雨脚


黒由/ED7





朝から雨が降っていた。起きたばかりのときは髪を湿らす程度だったものが、一分一秒と時間が進むごとに強さを増している。このままでは外出するのが大変になると、黒狐は動物の姿に変化して屋根の下から飛び出した。
神社にはヒトの姿はない。あやかしでさえ雨だからと屋内に引きこもっているのだ、わざわざこんな奥まったところへやってくることもないだろう。
けぶる景色に目を凝らし、足を滑らせながらも駆けていく。彼が待っているのだからと思えば、少しくらいの寒さなどたいした問題ではなかった。
目指すのはススキ野原。きっと今日も、黒狐の相棒は一人で眠っている。
毎日毎日、朱史に教わった歌を歌いに行くのが黒狐の日課だった。もしかしたら目を覚ますかもしれないなどお伽噺のようなことを信じているわけではない。ただ、何もせず眠っているだけの彼が、穏やかにいられるような子守歌になればいいのにと思っている。歌などなくても眠っていられると、彼は頬を膨らませるかもしれないけれど。
しとしとだった雨が、ぼつぼつにかわる。毛を撫でていく雨の粒が大きくなればなるほど、黒狐は足を速める。
さみしいだろう。一人で眠っているのはさみしくて、つまらないだろう。ずっとそばにいることはできないけれど、一日に少しくらいは近くに座って、歌の一つでも歌ってやりたい。今日は朱史はミコトにつかまっているし子どもたちは学校だから、自分しかいないけれど、きっと彼は、由はそれで十分だというだろうと確信している。
やはりヒトの気配のしない通りを突っ切り、いつか由と子どもたちと見た風景を通り抜けていく。思い出がふつふつとわいてきても気が付かないふりをして、雨の中を走る。
ススキ野原は、雨のせいかどことなくしんなりとして見えた。風に揺れてさわさわと天を目指しているはずの穂は皆俯いて悲しげである。

「由」

返事はない。もう何日ものことなので分かっている。彼はこの地に眠っていて、姿を現すことは決してない。自分たちを守ってくれているのだ。あの、寝汚くてぼんやりしていた彼が。
本当は黒狐が、彼のことを守るはずだったのに。

「今日は三人とも来ねェけど文句言うなよ。オレも雨だからあんま長くはいれねえけどさ」

ぼつぼつだった雨はざあざあにかわり、人型になった黒狐の髪を容赦なく湿らせていく。まとった着物も黒く変色していくけれど、それには構わずやはり濡れそぼった草の上へ腰を下ろした。
朱史に教えてもらった歌を思い返して、ぽつぽつと音にする。まだ完全には覚えられていないけれど、子守歌には十分だろう。

「あかや、あかしや、あやかしの」

呼ばれたら帰って来るんじゃないのかと朱史は言っていたけれど、これは由を呼ぶための歌ではないのだ。かつてあやかしに食われ神隠しにあったヒトを探し求めて歌ったものなのだろうと黒狐は思っている。
由は自分の意志で街を、あやかしを守った。隠されたわけではない。だって彼はいつだってここにいるのだ。神隠しにあったわけではない彼をこの歌で呼ぶのは、少しだけずるいような気がしてしまう。
歌っても歌っても帰って来ることはない。彼が帰りたいと願わない限り。
ざあざあの中に、ばしゃんと水のはじける音がして、黒狐は歌うのを中断する。耳をすませてみても何の気配も感じない。誰もいない。分かっていても息を殺して、気を張り巡らせてしまう。
意を決して背後を振り返り、つめていた息を笑いとともに吐き出した。思わず自分の行動に笑ってしまう。何をしているんだろう。

「いるわけねェってのにな」

背後には何もない。ばしゃんは木の葉から雨粒がこぼれた音だったらしく、細い雨の簾の向こうはいつもと変わらない光景が広がっている。
雨の音が足音のように聞こえたのだ。誰かが後ろにいるのかもしれないと思った。そしてそれはもしかしたら、黒狐が会いたいと思っている相手なのかもしれなかった。眠ったままなのだと、起きだしてくることなどないのだとわかっていてもそう思ってしまう。なんだかひどく馬鹿らしくて間抜けで、笑いが止まらなくなっていく。
ばしゃん、と、また音がする。下駄が水を跳ねた音なのではないかと夢想する。今にも笑って、おはようごめんねと、頭を撫でてくれるのではないかと。
そう思うとたまらなくなって、黒狐は草の上に横になった。笑いもいつの間にか止まって、目の奥がつんと痛い。この雨の中なら、少しくらい気持ちを吐き出したって誰にも見つからないだろう。さみしいのだ会いたいのだと零しても、雨粒と雨音がすべて掻き消してくれるはずだ。ぎゅうと目をつぶる。涙は流れない。
ばしゃんばしゃんと雨の音。彼の足音に聞こえて、今にも走り出したくなる。瞼の裏で由が楽しそうに笑っている。

「さみしいよ、由」

笑ってないで返事をくれよ。
雨はやまない。きっと明日も誰も来ない。





END.

2012/06/03

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