好きだなんて言ってあげない





何の苦労もしたことがないというような、指先が好ましかった。傷一つないそれは繊細で不器用で、とても冷たい。愛情を知らない手なのだといつか彼の相棒の狐が言っていたんだったか。きれいで、頼りなくて、悲しくて、かわいそうな指先。
そう、たとえばこの指先だとか、髪質だとか、肩の形に腹の薄さ。ふとしたときにいいなと感じるところはいくつかある。隣にいる一分一秒ごとに、苛立ちを感じない程度だったはずのいいなが好きだなに変わり、深夜に夢の中で愛おしさに変わったりする。
好きだな、と思う。少しくらい腹の立つことがあっても体中に散らばる好ましい部分を頭に浮かべると憎めないような気持になる。会わない日に好きな部分を思うたびに、胃のあたりが熱くなる気がする。少しずつ少しずつ、かたつむりが這うように好意は膨らんでいく。
けれどそれを決して、本人に伝えることはない。



「どうしたの、あきよし」

声をかけられて、ようやく意識がはっきりとしてきた。少し前を歩いていたはずの由はいつの間にか秋良の目の前でこちらを覗き込んでいた。わからないくらいにある身長差のせいか由のつりあがった瞳は上目がちになっており、普段よりいくらか幼さを感じさせられる。
不思議そうな顔に、ぶらぶらと揺れる手を見ていたのだとは決して言えない。秋良は平静を装って眼鏡を持ち上げる。

「どうもしていないが、なんだ急に」
「うそ。さっきからオレの話聞いてないし、ぼうっとしてるじゃない」
「そんなことはない」
「あるよ。相槌すらくれないんだから。何か考え事? オレでよかったら相談に乗るよー」

にんまりと口端を持ち上げてから、先ほどからのように楽しげに手をぶらぶらとさせ始める。子どものような仕草が妙に似合っていて、また短い間見惚れてしまう。
考え事なら飽きるほどしている。解放されなかったこの街をどうすればいいのか、あやかしたちへどう対応すればいいのか。幼い日から今まで夢見てきたあやかしへの報復がようやく目に見えてきたのだ。人を、大切なものを守るためにどうやって戦えばいいのか。朝も昼も夜も、嫌になるほど考えている。
けれど、確かにそれだけではない。耳が聞こえなくなるほどにただそれだけに集中してしまうのは、いつだって由のことを考えているときだ。頭をかき回したいだとか、頬を撫でたいだとか、手をつなぎたいだとか、そんな気持ちになったとき、もう周りのことも何も見えず何も考えられなくなる。ただ、由がそこにいて、自分がここにいる。それだけで世界が成立してしまうような感覚。
そう感じるたびに由だけがどうして特別なのかが気になってしまって、物思いの連鎖は止まらない。考えても考えても行き着くのはいつも同じところで、だから秋良はその感情を決して認めようとはしないのだ。

「つばき待ってるかな。あきよしが本屋に行きたいなんて言うから。漫画でも買ったの?」
「馬鹿言うな、参考書だ。そもそも試験勉強のために椿の家へ行くというのにどうしてお前までついてくるんだ。勉強の邪魔をしかねん。ねぐらへ帰れ」
「うわあ、そういうこと言う? つばきが誘ってくれたからいいんだよー」

きゃらきゃらと耳をくすぐる笑い声に、意識しないように気をそらす。どうしても目の端に移りこむ細く伸びた手を、瞼の向こうに隠そうとする。
気づきたくない、認めたくない感情が溢れ出しかける。じっと波が通り過ぎるのを待って、表情だけはいつものように興味のないふりをする。自分をごまかしていく。
そうやってだんだん、一分ごとに一秒ごとに追い詰められていくのだ。
自分を偽って、いつか由を失ったときに今を後悔するのだろうか。それとも、その前に知らないふりに疲れて暴発してしまうのだろうか。自分がわからなくて笑いがこぼれる。
瞼を上げると同時に飛び込んでくる、ゆらりと揺れた細くてきれいな指。そんなもので何が守れるのだろうと、何がつかめるというのだろうと、いつだったかあざ笑おうとしてできなかった。そのときにはもうすべてが手遅れだったのかもしれなかった。

「あきよし遅いよ。はやく!」

ぐいと腕をつかまれて引っ張られる。存外強い握力に眉間にしわを寄せるけれど、小さく悪態をつくだけで振り払いはしない。
冷たい手。悲しくてかわいそうな指先。もしかしたら始まりは同情だったのかもしれないけれど、それももはや関係ない。感情にうそをつく限りは、同情も胸を占める恋しい気持ちもすべてないことになるのだから。
けれどこうして由から求めてくるときくらいは彼に触れていたいのだと、そう思ってしまう。その時点でもう、敗北は決定しているに違いない。
それまでは、言わない。好きだなんて、絶対に言えない。





END.

2012/06/03


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