かなしかなしと 鳥井の背中は、薄い。ビールでのどを潤しながら、僕は台所に立つ後ろ姿を眺める。 今日のおつまみはオクラのゴマ和えと鰹節とねぎの散らされた冷奴だ。最近の日中の暑さは耐えがたいものがあり、日が落ちてもまだ残る熱っぽさから逃れるために、ここ数日は毎日鳥井の家へ押しかけている。程よい温度に保たれた室内と、よく冷えたビールにおいしいおつまみ。ここが地上の楽園だったのかなどとこの部屋の住人が聞いたら不機嫌に眉をしかめるだろうことを考えながら、冷奴に箸を通す。 「鳥井、夕飯なに?」 「うるさい、飲んだくれ。もうすぐできるから大人しくしてろよ」 つれない返事だなあと思いつつ曖昧に返事を返す。こちらを振り返ることなくぶつぶつと文句を言っているけれど、なんだかんだ言って楽しく料理をしていることを僕は知っている。 普段は寝室で仕事をしているくせに僕が来るとリビングにも冷房がついている。自分は飲まないくせにいつも酒が常備してある。何日か空けてから尋ねると迷惑そうにしながらも足取りが軽くなる。僕の訪問を喜んでいる様子が節々からわかるというのに、彼はそれが僕にばれていないと思い込んでいるらしい。今だって、下手くそな鼻歌なんか歌って。 いそいそと調理をする鳥井の姿が、僕はとても好きだ。横顔や手元を眺めるのも楽しいけれど、なにより、この特等席に座って酒をたしなみながら、薄い背中があちこちするのを見つめるときの至福。様々なものを背負って今にも潰れてしまいそうな背中が、僕のために動いている。細い腕と首と、頼りないばかりの体で、僕のために鍋を振るう。これ以上の幸福があるだろうか。 彼のことを愛おしいと思うようになってから、それまで以上に鳥井の背中が好きになった。顔が見えなくても背中を見れば感情が分かるというくらいに、僕は鳥井の背中を見て生きている。 たまにその背中が、いつもよりずっと小さく見えることがある。何か苛立つことや寂しいことがあったとき、決して顔には出さないけれど、背中がきゅうっと小さくなる。そのときの様子が僕はあまり好きではなくて、いつものように薄いけれど強い背中に戻ってもらえはしないかと、鳥井の機嫌を取ることに専念する。この背中がさみしくないように、愛情を受け止められるように。いや、違うか。僕の愛情を受け止めてもらえるように、僕は鳥井の背中に一心に視線を送る。 僕は鳥井を愛したかった。背中ごと、手足や不機嫌な顔や子どもみたいな性格からすべて、愛したいと思っていた。そしてそれを彼もまた、求めているのではないかと。自分の周りには希薄な関係しかなかったと思い込んでいる彼は、愛情に飢えているのだろう。僕がどこまでも愛して、そうして彼もどこまでも愛されて。きっとうまくピースが当てはまることだろうと、ずっとそう思っていた。 だから僕は、彼の背中が小さく見えるときに後ろから抱き締めるのは僕の役目であるのだと、そう確信していたのだけれど。 「鳥井」 「なんだよ静かにしてろって言って」 言葉はそこで途切れた。溢れ出しそうな感情に任せて台所に立つ鳥井の手を握り締めて、僕はかわいらしいつむじをじっと見つめる。酔っているのだと言われたらその通りだろう。こんな、雰囲気もまるでない状況で、それでも僕は情愛が抑えられなくなっていた。 鳥井。もう一度小さく囁きかけると、ようやく上目にこちらを見る。何となく潤んでいるように見える瞳を自分の都合のいいように解釈して、手に力を込める、 「鳥井、僕はお前が」 ぱしりと鋭い音を立てて、手がふり払われる。音にすることのできなかった言葉と痛いくらいに強い力で拒絶されたことに、理解が間に合わない。 鳥井はこちらを見ていなかった。先ほどまでと同じように鍋に向かいなおして、ぐるぐると掻き混ぜている。 「馬鹿なこと言ってないで、皿の準備でも手伝えよ。もう完成だから」 馬鹿なこと。聞いてもいないくせにどういう言い草だと頭に一気に血が上った。酔った勢いとはいえ僕は一世一代の告白をするつもりだったのだ、それを何も聞かずに否定するなんて、いくら鳥井でも許されない。怒鳴りつけそうになって、ふと、鳥井の様子がおかしいことに気が付いた。 肩が、震えていた。頬からは血の気が失せ、ひたすらに鍋を掻き混ぜる手には冷静さが見られない。何より、さっきこちらを覗き見たときの瞳。深海を思わせる瞳の中には、怯えが含まれていなかったか。 僕は愕然とする。鳥井に怯えられている。彼の絶対の味方であると自負している僕が、彼に恐怖を与えている。信じたくない事実だった。喉に何かが詰まっているような気がして、呼吸すら忘れた。こちらを向いた鳥井の目がいつも通りなことに、ようやくひゅっと空気を肺に送り込む。 「坂木? どうした」 普段と何も変わらない。気怠そうだけれど気遣わしげな表情。鳥井だ、僕を大切だと全身で教えてくれる鳥井だ。けれど何事もなかったかのように接してくる時点で、鳥井が僕を受け入れていないことは明白だった。 気付いていたのか。僕が鳥井を乞う気持ちを。抱き締めたいのだと願っていることを。気付いているうえで、知らない顔をしていたのか。それはきっと気付きたくなかったという意味で、僕の気持ちにこたえることはできないという意味で、このままでいたいのだという意味で。 何事かをいつにない饒舌さで語っている後ろ姿を目前で見つめながら、僕にその背中に触れる権利はない。鳥井が嫌がった。それだけで、彼の近くにいられないことが苦痛でしかない僕は動けなくなる。鳥井はまだ、何かをしゃべっている。それに返事をすることもできず、ぐつぐつと鍋の煮える音が耳を打つ。 鳥井の背中は薄い。けれど、守ることは許されない。 |