そこにあったはずのたったひとつのあなた





不思議な子に出会った。日に日に寒さが増していくような、祭りの日だった。
祭りになど行きたくなかったというのが、そのときの灯吾の本音だった。少年の日に、祭りに母と出かけたせいで彼女が行方不明になってしまったことを思うと、今でもあの風車が憎らしい気持ちになる。
けれどそんなことは幼い妹には関係のないことで、楽しげに祭りへ行ったはずの妹が半ば泣きながら風車をなくしたのだと訴えてきたときには、感傷に浸っている暇などはなかった。誰かに拾われてしまう前にと、慌てて探しに出かけて。
見たことのない少年だった。冬真っ盛りであるのに半袖を着て足元は裸足に下駄をはいて、見ているこちらが肌寒くなってくるほど。笑みを浮かべて声をかけてきたと、それだけならば人当たりのいい人だと思うだけであるのに、彼はなんだかとても不思議な人だった。
灯吾と親しくなりたいと言った。嫌がっても会いに来て、つばきつばきと舌足らずに名前を幾度も呼ばれて、楽しそうに笑っていた。
彼を好ましいと、幼子のようで少しだけかわいらしいとまで思っていたのに。それがまるで必然のように。
母が消えて、自分を守ってくれた男が消えて、妹が、少年が消えて。自分に何が残ったのだろうと、時折考える。
愛おしいと思ったものはみな手には残らなかったのではないか。父や偏屈な友人や自分を慕ってくれる友人は確かにいまだ側にいてくれるけれど、それが不満なわけでは決してないけれど、それだけではどうしても足りない。
欲張りだろうか。これ以上を望むのは身に余ることだろうか。
けれどたとえば、母と男性の魂を宿し、血の繋がりでいうなら弟である彼が隣にいたならば。いや、そんなオプションはどうだっていい。彼が、灯吾を守りたいのだと情けなく笑ったあの少年が今も隣にいてくれたならば、もしかしたら満たされた気持ちでいられたのかもしれないと、そう思ってしまうのだ。
それなのに今は、それほどまでに焦がれている少年の、瞳の色すら思い出せない。



「またここにいたのか、椿」

名前を呼ばれてふと意識を戻すと、見慣れた男が目の前に立っていた。眼鏡とマスクはあのころと何も変わらず、少しだけ身長の伸びた遠近秋良。眉間のしわが昔よりも深くなったように感じるのは、彼が前よりも自分の前で険しい顔をすることが多くなったからだろうか。
神社の縁側にぼうっと座り込んでいた灯吾の隣に、秋良は溜め息を吐いて腰かける。あまりこの場所を好いていないらしい彼だが、灯吾が一人でここにいると大概はそばにいてくれる。それが本当に少しでも灯吾の救いになっているかは別として。
ここ数年で寂れてしまった神社には人気がない。年末年始と祭りのときにのみ遠近から人が遣わされるようだが、それ以外は基本的に無人だ。灯吾と、時折秋良やその父が訪れるくらいだろう。
人の住まない家はだめになる。荘厳だったはずの神社が少しずつ確実に腐れていくのを、灯吾は内側から観察し続けていた。高校を卒業して、大学へ入学して、あの薄暗い朝の終わった日から何年もたっているのに、それでも神社へ通うことをやめることはできない。
秋良はもう忘れてしまえと言った。あれらはなかったことだと、本来ならば交わらなかった存在だったのだと。父は出かけていく灯吾を微笑みを浮かべて見送る。その眼差しが悲痛さだとか諦めだとかを含んでいることを灯吾は知っている。
今掌の中にあるすべてを邪険に扱っているのだということはよくわかっているつもりだ。手にしているものだけを大切にして、なくしてしまったものはなかったことにして、そうできたらどれほど幸せだっただろう。

「あっきー」
「ん?」

しばらくの無言を自ら壊せば、隣から訝しげな視線が送られてくる。いつもならば日が暮れるまで互いに何も言わずに時間をつぶすのだから当然だろう。神社にいる際、灯吾から秋良に話しかけたことは片手で数えられるくらいに少ない。

「あいつの声、覚えてるか」
「は?」
「髪の色とか、目の色とか、なんでもいい。覚えてる?」
「……突然何だ。忘れるわけがないだろう、あんな珍妙な奴」

困惑したような声音に思わず笑いがこぼれる。おかしくて羨ましくて、悔しかった。

「俺は、思い出せなくなっちまったよ」

ただ、不思議な少年がいたということだけがわかっている。彼が昔の空環高校の制服を着ていただとか、下駄だったとか、笑っていただとか細かっただとか、そういう情報だけはいまだ頭の中にきちんと残っているのに、その中身が思い出せない。
髪や瞳の色、爪や耳の形、どれくらいの身長だったか、どんな声だったか。
これほどまでに焦がれているのに、求めているのに、もはや彼の名前すらもよくわからなくなってしまっている。もう、この神社に来て誰のことを思っているのか、それすら曖昧で。
椿がもういらないからなのだろうと思う。椿を食する存在がいないのだから、もうただのヒトビトであるのだから、影の街においていなくなった存在を覚えていてはならないのだ、きっと。
母の顔を忘れた。妹の顔を忘れた。それでも彼だけは、彼だけはと思っていたのに。

「きっと、あっきーもそのうち忘れるよ。妖なんて自分の妄想だったんじゃねえかと思えるようになったときに、忘れる。俺みたいにあいつの顔も声も名前も、存在だっていつか忘れるんだ」

息を呑む音がして、再び沈黙が落ちた。
涙は零れない。消え際に彼が言った言葉さえも思い出せないことがどれほど悲しかろうと、誰のために泣けばいいのかもわからない。
もう一生、足りない足りないと嘆きながら、それでも何がほしいのか分からないまま、生きていくしかない。
ふと隣を見ると、ひどく歪んだ表情をした友人がこちらを見ていた。やはり流れない涙の代わりに、笑いがふつふつとこみ上げる。忘れてしまえと言ったのは自分のくせに、どうしてこんな顔をするのだろう。

「なあ、あいつの名前教えてくれよ、あっきー」

秋良の唇が一瞬の逡巡の後薄く開いて、空気のように漏れた名前の美しさに、灯吾は息を深く吐いた。
そうだ、そんな名前だった。これでまだ、彼を覚えていることができる。名前が形をもって、灯吾の中で少年が息づく。ほんの少しだけ、猶予ができる。

「……由」



由。由。
存在のすべてを忘れても、ぽかりと感じるこの空虚感を忘れることはできないだろう。それだけが彼のいた証であるのなら、満たされなくてもいい。彼が自分にとってどのような存在であったかももうどうでもいい。
椿灯吾には大切なものがあった。それだけで十分だ。
由。
どうせ忘れてしまうなら、一生分の名前を呼ばせて。





END.

2011/12/08

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