春の手草に惹かれ落つ





桜の木の下には死体が埋まっているらしい。
由にその話を教えてくれたのは、花粉症に苦しむ眼鏡の友人だった。高校にいくつも植えられている桜の木を眺めているときだっただろうか。なんとも憎らしげな顔をして言っていたので、もしかしたら桜の花粉にもアレルギーを持っているのかもしれない。
神社には桜などなかった。それに由はそもそも室内から出ることがあまりなかったので、本物の桜というものをこのとき初めて見たのだと思う。
本やテレビでしか見たことのないそれはとても美しかった。かわいらしい薄桃色の花弁が数えきれないくらいに広がっていて、まるで空全体が桜に埋め尽くされてしまったようだった。
始まりの季節、桃色の世界。こんなに美しいというのに、どうして死体なんてものと結びつけるんだろう。訝しむ由に、秋良は眉間に皺を寄せて言った。

「綺麗すぎるから汚したいんじゃないのか」

そうか、と思った。ヒトビトが何を考えているのかはよくわからないけれど、綺麗すぎて眩しいという気持ちはわからないでもない。嫉妬すらしてしまうくらいに、咲き誇る桜は美しかった。だから少しでも汚して、手の届くものであってほしいのかもしれない。
でももし自分のものにできないのなら、誰も欲しがらないように。ぐちゃぐちゃに壊してしまうのもいとわないのだろうか、ヒトは。
疑問は誰かに尋ねることもできず、灯吾に呼ばれることで由と秋良は桜から遠ざかった。ただ美しいだけだった花弁が少しだけ恐ろしく思えて、振り返ることはできなかった。



影の時間が去ってから、春が過ぎ秋が過ぎまた冬がやってきていた。それまでの生活から変化を余儀なくされた由にとって、過ぎて行った時間は決して平穏なだけではなかった。
自分を養ってくれたあやかしはもういない。食事は椿家にお邪魔しているけれど、ねぐらである神社の手入れは自分でしなければならない。最初は、朝起きてご飯を食べて掃除をするというそれだけがどうしてもできなかった。
今は、灯吾や秋良はもちろん、暇を持て余す朱史や夜市に彰俊。外出中に知り合った街の人などに色々と教えてもらいながらどうにかこなしている。苦労も多かったけれど、それなりに充実した日々だ。
この日も、朝の掃除を終えた由は街へ出かけていた。商店街で店をやっている奥さんにもらった差し入れのお礼をしなければならなかった。少し前からこうして誰かに食べ物をもらうことが多くなり、米くらいなら炊くことができる由は神社で食事をとるようになっていた。
それでも週に二・三度のことであり、基本的には椿家で団らんに混ぜてもらう。今日はつばきは何を作ってくれるだろう。胸を期待で膨らませながら、由は街を歩く。
何人かに声をかけられながら用事を済ませ、由は椿邸を訪れた。こじんまりとした家屋はこの時期真っ赤な椿が咲き乱れているおかげでとても見栄えがいい。桜もよかったけれど、由はこの花のほうが好きだ。大切なものたちのことを思い出すことができる、大切な花。
鮮やかな景色に微笑みながら、庭へ足を踏み入れる。今日は平日なので灯吾も、おそらくは夜市もいないだろう。朱史ならば返事してくれるかもわからないなと思いながらインターフォンを鳴らす。ぴんぽーんと軽い音がして、中からぱたぱたと誰かの足音が聞こえた。

「……はい?」
「あれ、つばきがいる。おはよう。どうしたの?」
「ああ、由か。おはよう」

億劫そうに顔をのぞかせたのは、由の友人でありこの椿邸の住人である灯吾だ。朱史が出てくるという予想を覆された由は首を傾げる。
昼ごはんにも早いようなこの時間に灯吾が家にいるのはおかしい。学校が休みだという話は昨日会った秋良はしていなかったし、制服すら着ていない灯吾は体調が悪そうでもない。存外真面目な彼が学校をサボるということもないだろう。何か重要な用でもあったのだろうか。
疑問符を浮かべる由に灯吾は苦笑する。

「どうしたっていうか……。まあ、入れよ」
「うん。お邪魔しまーす」

招かれるままに扉をくぐる。廊下は冷えているけれど、ストーブがついているおかげか室内はじんわりと温かい。腰を下ろして一息つくと、灯吾も菓子鉢を持って向かいに座り込んだ。どうやら今、灯吾は一人らしい。

「今日も学校あるんじゃないの?」
「そうだな。けど、俺は自主休校。腹が痛いってことになってるから」
「えー、それ仮病じゃない。つばきがそういうの珍しいね。何か嫌なことでもあったの」
「あったといえばあったよ。けど、今日休んでるのは違う理由」

相好を崩す灯吾に、由も嬉しくなって笑みを浮かべる。嫌なことがあるわけでもないのに学校を休むというのはよく理解できなかったけれど、灯吾が言うのならそれも間違いではないのだろう。

