赤の夜 暑い日だった。日が沈んだ今ではその片鱗ものぞかせないが、日中はあまりの暑さに体中から汗が噴き出て、このまま死んでしまうのではないかとまで思った。 飯嶋家にはクーラーがない。日本家屋は風通しがいいのでそんなものは必要がないのだと、文句を言った律に八重子は飄々と言っていた。風通しがよかろうと、風自体が吹かない日などには関係ない。この日がまさにそうで、風速ゼロに近い一日を律は気絶したように過ごした。 夕方になってからようやく吹き始めた穏やかな風に髪を遊ばせて、律は縁側に横になった。涼しくて気持ちがいい。暑いのは得意ではないが、こうして束の間の涼しさに安堵しながらまどろむのは夏の醍醐味であり、嫌いではない。 風鈴に負けじと羽を震わせるスズムシの声が耳に響く。あまりの心地よさに意識が落ちそうになった。 「律。寝るな」 しかしそうは問屋が卸さないもので、風がぶわりと襲ってきたかと思ったらすぐに聞きなれた声が眠りの邪魔をする。 苛立ちを隠さず開いた瞼の向こうには、燃えるような赤。目と鼻の先に、生きているのか死んでいるのかはたまたどちらでもないのか分からない、妖が一人律の顔を覗き込んでいた。 「……鬼灯」 「やあ律、久しぶりだな。近頃人間どもがどうも暑い暑いとうるさいものだから、きっとお前もばてていることだろうと観察に来てやったよ」 「余計な御世話だ。それより近いから離れろ」 「おや、つれないな」 ぐいと掌で顔を押しのけても、胡散臭い笑顔は崩れない。整った目鼻立ちをしているがだからこそ人間らしさが(当たり前かもしれないが)見られないのが彼の特徴だ。 弓なりになった瞳と、戯言しか吐かない口。そして赤毛を目に収めて、律は眉をしかめた。 「ホオズキ色か。夏場にはあまり目に入れたくない色だね」 「夏になるものだろう、ホオズキの実は」 「そうだけど、赤は何となく暑苦しい。どうせなら真っ白な髪にでもなったらいいのに」 ホオズキの花のような真っ白な色をした髪ならば、夏に見たところで涼しい印象を受けるだろう。冬に会ったら寒々しいと文句を言うくせに、という鬼灯の声は聞こえないふりをして、律は重苦しい溜め息を吐き出した。 この妖を追い出すのは非常に骨が折れる。おかしな方向に好意的だから余計にだ。生憎今は青嵐も何やらいい食事場を見つけたようで出払っているし、小さなお供は明日来る予定の司のためにつまみを探しに行っている。 お守りがいない律にできることなど微々たるものである。話を聞く限り今日は「遊び」をしにきたようではないので害もないだろう。ならば変に機嫌を損ねることのないよう、適当に相手をしたほうがいいのかもしれない。 隣に我が物顔で腰かける男をじとりと睨む。自分も大概、人間離れしてきたものだ。人間以外に頼ることも、人間以外がそばにいることも、普通のことになりつつある。 「頬の赤らみに見えるから、頬つき、ね」 ぽつりと零せば、訝しげな視線を向けられる。端正な顔立ちは珍しく無表情で、あの薄ら寒い笑顔を浮かべていない鬼灯は幾分まともに感じられた。そう思ってしまったことに、律は少々不機嫌になる。 「律、何の話だい」 「ああ……。ホオズキの名前の由来だよ。いろいろあるらしいけど、人の頬の紅潮に似た色をしているから、頬つきっていうのが有力らしい。まあおばあちゃんに聞いた話だから、真偽は定かじゃないけど」 「ふうん」 どうでもよさそうな返事に、自分の名前にかかわることだろうと思ったが、そういえば彼の本名は知らないことに気が付く。鬼灯は、蝸牛がつけた名だ。 それでなくとも、人間が勝手につけた名前に興味などはないのだろう。妖とはそういうものだ。誰になんと呼ばれようとも彼らには関係がない。呼ばれることはなくとも、自分が自分であることが分かっていれば彼らはそれでいいのだ。 「律」 名前を呼ばれ、顔を上げる。 じっとこちらを見る視線がなんとなく居心地が悪くて、思わず眉間に皺を寄せた。なんなんだ。 普段おしゃべりなのが急に黙り込むときは、あまりいいことがない。飯嶋家の女性陣で学んでいる律は、この法則はこいつにも当てはまるのだろうかと、渋々、なに、と声を出した。 「お前の頬もうっすらと赤い。つまりこれもホオズキ色ということになるのか?」 「あー、そうなるのかな。まあ血が通っている限り、真っ白になるってことはないだろうけど」 「そうかそうか。なら、お前の体には俺が流れているわけだ」 「は?」 理解が追い付かなくて間抜けな声がほろりと零れ落ちる。やっといつもの人を食ったような笑顔が戻りだした鬼灯を、律は唖然と見つめた。 「お前が人間として生きているのだと思うと、いっそ息の根を止めてやりたかったが、俺が律を生かしているのだと思えば何とも気分がいいじゃないか。律、伶に感謝するといい。もしあいつが鬼灯と名付けていなかったら、今頃お前は俺の仲間になっていたよ」 ふふんと鼻を鳴らして、鬼灯は庭へ下り立った。脳内の整理に忙しい律を眺める表情は、不気味なほど機嫌がよさそうだ。 また今度遊ぼうと、恐ろしい言葉を残して姿を消した妖。固まったままだった律はだんだん意味が理解できはじめ、暑さからではない汗がじわりと滲むのを感じていた。 つまり今日鬼灯は、律の人間としての命を奪うつもりで飯嶋家を訪れたのだ。害はないようなことを言って、お守りの一人もいない、しかも暑さで精神的にも肉体的にも弱り判断力も鈍っている律の隣に座り、彼を妖として迎えるために。 それが、律の暇つぶしの話題によって気が変わった。よくわからないことを言っていたが、機嫌がよかったようなので何か彼にとっては意味のある内容だったのだろう。 肌が粟立つ。 危機一髪だ、九死に一生だ。何がお気に召したのか知らないが、話題を提供してくれた八重子には感謝しなければならない。それと鬼灯の言葉を借りるならば、彼を鬼灯と名付けた蝸牛にも。 「……やっぱり妖怪は信用ならない」 いつの間にか冷え切っていた指先をこすり合わせながら、律はぼそりと呟く。妖の害の有無など、律に判断がつくはずがなかったのだ。気まぐれで残酷で、愉快犯。妖に気を許すことは、人間であるためには許されない。 風鈴がちりんと体を揺らす。穏やかに吹く風が、今度ばかりはやけに冷たく感じた。 END. 2011/11/25 |