幸福論ひとつ いつからだろうか。友情だと思っていたものの形が変わったのは。 柔らかな髪を撫でていた指は自然に彼の頬を目指すようになったし、僕の舌を喜ばす料理の数々よりも褒めちぎった言葉に照れたように顔を背ける仕草に夢中になった。 愛、というならば、これまでの感情も間違いなくそうだった。家族に向けるものに近いほどの強い気持ちを抱いてはいたはずだ。関係の始まりがどうであろうと、僕にとって鳥井真一という存在は何よりも優先すべき大切な大切な人である。それは今も少し前も変わらない。しかしそこに、いわゆる恋、という字が加わってしまったせいで、僕は鬱々と悩まざるを得なくなってしまったのだ。 恋愛となると、ひたすらに慈しむ気持ちだけではどこか物足りなくなる。醜いくらいの独占欲も働く。情欲だってわかないわけじゃない。ただ近くで見守っているだけでは物足りなくなって、もっと深く、彼に自分を植え付けてやりたいと思う。誰にも渡したくないし、誰の目にも映したくない。 さんざん友情にしては行き過ぎているというようなことを言われてきたけれど、そしてそれを笑い飛ばしてきたのだけれど、この体たらくだ。可能ならば僕は鳥井と恋人同士になりたい。愛したいし愛されたい、男として。 僕のこの感情は、僕たちを一体どうするだろうか。 久しぶりに飲みに行った。ここ数週間は酒を飲むのは鳥井の家でというのが恒例だったけれど、同僚が結婚するというのでそのお祝いに駆り出されたのだ。付き合いが悪いと言われはするが、恋人がいるという話になっているのでこれまでどうにか逃れてこられた。しかし、さすがにおめでたい場を濁すようなことはしたくない。それに僕自身同僚を祝いたい気持ちは多分にあった。 ほどほどに、ほどほどにと言い聞かせつつついつい飲みすぎて、どうにか三次会の誘いを断ったのは終電にかろうじて間に合うくらいの時間。ぐらつく頭を押さえながら飛び乗った電車には、僕と同様に足元のおぼつかないサラリーマンが何人か乗っている。 ふっと溜め息を吐き出して、視線を窓に向ける。映るのはどこか疲れたような、けれど緩んだ表情をした男の顔だ。毎朝鏡の前で対面している、見慣れた男の顔。しわもまだ出てきていないし白髪もない。父親から遺伝されるのなら、そこまで髪が薄くなることもないだろう。世間的にはまだ若いとされる顔立ちであるし、実際まだまだ若手と言える年齢だ。 結婚する同僚は、確か一つ上だっただろうか。三つほど年下のかわいい嫁さんをもらったと嬉しそうに話していた。いつか一軒家を買うのだ、子どもは三人欲しい。夢のある話を酔いに任せて延々と語る表情は、希望に満ち溢れていた。 幸せそうだと思った。こうなりたいと思った。たった一つしか違わないのにどうしてこんなにこの人は幸福そうなのだろうと、僕には何が足りないのだろうと首を傾げた。 たとえばお見合いをして、趣味のあう人を見つけて結婚したならば、僕は幸せなのだろうか。仕事で昇進して安定した給与をもらって、同僚の話すように家を買って子どもを授かったなら幸せになれるのだろうか。 ふいに、鳥井の姿が頭に浮かんだ。僕は彼を色々な意味で好いているけれど、彼はきっとそうではない。しかしだからといって彼を諦めて他の誰かと一生添い遂げられるのかと聞かれたら、僕にはわからないとしか言えないのだ。無理やりに自分のものにしてしまうことも、諦めることも、現状から僕たちの関係が変化する様子はあまりに想像がつかなくて、だからこそ少し恐ろしい気持ちにもなる。 もし、愛しているのだと告げたら、鳥井はどうするのだろう。 アナウンスが僕のアパートの最寄り駅の名を告げた。足取りの重いサラリーマンたちに合わせてホームへ降り立つ。 