Every cloud has a silver lining. もしヒーローという職業がなかったらというパラレル。 薄暗い日だった。鼻をつくのは雨の匂いで、もう何時間かしたら確実に降られるのだろう。空を覆い尽くした灰の雲を見上げて虎徹は溜め息を吐いた。 明日の一面を飾るニュースは手に入れた。政治家がどうの汚職がどうのという話には全く興味がないが、これでまた世間は盛り上がり虎徹の勤める新聞会社は儲かる。仕事に好きも嫌いもない。与えられたものをこなすだけだ。 「あー、もしもし? 証拠押えましたよー。はい。はい。これから戻るつもりっすけど、ちょっと間に合うか分からないんで誰か暇な奴に書き出しだけやらせといてください。俺のデスクにデータ置いてあると思うんで。んじゃ、失礼しまーっす」 くだらねえ。本音がこぼれる。 電話の向こうでスクープだと喜ぶ上司も、明日の朝悔しがるだろう他社の奴も、みんなくだらない。こんな記事を仕上げたところで何がどう変わるというのだろう。この記事で政治家が一人やめるうちに、どこかでまた事件が起こって誰かが死んでいるかもしれないのに。ジャーナリストがなんだ。情報は人を救いはしない。 こんなことなら警察か軍にでも入ればよかったかもしれないと、記者の仕事を垣間見たそのときからずっと思っている。けれどそれは諦めざるを得ない夢だった。 虎徹の体には一般人にはない能力が眠っている。それを発動してしまう可能性のある職に就くことは不可能だ。隠しているからこそ、こうして普通の生活ができているのだから。 「コーヒー、コーヒーっと」 息抜きでもしていないとやっていられない。薄汚れた自販機に小銭を放り込んで冷たいコーヒーを啜る。帰ったらまた仕事だ。誰だかもよくわからない政治家を糾弾して、人々に興味を持たせるだけの仕事。 味もしないような黒い水を飲みほしてゴミを捨てる。空を覆い尽くした雲はもはや真っ黒だ。傘はないし、急いで戻らなければまずいかもしれない。今からなら何分の電車に乗れるだろうかと考え出したときだった。 「すみません」 澄んだ声が虎徹の足を止めた。若い鳥の鳴き声のような声だなどと思いながら、視線を背後へやる。どこか焦ったような顔でこちらを見ているのは、テレビに出ていそうなくらい顔立ちの整った、とてもかわいらしい少年だった。 「あー、えっと、俺?」 「そうです、あなたです。少し質問があるのですが、お時間よろしいですか?」 「構わねえけど……」 礼儀のしっかりした子だと思った。来ている服も上等なもののようだし、どこかの資産家か貴族の家の子なのだろう。見たところセカンダリースクールに通うくらいの年齢だろうか。平日のこんな時間に出歩いているのは感心しないが、天気の悪さのせいか虎徹と少年以外に誰も近くにいないようだし、少しくらいなら構わないだろう。 少年は、ひどく真剣な目をしていた。これくらいの年齢の子がしていいような目ではなかった。大人びたとは違う、強い目だ。 ぺらりと一枚の紙が目の前に差し出される。手にとっていいかと目で問えば、神妙にうなずかれた。紙には少年が書いたのであろう絵、いや、マークのようなものが描いてあった。円を描いた蛇に、刃物のような線が一本。悪趣味だ。不気味だとさえ思う。 「このマークに見覚えはありませんか」 「……いや、ないな。何なんだ?」 「いえ、知らないのならいいのです。ありがとうございました」 少年は早々に虎徹の手から紙を奪い取り、立ち去ろうとする。何か事情がありそうな子どもをそのまま帰すのは気が引ける。それに虎徹の中の正義感だとか好奇心だとかが疼いて仕方がない。 「なあ、ちょっと待てよ」 「なにか」 「俺、こんなでも一応記者なんだわ。新聞記者。そこら辺の奴よりも情報も持ってるし、何か調べものなら手伝ってやらなくもねえよ?」 