その一言が世界を壊す





きっと、一言言ってしまえばすべてが終わる。そう思った。



世界が滅ぶことはなくなって、救世主と魔王と、それぞれの鳥たちが姿を消した。そんな世界にもだいぶ慣れてきた。
銀朱は相変わらず書類の処理に追われている。走り回るのは文官に任せ、部下に指示を出しつつ筆を走らせる。休みなんてもう何か月もとっていない。彩を立て直すのだと、それだけでただひたすらに働いて。
紙に埋もれる執務室には銀朱の机と会議用机の他に、もう一つ小さな机が並べられるようになった。そこに座るのは、魔王と呼ばれた青年だ。

「銀朱」
「なんだ」

視線を上げずに返事をする。じっと向けられる視線は少しだけ棘を孕んでいる。
魔王――玄冬が彩の城で仕事をすることを勧めたのは銀朱だった。生きたいとは思う、生きなければならないとも思う。けれど何をしたらいいのか分からない。魂に課せられた使命から解放された彼は、正しく迷い子だった。そうして深く俯いた大きな男を一人にすることはできなかった。
とにかく人手が足りないのだから、ここで俺の手伝いをすればいい。そういったときの彼は、親を見つけた幼い子どものように、ひどく無防備な顔をしていたように思う。

「そろそろ休憩しろ。もう昼になる」
「そんな時間はない。今日中にこれだけは終わらせると朝から言っているだろう。間に合わせないわけにはいかん」
「……明日は遠征だろう。体を壊す」
「大丈夫だ」

仕事の終わらないいらだちに任せて言えば、口をつぐむ。突っぱねすぎたかと思いはしたが、しばらくしていつも通りの口調で書類を渡してくると出て行った玄冬に、ほっと知らず安堵のため息が出た。
近くにいることが、いつの間にか当たり前になっている。彼がここで働くようになってもう何か月も経っていて、そのあいだずっと銀朱の隣にいた。眠っているときくらいしか顔を合わせないときはない。朝から晩まで、食事をするのも他愛無い会話をするのも仕事に明け暮れるのも、ずっと二人でしている。
部下たちからはどちらかを見つければ大体どちらかがいると噂された。多少の口げんかはしても、少し姿が見えないと何となく不安になる。料理がうまいことを知って、少々偏っているが頭も悪くなく真面目なことも知った。植物が好きで動物が好きで、平和を誰よりも好いていることも知った。
そこに、魔王の性質を見出すことはできない。
これが玄冬なのだと、この優しくてバカで愛おしい男が玄冬なのだと、そう納得したときにはもう、彼のことを大切にしたいと思っていた。幸せにならなければならないし、幸せにしてやれたらと思った。
一言。たった一言口にすれば、きっとそれが叶うのだ。

「銀朱」

ノックもなしに入ってきた玄冬は、手に盆を持っていた。温かそうな湯気をあげる湯呑とともに乗っているのは、彼お手製の焼き菓子だろう。

「書類を提出しに行ったんじゃなかったのか? なんだそれは。俺は休憩はしないぞ」
「それも行ってきた。茶はついでだ。睡眠をとれともしっかり食事をしろとも言わんから、せめてこれだけ腹に入れろ」
「……仕事が終わらなくなる」
「たったこれだけに時間を割いたくらいで取り返せないアンタじゃないだろう。ほら」
「……。すまない」
「ああ」

顔は不機嫌を取り繕いながら、手渡された盆を乱雑な机に乗せる。ちゃっかり自分の分の茶も持ってきているあたり、要領がいい。
口内に広がる、ほどよい苦み。ほのかな甘さのある焼き菓子を齧りながら、筆を手に取る玄冬を盗み見る。
青みを帯びた、真っ直ぐな髪。伏せられた睫毛が頬に影を落とす。ずっと引きこもって仕事をしており銀朱のように鍛えたりもしていないせいで、身長の割にひ弱に見える体躯。顔は少し強面だけれど、派手ではない小奇麗さがあるように思える。いつだったか、侍女が彼を見て頬を赤らめていたことを思い出す。
こんなに、じっと顔を眺めていられるほど近くにいる。そしてこれ以上がほしい。
たとえば、たった一言。一言好きだと言ったとしたら、それだけで玄冬は銀朱から離れられなくなるのだと思う。彼は愛に飢えていて、だからこそ愛に鈍感なのだと感じていた。
この年まで生きてきて、玄冬が心を許したのはきっと親代わりだった黒鷹と親友の花白だけだったろう。裏切り失望されるのが怖いからと他の誰に心を開くこともなかった。
その二人が失われてしまった今、玄冬は一人だった。縋る相手も守る相手もいない。自由にされても誰のもとへ行けばいいのか分からない、彼は生まれたての子どもだ。いや、子どもよりももっと弱々しい生き物かもしれない。親のように庇護してくれる存在をも、玄冬には今やいないのだから。
たった一言、愛していると言ったならば、銀朱はこの世で唯一玄冬を愛している人間になることができる。彼を愛している人間として彼に認識される。そしてもう大切な人を失いたくない玄冬は、銀朱のことを愛してもくれるのではないか、と。

「食ったか?」

声をかけられてはっと意識を取り戻す。眉を寄せてこちらをうかがう玄冬に、手につかんだ焼き菓子を慌てて胃袋に詰め込んだ。味わい損ねたと思ったけれど、自業自得だ。

「茶のお替りはいるか?」
「いや、もういい。……うまかった」
「ああ。夕食はもっと体の休まるものを食わせてやろう」
「楽しみにしておこう。貴様も仕事に戻れ。俺の世話を焼いたからと遅らせるようだったら、容赦はせんからな」
「わかってる」

くすりと笑って、盆を厨房へ持っていこうとする。広いくせに薄い背中が離れていくのを、銀朱はじっと見ていた。
この背中を、彼は守らせてくれるのだろうか。傷心に付け込もうとしている卑怯な自分に。
玄冬の幸せを願うようなことを言いながら、自分が彼を手に入れたいだけの自分に、玄冬は奪われてくれるのだろうか。

「ああ、そうだ。銀朱」

ふと、玄冬がこちらを振り返る。離れるはずだった背中が動きを止めて、ドキリとさせられる。

「遠征、気をつけろよ。無理して倒れたりするんじゃないぞ」
「貧弱な貴様と一緒にするな! 鍛えているし、そもそも自分の分くらいわきまえている!」
「なら、いいがな」

元気に帰ってこいよと、薄く笑って、今度こそ玄冬は部屋を後にした。
なんだかとてつもない脱力感に襲われて、銀朱は珍しく行儀悪く机に突っ伏す。
もしかしたら、自分は玄冬にもうかなり大切にされているんじゃないだろうか。恋愛云々は別として、友人だとか仲間だとか、そういう対象として。
そして銀朱が玄冬のことを大切に思っていることもばれている、気がする。やはりこれも、恋愛云々は別として。
思っていたよりも強からしい玄冬に、思わず笑いがこみあげてくる。
たった一言では、現状からの変化は難しそうだ。なにせ本人に愛されている自覚があるのだから。けれどだからといって負の感情はわかない。むしろ一言程度でどうにもならないくらい強固な関係だったことにほっとすらする。
玄冬を愛するたった一人になったとしても、彼は依存してはくれまい。あの男はそれほど弱くはない。いっそもう、それでもいいと思った。
もっと安らかで、穏やかな愛情を、今度こそ与えてやれれば。





END.

2011/12/08

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