、級友に心配されながら、授業中にだって眠ることはできない。
日がすぎるごとに灯吾はやつれていった。食事がのどを通らなくなって、笑うことも減った。夜が来るのがひたすらに恐ろしいのだとは誰に言ったこともなかったけれど、寝不足な顔で察したのか、皆が心配そうに眠れるまでそばにいようかと言った。しかしその申し出を灯吾はすべて断った。誰かがいるからと言って眠れるわけではないというのが理由であり、また、この苦痛は灯吾が一人で背負っていかなければならないものであるという自覚があったから。
日が暮れて、日付が回って。眠らなければならないと思えば思うほどに胸の内に薄暗い靄が広がっていく。どうせ今日も眠れないのだ。また、あの夢を見るのだ。諦めとは違った。受け入れなければならないのだと思っていた。
布団にもぐりこむ。連日の睡眠不足で疲れ切った体は灯吾の思いとは別に眠りを欲しているのだろう、目を閉じるとすっと意識は薄らいでいった。



気が付くと、いつかの泉のほとりに立っていた。透明であるのにどこか青みがかっている水がちゃぷりと足元にかかる。冷たさは感じない。顔を上げれば二本の椿の木。片方は真っ赤な花が咲き乱れているというのに、もう片方は蕾の気配さえない。
色のある夢は本当に夢なのだろうか。あまりに鮮やかすぎる光景にそんなことを思いつつ、灯吾は息を止めて振り返った。そこには、いつもの通り、由が微笑んで立っていた。
あの日だ。何もかもが変わったあの日。両親のこと、自分のこと、そして由のことが明らかになった日。もういくらも前のことだというのに、鮮明に景色は目の前に広がる。由はあのときと何も変わらず、まるで本当に灯吾の前に立っているのかのようだ。冬らしからぬ薄着と、心地よい音を奏でる下駄を身に着けて、狐の面を大切そうにかぶっている少年。灯吾が失った彼の弟。

「つばき」

声でさえも記憶のままだ。どこか舌足らずな、子どものような話し方。声質は灯吾と変わらない年頃の男のものだというのに、それでも違和感はない。由らしいという言葉は、たった数日しか一緒にいることのなかった灯吾が使っていいものではないのかもしれないが、由の印象にあった声音だと思っていた。
優しげに、慈愛さえ感じさせる表情で由は立っている。

「つばきは、誰でもよかったんでしょう」

ああ、始まったと思った。表情はあの日のまま、声も記憶にある通り、ただ言葉だけが鋭く灯吾に突き刺さる。

「自分を理解してくれて自分のことを守ってくれるのなら誰でもよかったんじゃないの?」
「由」
「だから由季さんに心を許していたんじゃないの? オレに甘かったんじゃないの? どうしてあきよしじゃダメだった? お父さんでも灯奈ちゃんでもダメだった? 傷つけたくなかったの? オレならどうなってもよかった? 一時大切に守ってもらえればよかったの? ねえつばき、オレのことなんてどうでもいいんでしょう?」

矢継ぎ早に疑問符をつけた、けれど決めてかかった言葉が飛んでくる。そのどれもが灯吾には呼吸が苦しくなるくらいに痛いもので、毎日のように聞いているものだとしても違う違うと首を振りたくなる。否定は口から出てきはしない。

「つばきはずるいよ」

ぽつり。笑みを含んだ声が、泉を震わせる。

「ずるい。オレだって誰かに必要とされたかったのに。お父さんの顔もお母さんの顔も知らない。神社のみんなはオレの外だとか中だとかが必要で、オレが、オレ自身が大事だなんてヒト、オレは知らない。誰もオレはいらないって言う。つばきだって、つばきもそうだ。つばきにはたくさんいるのに、オレには誰もいない」

由は少しだけさみしそうな表情になっていた。言葉は棘を含んでいるというのに、どこか穏やかですらある表情と声音は憎しみを帯びはしない。灯吾は由が誰かへの恨みつらみを言っているところなど見たことはなかった。なので嘲笑の表情も声もわからない。だってこの由は、夢でしかないのだ。灯吾の知らない由が灯吾の夢に出てくるはずもない。

「オレ、つばきになりたかった」

苗字を持たない少年が、兄を見つめて呟く。泣いたところを見せたこともなかったから、泣き顔もわからない。困ったように笑って、由は少しずつ灯吾のもとへ歩いてくる。足元は草でおおわれているというのに、どうしてだかカラコロと陽気に下駄の音がしていた。
目前に迫った由の顔。こんなに近づいたことはあっただろうかと記憶を巡らせたけれど思い出せない。わかっているのは、このあとの展開だけだ。いつものように灯吾の胸へ手を当てて、由がゆっくりと力を込める。彼の手は冷たい。指の温度など、もう忘れてしまった。
とん、と押され、泉へ落ちていく。景色がコマ送りになって、長い間落下を味わう。
灯吾は由を見ていた。ひたすらに見ていた。灯吾を食った由の表情などもちろん灯吾は知らない。由は、いとおしそうに灯吾を見下ろしていた。



目が覚めて、まず自分がどこにいるのかを確認する。天井、布団の感触、時計の秒針の音。ああ、夢だったと息を深くついた。
汗をかいていた。さほど暑くないというのに体中がぐっしょりと濡れていて、不快感が尋常でない。額をぬぐって瞬きをした。瞼の裏側には、灯吾を責める由の顔がしっかりと映り込んでいた。
扉を挟んだ向こうで、父が起きている気配がする。最近の夜市は灯吾が心配なのか、いつ灯吾がうなされてもいいようにと夜中にこうして起きだしてくることがあった。ただ、灯吾はそれに甘えたことはない。誰でもよかったのか。由の言葉を頭の中で反芻していた。父は自分を愛してくれている。自分だって父が大切だ。その感情と由に抱いていたものがどう違うのかは説明できない。言えるのは、由のことは必要だったし、誰かの代わりにしたかったわけではないのだということ。初めがどうであれ、由が由として灯吾を守りたいというのならば、それは由との約束でしかないのだ。
由のまなざしを思い返した。あんな目で見られるのならば、食事されるのなんて構わないと思った。
夢はきっと灯吾の願望なのだ。あんな笑みしか見られないよりは、憎しみのこもった視線で睨み据えられ、罵られてよかった。突き落とされて糧になれればよかった。お前ならいいんだと、お前しかダメなんだと伝えられたならよかった。由の情愛の含まれた視線は灯吾の写し鏡なのだ。慈しんでいたのは由のほうでなく、きっと。
ゆっくりと空が白め始めている。このまま眠れない日々が続けばいつか夢の世界が現実になるだろうか。その日を灯吾は、ずっと待っている。





END.

2012/09/09

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