思いの露が溢れぬように





長い影の時間が終わって、春が訪れた。肌を刺すような寒さは身をひそめ、朝夕はまだ少し肩を震わすことはあるけれど昼間は薄着でいても心地よいくらいだ。風が吹いたところでなんということもない。室内に設置された炬燵もそろそろしまわれるのだろう。
縁側からは椿の花の散った木が見える。だらりと座り込んでいた朱史は、ほうと溜め息を吐いた。
あれからいくらか月日は経ったが、いまだに自分がこうして存在していられることに違和感を抱く。世界は自分を残して時間を進め、もはやどこにも自分の居場所はない。家も、人も、体も、人間だったころに持っていたものはすべて明け渡してしまった気がする。
違和感とは違うのかもしれない。疎外感。世界に拒絶されているような気がしていた。
今朱史が手にしているものといえば、狐から無理やり押し付けられた憎たらしい顔をした肉体と、潰しようもない暇な時間。
それと。続いて思い浮かんだ顔に舌打ちをする。
時折灯奈よりも幼く見える表情でまとわりついてくる、細くて弱い狐付きだった子どもを思い出していた。最近になってようやく空環の制服以外の服を着ているところを見るようになったし、神社で昼寝をしたりおっかなびっくり掃除をしたりもしているらしい。細くて弱くて、一人ぼっちのかわいそうな子ども。
由、と名乗った。名前は知っている。けれどなかなか呼ぼうとしない朱史を、しかたないなあといつだって笑う。しかしそう言うわりに彼は朱史が何度言ってもさがのとしか呼びはせず、そういう矛盾を気にさせないくらいにはおおらかな雰囲気を持っているのだろう。
こちらを見つけるとなぜか懐いてくる様子は警戒心の足りない猫のようだ。するりと入り込んできて、いつの間にか、手の届く範囲にいないと不安にさせられる。目が離せられなくなったりする。
何もなくなってしまった朱史にとって、由が親近感のわく相手だということは否定しない。あやかしによって生を弄ばれ、彼らのいなくなった街で途方に暮れるしかない人間として、ある種先輩と言えるかもしれない朱史は由のことを気にかけてはいた。元来人の世話を見るのは嫌いではないのだ、懐かれたらこちらとしても心配な気にもなる。
間違いなく、こういう結末になったから由と出会うことができたということがいえる。これは幸いだ。失ったものはたくさんあるけれど、出会いもあった。
けれどそれと、由を手に入れたのだとするのは違う気がした。確かに彼は大切だけれど、彼は朱史のものでは、決してない。
緑の葉が、薄い水色の中で揺れる。さあっと音を立てる風に知っている匂いが混ざっているのを感じて、朱史は縁側から腰を上げた。
家には朱史以外誰もいない。夜市は仕事があると出かけて行ったし、朱史同様暇な時間はあまりある由はこの家の子どもたちと買い物に行っているところだ。灯奈を迎えに行くついでに商店街に寄るらしいからと言って、一時間ほど前に家を出て行った。一人、朱史を置いて。

「ただいま」
「ただいまー! 今日はハンバーグだよー!」
「お邪魔しまーす」

がらりと音がして、多少の違いはあれどそれぞれ楽しそうな声がする。件の子どもたちだ。灯吾は穏やかに、灯奈は跳ねるような声音で、由は笑いを含んだ挨拶。それに続いて、もうお前の家みたいなもんだろと灯吾が突っ込んでいるのも聞こえる。由は暇があれば椿家に入り浸っているけれど、夜になれば神社に帰っていくのでここに住んでいるとは言えないのだ。彼がただいまと言ってここを訪れたことは未だない。
おなかすいたと言いながらばたばたと走っていく音は灯奈だろう。彼女は外から帰ってくると兄から教えられたとおりに律儀に手を洗うようにしている。玄関にいるのは二人だけ。
外から回って玄関へ向かえば、何やら言い合っている声がするようだ。喧嘩をしているというほどではない。灯吾の焦ったような声が由を制止している。

