未来を探しに行こう とても天気の良い日だった。さんさんと降り注ぐ日差しは眩しすぎるくらいで、真冬であるというのに上着を着なくても暖かい。絶好の旅日和だ。秋良は荷物を背負い直し、大きな家屋をちらりと見送って歩き出した。 道行く人からの挨拶に適当に返しながら、彼らの驚きをあらわにする表情に苦笑する。遠近家の現当主は、空環の街からでないことで有名だ。というより、そもそも家から出ることすら稀である。その秋良が大きな旅行鞄を背負って駅へ向かって歩いているのだから、一体どうしたのかと気になるのは当然なのだろう。 久々の運動と言える運動に滲みだした額の汗をぬぐう。昔、十代も後半のころにはこれくらい動いた程度では疲れやしなかったというのに。歳を取ったものだ。ちらりと目に入った真っ赤な椿を数瞬眺め、秋良は笑った。 街に平和が戻ってから、もう何年になるだろう。あの頃まだ子どもだった秋良はいつの間にか当時の父の年齢を超えており、誰も神隠しのことなど覚えていない世界がやってきた。人はみな平穏無事に明るい世界を満喫している。秋良自身も結婚こそしなかったものの家督は将来的に姉の息子に譲ることを決め、街の大地主として忙しくも穏やかな日々を過ごしていた。 だからこその決意であったのだ。立派な青年になった甥の修行のためと仕事を押し付け、いつ帰るか分からない旅に出ると家の者に告げた。みな驚き不安をあらわにしていたようだけれど、秋良がどうしても譲らず、家からの連絡にはきちんと対応する旨を告げればようやく首を縦に振った。 しかし、甥の、足元が今にも崩れ落ちるのだと信じているような表情は見物だった。今は不安が勝っていても、いつか慣れて自分がいなくても立派に当主を務めあげるだろう。過去の自分のように。 数えるのも面倒になるほど汗をぬぐったころ、やっと駅に着いた。平日の昼間だからか人は多くない。その中にも秋良のように大きな荷物を持っている人の姿はちらほらと見えるし、わざわざ顔を確認されることもないので街中ほど目立つことはないようだ。ただ着物姿ということで少しの注目を集めてはいるけれど。 時刻表。改札。線路に電子掲示板に、何より大きな電車。テレビ以外では見たことのないものが目の前にある。そのことに少しだけ興奮して、秋良はきょろきょろと駅中を見渡した。 秋良が学生のころまではこの駅は使われていなかった。誰も空環から出ることは許されなかったし、そのことに疑問を持つ者もまた存在しなかった。それは秋良も同じことで、あやかしが云々と声を上げてはいたけれど、幼いころから当然だったせいか外に出られるという考えは全く持っていなかったのだ。 駅が本来の使い方をされるようになってからも街から出たことは一度もなかった。駅の近くにさえ寄ったことはない。たった一瞬でも、姿を消すことがあってはならないのだと思っていた。自分がいつもの場所でいつものようにしていれば、彼が自分を探す手間が省けるからだ。 彼、由がまたこの街に戻ってくると笑って消えた日から、秋良はそれまで以上に勉学に勤しんだ。あやかしに関してのこともそうだが、父の仕事や学校での勉強。人間関係もうまくこなすことを覚えた。当主をきっちりと引き継いで、学んだことを生かし、いつか襲い来るだろうあやかしを迎え撃たなければと考えてのことだった。 結論として、すでに述べたとおり秋良は当主を父にも認められるほど立派に勤め上げてきた。大学に行ったりそこで友人ができたり、それまでの迷走ぶりを思えば順風満帆といえるだろう。仕事に追われるまま歳を取り、あとは隠居して穏やかに死を待つだけだと、きっと身内や家の者含め皆がそう思っただろう。 けれど、秋良はそれを拒んだ。 今まで一度もあやかしを見かけることはなかった。神隠しが起こることもない。そして、帰って来ると約束した由は、結局姿を見せることはなかった。 来るなと言ったのは自分だ。せっかく訪れた平穏を壊してくれるなとすごんだことは未だに記憶に残っている。大勢の人と大切な友人を奪ったことに対しての恨みも消えたとはいえず、もう二度と街に関わってなど欲しくないと思ったのは真実である。 だから本当ならばもろ手を上げて喜ぶべきなのだ。あやかしに勝った。あいつらは恐れをなして逃げ去り、もう人を食い散らかすこともない。空環に影が入り込むことはないのだ。これから先、明るい日は射し続けるだろう。 