all I know is 憂鬱な気持ちになるくらい寝苦しい夜だった。冷房をつけているはずなのに体にまとわりつく熱気が取れないような気がして、瞼を閉じても眠りが訪れる気配はない。酒をすごす気分にもなれなかったので、バーナビーは夜の散歩に繰り出すことに決めた。 深夜の住宅街は人気がない。虫の声がする以外は静まり返っていて、室内にいるよりも気温は高いはずなのに心地いいと感じる。 このまま外で眠ってしまえそうだと、ヒーローらしからぬ考えまで浮かんでくる。酔っぱらって地面で眠り始めるどこぞのパートナーじゃあるまいし、と考えて、思わず笑いがこぼれた。 あのどこか抜けているパートナーは今どうしているだろう。普通に考えたらもう眠っている時間だろうが、昼間にアントニオに声をかけていたようなのでどこかで飲んでいる最中なのかもしれない。 会いたいな。 何の含みもなく純粋に思う。彼に、虎徹に会いたい。何をしたいわけでもないけれど、ただ話をして、頭を撫でてもらって、笑顔を見たい。 そう思い始めると散歩をしているのも億劫になってくる。さっさと帰って眠り、明日の朝気持ちよく彼に挨拶をしようじゃないか。 あくびを一つして、踵を返し始めたときだった。 「おや、バーナビー君じゃないか」 深夜にはそぐわない爽やかな声音に振り返る。見慣れた金髪がきらきらと夜闇の中で輝いていて、とても綺麗だと思った。 「こんばんは、スカイハイ。……じゃないですね。キースさん」 「はは、どちらでも構わないさ」 キースは愉快そうに笑うと、バーナビーのもとへ歩いてきた。足取りがしっかりしているところを見ると、酔っているわけでもないらしい。こんな時間に外にいるのだから、てっきりどこかで飲んだ帰りなのかと思ったのだが。 じっと注がれるバーナビーの視線に、不思議そうに太い首が傾げられる。いつか、虎徹がキースのことを犬のようだと言っていたことを思い出した。 「こんな時間にどうしたんですか?」 「散歩中だよ。今夜はどうにも眠れなくてね、外を歩いていれば眠たくなるかと思ったんだ。そういう君はどうしたんだい?」 「奇遇ですね、僕もですよ。なんだかとても寝苦しくて」 「そうかそうか!」 キースは若干ひそめた声で満足げに言うと、ポケットから財布を取り出した。ついと向けられたキースの視線の先では、寂れた自販機がちかちかと光を放っている。 満面の笑顔が、真っ直ぐと向けられる。 「バーナビー君は、コーヒーは好きかい?」 「ええ、嫌いではありませんが。……あの?」 「ならいいんだ! ちょっとそこのベンチで待っていてくれないか。すぐに買ってくるよ」 「いや、ちょっと」 声をかけるうちにもずんずんと進んで行ってしまう背中に、バーナビーは困惑を隠せない。今日の彼は、いつもの明るくどこかぽやっとした彼とは違っているように感じる。 何歩か歩んだ先で、キースがこちらを振り返る。普段通りのはずの笑顔に、背中を氷塊が滑ったような寒気に襲われた。 「少し話をしようじゃないか。バーナビー君」 言葉通りすぐに戻ってきたキースは、バーナビーを並木道に沿って置かれたベンチの一つに誘導した。 コーヒーも渡される。冷たく汗をかいた缶を握ると、少しだけ先ほどのぞわりとした感覚を忘れられるような気がした。 パキンと軽快な音を立ててプルタブを上げたキースは、おいしそうに缶を煽っている。手持無沙汰なので彼のまねをして喉を潤したが、思ったよりも苦かったことにバーナビーは眉をしかめた。眠るつもりだったのに、これでは目が覚めてしまう。 しばらく無言の時間が続く。こちらを見ないまま時折缶を口へ運ぶキースの様子からは、何を考えているのかをうかがうことはできない。 「君は」 爽やかさの若干薄れた声が耳を打つ。 「君は、彼をどう思っているんだい?」 「……彼、というのは」 「意地が悪いな。分かっているんだろう、君の相棒さ」 珍しくすっきりしない物言いだ。純朴で実直だと名高い彼が、こんな風に遠回しな言い方をするのを初めて聞いた。 なんだかとても、嫌な感じがした。 キースの言う彼というのは虎徹のことだ。バーナビーの相棒など、彼以外に思い浮かばない。 