「ずっと由を待ってたんだ。やりたいことがあるんだけど、付き合ってくれるよな?」

もちろん、と大きく頷けば、灯吾はますます笑みを深めた。本当に今日は機嫌がいいようだ。灯吾の手伝いをすることができるのならばどんなことでもしよう。由は頼りにされているという喜びにひっそりとはにかむ。
促されるままに下したばかりの腰を上げ、廊下へ出る。手を引かれるままに冷たい床を踏みしめる。
どうやら灯吾は一度外へ出るつもりらしい。先ほど入ったばかりの玄関を過ぎ、庭へと足を進めていく。無言で引きずるように連れて行かれることに少しだけ不安がよぎった。由の前を、振り返ることなく歩いているので、灯吾の表情をうかがうことはできない。

「つばき?」
「なあ、由。知ってるか?」

庭の椿の木の前でようやく灯吾は足を止める。由の腕は離さないし、相変わらずこちらを向く気配もないけれど。

「椿の木の下にはな、死体が埋まってるんだってよ」
「ええ、それって桜の話じゃないの? あきよしが前そんな話してたよ」
「なんだ、あっきー話しちゃったのか。けど、桜より椿のほうがそれらしくないか? 死体の一つや二つ埋まってないと、こんなに真っ赤にならないだろ」
「うーん……? そういうもの?」
「そういうものなんだよ。だから今日は、それを解明してやろうと思って」

そういって振り返った灯吾の手には、大きなスコップが二つ握られていた。どうやら先に準備していたらしい。由が受け取るのを見て取ると、次にはざくりと椿の根元を掘り始めている。
都市伝説の解明に勤しむだなんて、灯吾にも子どもらしいところがあったのか。普段の態度との違いになんだかほっこりとして、由はいそいそと掘るのを手伝い始める。
ざくり、ざくり、ざくり。
一つ掘るごとに穴は深くなっていって、薄い茶色だった地面が徐々に黒ずんでいくように感じる。周りに積まれる土も高くなる。灯吾も由もひたすらに無言で、ただざくざくと、地面を掘り進んでいく。
穴は深く大きくなって、いつしか掘るためには穴の中に入らなくてはならないほどになった。木の根や石や虫などは何度も見かけたけれど、それ以外のものは見当たらない。狭い庭には不釣り合いなくらい大きな穴がぽっこりと空いたころになって、灯吾はやっと深い溜め息を吐いた。

「出てこねえな、死体」
「ほら、やっぱり椿じゃなくて桜なんじゃない。だいたい、死体見つけてどうするつもりだったの、つばきは?」
「あー。まあ、どうって話でもないけど。……休憩にするか」

いかにも残念そうにもう一度息を吐き出して、灯吾は穴から這い出す。続いて上へ出れば、お茶を入れてくるといって室内へ戻っていってしまう。そんなに残念だったのだろうか。ぎしりと痛む節々を押さえながら、由は赤々と咲いている椿の花を見上げる。
確かに真っ赤で綺麗だけれど、桜のように汚してしまいたいと思うような美しさではないと思う。思い出の花というのもあるし、あの儚げでつつましい美しさとはどこか違う、毒々しくて近寄りがたい美しさがあるように感じるのだ。この下に埋まっているのならば死体よりも、もっと悲しくて優しいもののほうが似合う気がした。

「由」

背後から声がして、はっと視線を椿から離す。もうお茶を入れてきたのだろうか。穴掘りはもう終わりだろう。体が痛い。居
間でお菓子を食べてお茶を飲んで、灯吾と休憩をしよう。
振り向こうとした肩を、掌が押さえつける。低い声が、耳を打つ。

「これでずっと一緒だな」

どういう意味だろうと首を傾げ、ふと、根拠のない恐怖が走った。こわい、と口にする前に、世界がぐるりと回転する。
黒く深い穴が見えて、赤い花が見えて、ただれたような木の根が見えて、遠く青い空が見えて。背中に衝撃が走ると同時に、仄暗い色をたたえた海のような瞳を見た。
穴に落とされた。状況を理解しても、なぜそうなったのかが分からない。

「つば、き……?」
「なあ、もういいだろ? 十分ふらふらしたじゃねえか、いい加減戻ってこいよ。ずっとここで俺のそばにいればいいだろ、俺だけいればいいだろ。なあ由。由」

ざくり、ざくり、ざくり。
土を掘る音がする。体がだんだんと重くなって、呼吸も苦しい。赤も茶も青も、何も見えなくなっていく。

「俺だけだって、俺しかいらないんだって言えよ。由。頼むから、由」

何も見えない、耳だけが呼吸をしている。抑揚のない声音は、けれど悲しみのような焦燥のようなものが含まれていて、この人は何をそんなに恐れているのだろうとこちらまで悲しくなってくる。

「由。俺だけの由、なあ」

もう怖いとは感じない。ただ悲しくて、少しだけうれしかった。
こうまでするほど自分を求めてくれたのだ。汚さなければ手が届かないと追い詰められるほどに自分を欲してくれたのだ。誰かにとられるくらいなら壊してやろうと考えてくれたのだ。
息が詰まるほどの感情を浴びせかけられて喜びがあふれ、こうなる前になぜ何も言ってくれなかったんだろうと悲しみが滲む。

「由、返事しろよ」

泣いているような声がして、ぷつりと眠りが訪れる。
黒い世界。誰にも触れることのない伸ばした指先。瞼の裏には痛ましいほど青かった瞳。いとしい人の優しい声音。



誰の目にも入らないように、誰にも奪われないように。
つばきの下には死体が埋まっているらしい。





終わり。

2012/03/15

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