時計を確認すれば、日付が変わる直前だった。もう鳥井は眠っているだろうか。最近少し仕事が立て込んでいるようだったし、もしかしたらまだ起きているかもしれない。なんだか無性に彼の小憎たらしい声を聴きたくて、携帯電話を取り出した。きっと冷静なつもりでかなり酔っていたのだろう、普段の僕ならいくら鳥井相手だといってもこんな時間に電話なんてしないのに。 呼び出し音が何秒か鳴って、ぷつりと途切れる。電話口の向こうからするのは、不機嫌そうな低い声だ。 『……もしもし』 「もしもし鳥井? 坂木だけど」 『そんなことわかってる。何の用だ』 「ううん、特に用事はないんだ。ただちょっと声が聴きたくなってさ。もう寝てた?」 『起きてたけど、こんな時間に非常識な奴だな。というか坂木、お前酔ってるだろ』 「ばれたか。外で飲むの久しぶりだったからか、少し飲みすぎたかも」 『あっそ』 心底興味なさそうな返事に怒っているのかとも思ったけれど、相手をしてくれているだけまだましだろう。不機嫌を装っているだけで、連絡があったことに少しだけほっとしている様子が、長年の付き合いのおかげか声だけで伝わってくる。鳥井は僕に対して、少しだけ心配性だ。母親を気に掛ける子どものようで微笑ましいとともに少々切なくさせられる。 今日の飲み会の話を適当にしながら足を進める。カタカタとキーボードを叩く音がかすかにするので、僕の話をBGMにして仕事をしているのだろうか。どんな話をしても生返事しか返ってこないけれど、うんだとかああといった声が耳に入るだけで胸が満たされていく気がする。 この、静かな声がすきだ。時折軽く喉を鳴らして笑う音がすきだ。馬鹿だなあと失笑するのだって、どうしようもないくらいすきなのだ。 「……あ」 『ん? どうした』 ふと話から意識を逸らして、あたりを見渡す。なんということだろう、随分歩いているなと思ったら自分のアパートを通り過ぎてしまっていた。ここは、鳥井の家から百メートルもしないあたりだ。見慣れたマンションが目に入って、自分の間抜けぶりと現金さに苦笑するしかない。 「通いなれてるからかな、足が勝手に鳥井のマンションに向かってたみたいだ」 『は?』 「あと一分もしないうちにお前の部屋に着けるくらいの距離にいる、ってこと」 『馬鹿かお前……』 呆れかえったような溜め息が聞こえて、続いてパソコンをシャットダウンする音が届く。椅子のきしむ音がする。 ああ、これだから、これだから。 『寄ってくんだろ。茶くらいなら出してやるから、早く上がってこいよ』 そういってぶつりと遠慮なく電話は切られた。すぐ目の前に迫ったマンションを見上げれば、鳥井の部屋のリビングの灯りが点くのが見えて、こんな時間にもかかわらず彼は僕を受け入れてしまうのだなとなんともいえない気持ちになる。 鳥井の臆病な心はどこまで僕の侵入を許すだろう。彼の一番である自信はあるけれど、同じ種類の好意が返って来ることははたしてあるのだろうか。そして僕は、それをずっと待っているだけの覚悟が本当にあるか。 先のことは分からないけど、今はものすごく幸せだな。照れくさそうにそう笑った同僚を思い出す。それならば今の僕だってたまらなく幸せだ。これからどうなるのかはわからないけれど、様々な障害や不安はたしかにあるけれど、結婚して子どもができてという世間一般の幸福をふいにしてもいいのではと思ってしまうくらいには、幸せなのだ。そんな幸せを鳥井も感じてくれていたらというのは、過ぎた願いなのかもしれないけれど。 「遅くに悪いな」 「そう思うんならさっさと帰って寝ろよな」 こうして声を聴いて姿を見て、少なくとも今はそれだけでいいと思うのだ。 END. 2012/06/03 |