「……遠慮しておきます」 「えー、どうしてよー。もしかしたら、ヒーローみてえにぽんぽんっと解決しちまうかもしれないだろ?」 「ヒーロー?」 ふっと少年が笑った。無邪気なそれではない、馬鹿にでもするような笑い。軽蔑すら浮かんでいるように見える。 幼いころから颯爽と現れて人々を助けるヒーローに憧れを抱いている虎徹としては、こんな反応をされるのが意外だった。このくらいの年齢ならばまだファンタジーを信じていても不思議はないだろうに。 少年はしっかりとこちらを睨みつけ、唇を歪める。 「ヒーローだなんて、笑わせないでください。どこで誰が苦しんでいようとも助けなんてきません。神様と同じです、信じても祈っても叫んでも救われることなんて決してない。なぜかわかりますか? 神様もヒーローも、いないからですよ」 冷たい声に、過去の自分を思い出す。 人とは異なったこの能力のせいでずっと孤独を味わってきた。誰かに触れることも誰かを好きになることも怖くて、いつも苦しかったのに誰も助けてなどくれなかった。 都合のいい展開ばかりのヒーローアニメを見て、憧れると同時に何度絶望しただろう。こんなの幻想だ。ヒーローなんていない。誰も助けてなどくれない。 けれど、あの人に出会った。虎徹の能力を怖くなどないと言って笑ったあの人。誰も傷つけたくないと泣いた背中を叩いて、誰かを助けるために使えばいいと笑ったあの人。 いくら憧れても彼のようにはどうしてもなれなかったが、今でも彼は虎徹の中でヒーローだった。助けに来てくれなくても、つらいときにあの人の言葉を思い出すと救われる気持ちになる。 この少年のヒーローに、なれはしないだろうか。そんな考えが浮かんでくる。傲慢かもしれない、自信過剰かもしれない。けれど虎徹を助けたあの人のように、今度は自分が少年を助けられたらという気持ちが後から後から溢れてくる。 無意識に唇が動く。 「ヒーローはいるよ、絶対な」 虎徹にとってのあの人のように、何かすごい力がなくても誰かを強くしたり優しくしたりできる人は皆ヒーローなのだと思っている。少年にとっては並外れたパワーで悪者をやっつけるのがそれなのかもしれないが。彼にそうではないのだと教えてやれたら、自分の言葉で彼を楽にしてやれたら、それはきっととても素晴らしいことなんだろう。 だから少し話をしてくれと、言おうとしたときだった。気付かなかったのが愚かだとしか言いようがない。それほど顕著に、空気が変わっていた。 「馬鹿言うなよ」 怒っている。そう思ったが、そんな程度のものではない。少年の綺麗な顔は、憎悪と表現してもいいような感情で歪んでいた。何かが憎くて憎くて、行き場のない感情を目の前の虎徹に向けるしかなくなっているように見えた。 ああ、と思った。踏み込んでしまった。彼の触れられたくないところに。 自分のように誰かに抱き締められて簡単に溶けてしまうような苦しみではなかったのかもしれないのに、見ず知らずの他人である自分が土足で踏み込んで、傷付けてしまった。 固く握られた小さな掌が込められた力によって震える。 「ヒーローがいるんなら、どうしてあのとき助けてくれなかったんだ!!」 叫びが耳を打つ。泣いているような声だ。ついに降り出してしまったらしい雨のせいで表情はうかがえないが。 あのときとは何のことなのか、助けがなくてどうなってしまったのか。尋ねたりしたらもっと傷付けてしまうだろうか。そんなことが頭をよぎったが、疑問や罪悪感に駆られるより先に虎徹は目を見開いた。いや、呆気にとられた。 まさか鏡を見る以外にこの色を見る日が来るとは。 「マジでか……」 激しくなる雨の中、少年の瞳が青く輝いていた。 Every cloud has a silver lining. どの雲も裏は銀色 END. 2011/07/31 |