「ほら、無理だってば。いいから寄越せって」
「大丈夫だよ、家の中までくらいならオレにだって持てるもの。これくらい……」
「バカ。何むきになってんだよ」

覗き込むと、どうも買い込んだらしい大量の荷物を由が一人で抱え込んでいるところらしかった。会話の内容から察するに、力がないとでも揶揄された由が意固地になって自分の力を主張しようとしているのだろう。
体の弱い彼には誰も無理な労働をさせようとはしなかったので、自尊心が傷付けられたのかもしれない。確かに最近は朝もきちんと起きて多少身の回りのことや神社のことをしているようだが、それでも共にいる秋良などと比べてしまうと由は随分と貧相だ。身長でこそ灯吾と同じくらいであるけれど、冬までほぼ寝っぱなしの生活をしてきていた由は健康的な体をしているとは言い難い。
明らかに重たそうな飲み物や野菜が詰まった袋を三つもぶら下げて、よたよたと下駄を脱いでいる様子は危なげながら微笑ましいものがある。顔は見えないが、きっと真剣な顔をしているのだろう。隣で手を貸すか悩んでいるらしい灯吾の顔もどこか温かだ。

「気をつけろよ、転ぶなよ?」
「大丈夫、だってば。つばきにできてオレにできないなんて、ずるいじゃないっ」
「ずるいとかじゃねえと思うけどな」
「いいから、任せてよ」

親しげに会話をする二人の間にある何かに感付かないほど鈍いつもりはない。どういう感情がそこに含まれているのかは明確にわからないまでも、少なくともただの友情ではないのだと思った。
つばき、つばきと、由は灯吾の後ろを追いかけて、灯吾も灯奈を甘やかすような顔で由を好きなようにさせている。その姿はまるで親子のようで、兄弟のようで、恋人のようで。朱史のことをさがのさんと呼んで慕うのとはまた違った気安さがあるように思えてならないのだ。
それに何とも言えない感情を抱いている自覚も、ある。

「う、わっ」

突如聞こえた声にはっと意識を取り戻すと、廊下に足を踏み入れていた由が荷物の重さによって体勢を崩しているところだった。ぐらりと体が大きく傾いで、玄関に倒れこみそうになる。

「ゆ、」
「由っ!」

届くわけもないのに手を伸ばし、耳を打った灯吾の声に動きを封じられる。倒れかけた由の背中を受け止める様子がゆっくりと目に映る。いくら生白く骨のような少年だといっても、似たような体格な灯吾では由を支えるのは難しい。どうにか耐えているのが目に見えてわかるくらいだ。
ふるふると灯吾の腕が震えている。由は慌てて体勢を立て直し、荷物を廊下へおろした。

「つばき! ごめん大丈夫?」
「大丈夫じゃないのはお前だろ! 足くじいたりはしなかったか? 手首もひねってねえだろうな」
「うん、オレは平気。ねえ、つばきは?」
「心配すんな」

気遣わしげに灯吾をうかがう由は、母親を心配する子どものようだ。灯吾のほうもまんざらでもなさそうに苦笑しているのが分かる。

「だから言っただろ、無理すんなって。お前はお前にできる範囲のことやっとけばいいんだよ」
「うん。……ごめんね」
「バカ。謝るなよ」

白に近い髪をさらさらと撫でているのが見える。唇を尖らせながらも気持ちよさげに頭を下げているのが見える。朱史は上げていた手を下ろして、静かに庭へと足を向けた。
ずるいじゃないかと、そう思ってしまうのは傲慢だろうか。別に由は朱史のためにあるものでもないし、今現在彼にとっての一番であるのだなんて思っているわけではない。けれど、それでも仲間なのだと、近しい存在なのだと思わないではいられない彼が、自分を選んでくれないのは理不尽な気がするのだ。
つばき、つばきと、由は灯吾を追いかける。その名前は自分のものであったのに。自分が椿でないから、その名を奪われてしまったから由は灯吾ばかりを求めるのか。
自分が椿朱史のままであったら。そうしたら今はありえないのにそう考えてしまうのは、由の背中を支えられないこの距離が悲しいからなのだろう。拒絶ばかりの世界で、唯一彼の隣だけが何も我慢せず息ができる場所なのに。

「さがのさーん! 帰ったよー」
「ハンバーグだよあかちん! お手伝いしなきゃ!」

自分を呼ぶ声に気付かないふりをして、花のない木をじっと睨み据える。目に力を込めて、強く強く。何かがこぼれていかないように。
春は始まったばかりだ。




END.

2012/02/02

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