そう喜びに打ち震えながらも、胸の奥でちくりと違和感が生まれる。由は、あの奇妙な少年はどうなったのか。あやかしと共に消えたのか、それとも裏切られ食われたか。もともと体が強くないようなことを言っていたし、苦しい生活に耐え切れず死に絶えたか。 どうだっていい存在だ。敵なのだし、別に好きではなかった。どこで野垂れ死のうが関係ない、むしろ清々する。そう言い聞かせながら、日が経つごとにじわりじわりとおかしな気持ちが大きくなっていく。やがて目を逸らし続けることができなくなり、今、こうして電車の切符を買い求めている。 買い方が分からないのだと駅員に相談すれば、大地主が現れたことに驚きながらも丁寧に説明してくれた。しかし、どこへ行きたいのかと聞かれても答えようがない。眉間に皺を寄せながらとりあえず遠くへともごもごと口の中で呟く。駅員は目を見開いていたが、首を傾げつつも隣の県まで乗継なしで行けるという電車の時刻と乗り場を教えてくれた。初めて手にする切符を手に、秋良は改札というものを通り抜けた。 駅のホームは広かった。ここも一応空環の街の中であるのに、そこを治める立場であるはずの自分の知らない場所があることに、なんだか不思議な気分にさせられる。時計を確認するとまだ電車が来るには時間があるようだ。とりあえず目に入った自販機で飲み物を買い、ベンチに体を預けた。 風が冷たい。いくら昼間であるといっても屋根のせいでできた日陰の中にいては暖かさなど感じられようもない。けれど火照った体にはその冷たさが気持ちよく、出がけに無理やり渡されたマフラーを膝にかけてふうっと息を吐き出した。 目をつむると、由の姿が瞼の裏側に浮かび上がった。もう何十年も前のことであるのに鮮明に思い出せる。薄いシャツとスラックスと下駄。かろうじて首にかけられた目に痛いほど真っ赤なマフラー。この辺りでは珍しい色の抜けた髪と妖しく光る山吹色の吊り上がった瞳を持ち、感情の掴めない笑顔を常に浮かべていた。 彼がいた日、毎日が楽しかった。まるで普通の友人のように口喧嘩をしながら街を歩き、買い食いをしてまた喧嘩をした。今はいない少年二人と、夕暮れから夜までを一緒に過ごした。楽しかったのだ。憎んでいたし怪しんでいたけれど、今思えば苦しいくらいに楽しかった。 だから、とは言わない。懐かしい思い出に縋っているわけではない。もっと上手にあやかしを追い出すことはできたのだろうと思うし、あの頃の自分の甘さや間抜けさにはほとほと愛想が尽きる。楽しかったけれど、失敗だったとも思う。消してしまいたいくらいに青臭い記憶だ。 それなのに。その目を逸らしたい思い出の中で、帰って来ると笑った男のことを、秋良はずっとずっと待っていた。勉強をしても仕事をしても、忘れることはできなかった。会いたい。きっとそれだけだ。理由はまともなものが思い浮かばなかったのでもういい、何をしてやりたいわけでもない。ただ由に会いたい。街の平和を願っているようなことを言って、彼が帰って来て久しぶりなんて笑うのを求めていた。 すぐにでもやって来るのだろうと思っていたのが、一年が過ぎ二年が過ぎ、いつの間にか十年も二十年も過ぎた。気付けば今やもう死を待つだけの老人だ。ここまできたら秋良の葬式の日にだって、由は姿を現さないのかもしれない。そう考えたら、居ても立ってもいられなくなった。 何があったってあいつに会ってやる。どこにいようが探し出すし、死にかけていようが構うものか。あやかしの腹の中からだって引きずり出してやろうではないか。先に約束を破ったのはあいつなのだし、こちらも破ったところで誰にやましくもない。大人しく待ってなどいてやらない。 がたんがたんと音を立てて、電車がホームに滑り込んできた。時計は教えてもらった出発時刻を示している。ぷしゅうと開いた扉に軽くおののいて、秋良は恐る恐る足を踏み入れる。 後ろに流れていく空環の景色。死ぬまでここで生きるのだと思っていた街を飛び出して、心は激しく高揚していた。はじめて門限を破って家出してやった日のようだ。少年のように浮足立ち、期待に胸が膨らんでいる。もう二度とここへ帰って来ることはないのかもしれない。そんな予想めいたことを考えながら。 由、由、由。覚悟しておけ。今度はお前が待つ番だ。 不敵に笑いながら再度瞼を下ろす。今度の記憶の中の由は、少しだけ大人の顔つきをしているようだった。 END. 2012/07/29 |