言葉通りに受け取るならば、キースが虎徹とバーナビーが相棒としてうまくやれているのかを心配してこの場を設けたように聞こえるだろう。実際パートナーを組み始めたころの二人は仲がいいとは言えなかったし、正義感にあふれるキースならば仲間たちをどうにかしなければと思ったとしてもおかしくはない。 けれど最近の虎徹とバーナビーの仲はすこぶる良好だった。信頼関係が築けたようだと互いに思っているし、仕事もはかどりつつある。キースが心配するようなことは何もないのだ。 怪訝な顔をして男前な横顔を見れば、やはり笑っているようだがどことなく温度を感じられない。背筋が粟立つ。キースのことを、一人の人間として怖いと思ったのは、これが初めてだ。 「どう、と言われましても。信頼の置けるパートナーとして、そしてこの仕事の先輩として尊敬していますよ。もう少ししっかりしてほしいなと思うこともありますけど」 くいと、ここでようやくキースの顔がこちらを向いた。細められた目は、こちらを射抜くように見える。 「そんな建前ではなくてだね、私は君の本心を尋ねているんだ」 「これが僕の本心ですよ」 「へえ」 いかにも信じていないような口ぶりだ。挑戦的な視線に少し頭に血が上り、冷たいコーヒーを一気に喉へ流し込んだ。 「僕の虎徹さんへの感情なんて、知ってどうするんです」 「それはもちろん、釘を刺すに決まっているじゃないか!」 にっこりと告げられた言葉は、予想外だった。ゆっくりと反芻してみても理解に苦しまざるを得ない。 釘を刺す? 何に対して。バーナビーの、虎徹への感情に対して? 思わず目を見開いた。彼は、キースは虫をいたぶる幼児のような無邪気な笑みを崩さない。何も知らないようでいて何もかもを知っているような目が、バーナビーを暴く。 「別に私はね、同性愛に否定的なわけでは決してないさ。誰かを愛するのに壁があるというのはとても悲しいことだからね。君が虎徹君のことを愛していようとも、それは咎められることではない」 「何をっ」 「けれど、君が虎徹君のことを不幸にしてしまうのだとしたら話は別だ」 キースはバーナビーの言葉など求めてはいないようだ。口を挟んでもないことのように扱われ、ようやく気付く。バーナビーの虎徹への感情が、真実どんなものであろうと彼には関係ないのだ。単なる尊敬の情ならば牽制になり、彼が言うところの愛情であるのならば先ほどの言葉通り釘とやらを刺すのだろう。 悔しいことに、キースの発言は的を射ていた。 バーナビーは虎徹のことを信頼も尊敬もしているが、それ以上に強く強く心を奪われてもいた。間違いなく愛している。硬い髪の一本から、耳に届かないほど小さな鼻歌まで。 鈍い本人はもちろん彼の周囲の人間の誰にも気づかれていないという自信が崩れ去った。秘密にして、ゆっくりと彼の中に入り込んで手に入れるつもりだったのに。キースの様子からして虎徹にバーナビーの気持ちをばらすということはなさそうだが、それは今問題ではなかった。 思い浮かんだ可能性に眉間に皺がよる。釘を刺したいということはバーナビーが虎徹に思いを寄せるのを阻止したいということで、つまりキースは。 「……あなたも、彼のことを好きなんですか」 「ああ、やっと認めたね。そしてその質問には肯定しよう。私は虎徹君に好意を抱いているよ。君と同じような意味で」 「だから僕が邪魔なんですか。僕にあの人を取られないように、自分が彼を手に入れるために?」 「うーん、それは少し違うかな」 少しだけ思案するよう表情を浮かべて、キースはまた笑う。余裕そうなそれが妙に癇に障った。 この人はバーナビーよりも優位に立っている。または、そう思い込んでいるのだろう。馬鹿にされているような感触が拭えず胸にイラつきがたまっていく。 「私は虎徹君のことが好きなんだ。彼が幸福であってくれるのならもうそれで何もかもいいと思えるくらいにはね。もちろん私がその役目を担いたいという気持ちもあるけれど、最も優先されるべきは彼の気持ちだ。だからもし君が、彼のことを幸福にできるというのなら何の文句もないんだよ。だけどね」 いつか誰かが天使と称した、光をまとったような笑顔。 「君は、虎徹君を幸せにすることはできない」 このときようやく、キースがひどく憤りを感じていることに気が付いた。