澪標御供





青々と緑が広がっていくのに、相変わらず空はどこか薄暗い。朝も昼間も夕暮れ時に似たもの悲しさが潜んでいるような、ここはそんな街だ。
朱史はからからと音を立てて空環を歩いていた。大きくも小さくもないこの町並みは、何日か散歩して回ればどこに何があるのか把握してしまえる程度のものである。暇があるというのもそうだが神社にいることが嫌になることがままある朱史はよく外出しており、山を越えた向こう以外のことは住人と同じくらいに知っている。
住宅地で、幾人かのヒトとすれ違う。学生でとおる年のほどに見えるだろう朱史に訝しげな顔を向けるが、多くは視線を向けるだけで何も言わず通り過ぎていく。駄菓子屋の近くで騒ぎまわる子どもを横目に見、途中おかしなあやかしに出会いながら、朱史は歩く。
空環高校の制服だったものは、少し前にまとめて燃した。神社では着物、外出する際には灯吾や秋良にもらったシャツを着るようにしている。あの制服が狭塔という男のものだったということに対する不快感も理由の一つであるが、この顔でこの格好をしているのは周りのものにたいして失礼だと思ったからというのが大きい。周りといっても、せいぜい黒狐と子どもたちくらいのものだが。
制服はすべて灰になった。狐の面は黒狐が大切に持って行った。目に痛いくらいの赤いマフラーは、灯吾が来年から巻くのだといって持って行った。秋良は何もいらないといっていたけれど、こっそりと黒狐から面を触らせてもらっていたのを、朱史は知っている。彼を、由を連想させるものを、朱史は身に着けはしない。
由を思い出させるのが嫌だと思っているわけではない。子どもたちはきっといつか忘れてしまうだろうから今だけでも記憶に刻ませておいてやりたいと思うし、黒狐については朱史が何をしようとこれからも長く長く由のことを思っていくのだろう。
ただ、由は由で朱史は朱史だという、その線引きを明確にしたかったのだ。顔が同じでも自分はあの少年ではない。朱史が由と見た目を似通わせると、由を思うものの記憶をあやふやにさせてしまうことだろう。それは悲しくて失礼なことだ。子どもたちにとっても、由にとっても。
朱史はそっと歩みを止める。
骨の浮いた足に履かれているのは、歩くたび涼やかな音を立てる下駄だ。からんころんと跳ねるような音は楽しげで、黒狐がお前に似合わないなと眉を下げて笑っていた。
この下駄は由のものだ。冬でも薄い足元を守っていた下駄。誰かの名前を呼んで、駆け寄って、音と同じく楽しそうに笑顔を浮かべていたのだろう。その様子を朱史は知らないけれど、下駄の音がすると皆がはっとこちらを向くのだからそういうことなはずだ。そのたびに沈痛な面持ちになる面々には悪いけれど、これだけは、下駄くらいは許してほしかった。彼らは足音くらいで由と朱史を混合することはないのだろうから。
この音を聞けば由を思い出すことができた。からからころころと走る音。戸惑いを表すように足をすり合わせたときのかたかたという音。それは朱史に似た見た目の由ではなく、彼自身の魂の音だという気がしていた。他の人がどう思おうと、この容姿は朱史にとって自分のものなのだ。鏡を見てしまえば自分と由が混ざりあって、彼のことを忘れてしまいそうだった。だから朱史が持たず由が持っていた音で彼を描く。
由と朱史を分かつのはこの音だけで、唯一彼を思うことのできる媒体。
からりからりと街を歩く。見知った顔は少ないけれど、この淀んだ空気は知っている。影の匂いを忘れることは、体が変わってもついぞできなかったらしい。ヒトに動物にあやかしに会って、朱史は目的の場所へ歩く。
ヒトが少なくなっていった先に、その場所はある。かつて自分が昏々と眠っていた、狐と争った、縁の深いところだ。

「結局何にも変わってねえんだな」

緑の広がる野原に腰を下ろして笑う。
影もあやかしもいて、朱史がいてシンがいて、ここには由だっている。何も失われなかったといえば失われなかった。何も得られなかったといえば得られなかった。
変化を望んでいたのだ。自分が消えようとどうだってよかった。現状が変わる何かがあるのならば、それはこの街にとって決して無駄ではないのだと思っていた。何かを失うか何かを得るか、どちらになるかはわからなくともそれで変わるのならば。
余計なことをしてと思う。何が助けたいだ。何を望んでいたのかも知らないくせにどうやって助けるつもりだったんだというんだろう。これが救いになったとでも思っているのか。ただの自己満足で、ただ傲慢なだけじゃないか。
罵っても由は返事をしない。懐かしい歌を口ずさんでも同様だ。下駄の音は彼が履いていたときよりも元気がないようで、胸にはぽかりと穴が開いているような気がする。失ってはいないはずの由はここにいるのだけれど、肉体も狐面も赤いマフラーも下駄も、彼は持っていないのだ。けれど魂だけがここに眠っているのだという、死にもせず。
彼を形作っていたのは、由とはいったいなんだっただろう。由という存在が朱史に与えたものは何で、彼は自分にとってどんな存在だったのか。ただただ足元の楔に縋る朱史には、何もわからない。由と接する時間は、自分の感情を理解するには短すぎた。
それでもかつて彼は確かに、彼の魂で、朱史に微笑んだのだ。

「あかし」

声をかけられて顔を上げると、呆れたような顔で黒狐がこちらを見下ろしていた。出かけるとは言っていなかったはずだけれど、わざわざ探しに来たのだろうか。
黒狐は目を細めて野原を眺めて小さく唇を動かした。誰かの名前を呼んだことには気づかない顔をした。黒狐のほうも何事もなかったように眉を寄せる。

「やっぱここにいたか」
「どうした。昼間から街に降りてくるなんて珍しいじゃねえか」
「……主様が呼んでンだよ。なんか用事があるとかで」
「そうか」

ミコトはあの冬の日から終始ご機嫌だ。朱史をそばに呼び寄せては何くれと面倒を見て笑っている。気に入りのおもちゃを手に入れた子どものようだと思う。ただ、この街に暮らす子どもたちのような愚かで優しいだけの無邪気さではないけれど。
自分は生かされている身だという自覚はある。別に今更命の一つや二つ惜しくはなかったけれど、由の代わりになって生きているのだと思えば渋る気持ちもある。代わりの代わりだなんてなんともおかしな話だけれど。
だから生きるために、朱史はミコトが望むのならばそれを叶えなければならない。

「ホラ、行くぞ。ったく、何も言わねェで出てくんだから」
「なあ」
「んあ?」
「俺はあいつに似てるか?」

ぽろりと尋ねると、黒狐は目を丸くして、次にはくしゃりと笑う。

「似てねえよ。オマエのが数倍性格悪そうな顔してる」

まるで泣くように、笑う。
自分は由と自分の境目が分からなくなりつつあるけれど、黒狐や少年たちがそう言うのならばそうなのだろう。由は由でこの街に生きていた。自分は自分でこの街に生きていたし、今こうして生きている。
何も変わることもなく。それはただただ悲しいけれど。

「なあ、お前は救われてんのか」

緑の野原に尋ねてから背を向ける。からからと鳴る音が、誰かの笑い声に聞こえた気がした。





END.

2012/02/02

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