目の覚めるような青 何をしていても気持ちが入らなかった。まるで水にぬれた某ヒーローのように力が出ない。何もしたくないし何も考えたくなかった。 日曜だからといって昼間から一人河原に座り込んでいる高校生など、あやしいことこの上ないだろう。道行く人々は訝しげな視線をこちらに向けながらも、秋良の鋭い目つきに気付くと足早に通り過ぎていく。 冬が過ぎ去ってだんだんと水温も上がっているだろう川の水が、日の光をきらきらと反射する。まるで宝石か妖精のように、水の上を走り回る。楽しげな光景に秋良は溜め息を吐き出した。何もかも嫌だった。気分の乗らないときに楽しい景色を見たところで心は決して満たされない。 春と呼べる日がきて、もう何日になるだろう。日中の気温は日々上がる。時折半袖で走り回る子供の姿も見られるようになり、家からはこたつがいなくなった。 秋良は進級した。今年高校三年生ということで、受験だか就職だかの話を毎日聞かされる。何をしたいか決めていないにしても、ある程度目星はつけておけよと担任は言った。渡された大学のリストには、日本中の大学の名前が載せられている。当然、空環から遠く離れた街のものが。 冬が終わった。春がやってきた。街は少しだけ明るくなって、それまで隔離されたかのように空環から出られなかったことを人々は忘れた。神隠しの噂などもう覚えている人はいない。いなくなった誰かのことも、もう覚えていない。 無気力といってよかった。空を鳥が飛ぶのでさえ憂鬱な気持ちで見送っている。青い空の中を雲が涼しげに泳いで、太陽がじりじりと肌を焼く。秋良はまた一つ、溜め息を吐いた。 多くのものをなくしたと思う。初めてできた友人。二番目にできた友人。二人とも憎きあやかしの腹に収められてしまったという。幼いころからの目標だった街の解放はなされたけれど、彼らのことを思うとひどく嫌な夢を見ることがある。なぜ助けられなかったのかと、どうして彼らは今自分のそばにいないのかと。自責の念ばかりが胸に押し寄せる。記憶の中でゆらいでしまった曖昧な友人たちの顔が、声高に秋良のことを責めたてる。 後悔していた。いろいろなものを失って、残ったのは自分一人。あやかしのいない平和な街で、もう目的もないままに平凡な日々を送る。達成感のようなものを感じたのは一瞬で、今はただ後悔と罪悪感でいっぱいになる。 けれど、いつだってそうだ。悪夢は長く続かない。悲しそうな表情でこちらを見る友人たちが、ぱっと消える瞬間がある。舌足らずに秋良の名前を呼んだ少年の声が頭に浮かぶたびに、友人らは表情を和らげて、そして怖くて悲しい夢は終わる。 あきよし。 散々からかうように呼ばれたと思うのに、思い返すのはいつも静かで穏やかな声音ばかりだ。子どもが優しく子猫の名前でも呼ぶような、そんなあたたかな声。怖がらなくていいと秋良のせいではないと、少年は悪夢を食べる。 目が覚めるとなぜか目元が濡れている。毎朝だ。悲しいのか寂しいのか悔しいのか。何もわからないけれど、ただ胸がきしきしと痛む。友人たちのことを思ってではなく、あの声を思い出して。 どこにいるのだろう。何をしているのだろう。帰って来るのか来ないのか。 会いたかった。呼びたかった。触れたかった。 少しずつ少しずつ少年との思い出が薄らいでいくのを感じていたけれど、それでもただひたすらに求める気持ちだけが残っている。遠くいなくなっても、秋良のせいで失ったものがあろうとも、いまだ秋良を守ってくれている少年。会いたいし呼びたいし触れたい。 高校を卒業しようともこの街から離れることはないだろう。電車に乗って遠出することもないようにする。家業を継ぐことになるかもしれないし、そのときはあの神社を綺麗なままに保っておくことにしよう。いつ彼がここを訪れるのか分からないのだ。そのときに会うことができなければ、秋良が責任を放棄したことになる。 そして何より、彼に会いたい。 何もする気にならなかった。何もしたくないし何も考えたくない。ただこうしてずっと、少年がいつものように笑って目の前に現れるのを待っていたい。それまで何を求めたくもない。 さきのものよりも深く息を吐いて、ばたりと地面に倒れこむ。すぐ後ろを歩いていた人がぎょっとするのを感じていたが、もうどうでもいい。眠ってしまいたかった。夢の終わりにだけあの声が聞こえるのならば、それで満足な気がした。 それでも、薄く目を開いた先にあるのは、眠気も遠く吹き飛んでしまいそうなほど眩しい青ばかりで。 その中を飛ぶ鳥がやはり少しだけ憎らしいけれど、眩しい空に逃避だけはするなと言われているような気になる。すっかり弱ってしまった秋良のことを、叱咤しているように思える。少年に会ったときそんな情けない顔をしているのかと、そんなに脆弱な信念を突き通したのかと。 あの少年は、帰って来ると約束したのだ。 青い空を睨みつける。今夜は悪夢を見ない気がした。 END. 2012/06/03 |