彼は怒りを感じている。 笑っていない瞳は苛烈に燃え、じりじりとバーナビーの肌を焼く。 「君はまだまだ子どもだからね、虎徹君によりかかることしかできないだろう。何を勘違いしているのかは知らないが、彼のことを完全無欠な人間だと思い込んでいる節もある。君は虎徹君の何を支えてやることもできない。それをわかっているから彼はきっと君に自分の重荷を任せようとはしないだろうし、君の期待に応えようと気丈に振る舞いさえするだろう。今の距離感でさえそうなのに、恋人同士になんてなってしまったらいったいどうなるんだろうね」 傷口を抉り出されている気分だった。 そうだ、その通りだ。どれだけ力になりたいと思ったところで虎徹のほうがバーナビーの何倍も大人で、強くて、優しい。いつも余裕そうに構えているから、自分のことで手いっぱいなバーナビーは気付いたら彼に頼り切ってしまう。虎徹にだって辛いことはきっとあるはずなのに。 どちらもダメになってしまうだろうね、君たちが愛し合ったら。 ぼそりと付け加えられて、絶望的な気持ちになった。好きなだけではどうにもならないのだという当たり前のことを、改めて目前に突き付けられた。 好きで好きで、虎徹の薬指の指輪にすら嫉妬してしまうほど好きで、いつか報われることを信じてひっそりと抱いてきた好意が、途端に歪んで思える。独りよがりな愛情でなかったと言いきれはしない。 だって理想の中の虎徹はこれまで通りに強くて優しくて、弱音を吐いている姿など想像もつかないのだ。それが、彼がこれまでバーナビーに己を偽ってきたという証拠なのかもしれなかった。 キースの怒りは尤もなのだろう。自分の愛する人を不幸にする可能性のある人間が、覚悟も足りないままに彼の人へ近づこうというのだから。 けれどそれだけでは納得がいかない。覚悟が足りていないのはバーナビーだけではないはずだ。 「……あなただって」 「ああ」 「あなただってそうじゃないですか。あなただって、彼を幸せにすることはできないでしょう。だから誰かにそれを託すんだ。自分が怖いから」 「そうだね。きっとそうだ。彼の唯一気を弛められる場所になれるだなんて夢のようなことは思っていやしないさ。けれど、だから私はせめて虎徹君の重荷にだけはなりたくないと思っているよ」 「……」 「君がどうかは知らないけどね」 ぐいっと缶を傾けて、キースが立ち上がった。バーナビーは反応しない。カランとゴミ箱へ投げ捨てられるアルミの音を聞いてようやく顔を上げれば、やはりキースは笑っていた。 これが、彼の言うところの虎徹の重荷にならないための手段なのだろうか。キースが笑っていれば安心感を覚えるのは、きっと虎徹もなのだろう。だから彼は笑っている。虎徹を怖がらせてしまわないように? そしてそれが、彼なりの覚悟なのだろうか。 「私には諦めろと言える権利はないけれどね、少なくとも彼を苦しませることだけはしないでくれないか。もしそんなことがあれば、……許さないよ」 低い声から一転、それではまた明日と快活に告げて、眩しいばかりの金髪は視界から消えていった。 時計を確認すればそろそろ夜が明ける時間で、結局一睡もできていないことを知る。これから帰ったところで眠れないのだろうし、眠れたとしても遅刻は決定だろう。そうしたらバーナビーの相棒はきっと気を揉むのだ。そしてそれは、キースとそしてバーナビーの望むことではない。 ライバルと単純に言えはしない男のことを思う。自分は彼ほど純粋に虎徹のことを愛しているだろうか。彼が幸せになるならば自分以外の誰かと笑い合っていてもいいと、そんな正義らしいことを思えるだろうか。 そんなものは偽善だと、不幸にしてしまってもいいから側にいたいと、そんなことを思っていはしないか。 ぬるくなってしまったコーヒーを喉へ流し込む。すっきりとしてきた瞼の裏で、見慣れたはずの相棒の笑顔と、悲しい男の冷たい笑顔が重なった気がした。 As for me, all I know is that I know nothing. 私に分かっていることはと言えば、私が何も知らないということだけだ。 END. 2011/07/31 |