トランキライザ:LV.1





寝苦しい夜だった。じめじめとした空気から逃れるようにつけっぱなしにしていた冷房は相変わらず起動しているというのに、次から次へと汗が噴き出してくる。溜め息になり損ねた熱い息を吐き、臨也は髪をかき上げる。
真っ暗な部屋はまったく静かだ。時計を見るとそろそろ朝と形容してもいいくらいの時間帯。けれど起きる気には到底なれないまま、横になった。
悪夢。夢見が悪いことは度々あるけれど、これほどまでに気分が悪くなることは初めてだった。汗で体がべたべただとか、うなされたせいで喉が渇いているだとか、不愉快になる理由は様々だが、一番の理由はどんな夢を見たのか覚えていないことだ。
臨也は自分が記憶力がいいと自負している。情報の取り扱いを生業としているのだ、どんな些細な事柄が依頼人の求めている情報であるか分からないのだから、どうでもいいことであっても極力覚えているようにしている。
夢だってそうだ。別に臨也の見た夢が金になるとかそういう話ではなく、これは単純に話題のため。他人の見た夢の話など興味がない人間のほうが多いだろう。しかしどれほどくだらないことであろうとニコニコしながら夢の話をしている人に恐怖心や警戒心を抱く人間も少ない。隙を生み出すための話題。それに夢の話は最適だった。当然これまで無意識下で見てきた夢を全て覚えているわけではない。それでもうなされるほどの夢を忘れてしまっているというのは、自分のことでありながら信じ難かった。

「きもちわるい」

薄く開いていた目の中に汗が流れ込んでくる。しみる、いたい。ぼそぼそと独り言を零して、今度こそ溜め息を吐いた。
眠れない。まだまだ朝までには時間がある。困ったものだ、今日だって仕事で池袋まで行かなければならないのだ。どうせあの怪物に出会うのだろうし、寝不足のままふらふらしていたら臨也であってもいらぬ怪我をしてしまうだろう。
瞼を閉じる。深呼吸をする。適当に数を数えてみる。もう精神的にも凪いでいるというのに一向に眠気がやってくる気配はない。臨也は眉を顰めて携帯電話を取り出した。仕事用ではない、完全にプライベート用のものだ。あまり多くないアドレスから一人の名前を選び出して発信する。

『……もしもし?』

たっぷり一分ほど鳴らし続け、唐突にぷつりとコール音が途切れる。次いで耳に届いたのは男にしては高い声。今は寝起きだからかかすれて不機嫌そうだけれど、普段はこの声が年相応に笑ったり逆に年不相応に嘲るような色を含むことを、臨也は知っている。
何か一言意味を持たない嫌味でも言おうと口を開いて、うまく声が出ないことに気が付いた。喉が渇いている。張り付いて引き攣る感覚に不快感が募る。電話口の向こうの帝人は怪訝そうに声を上げた。

『臨也さん? 何なんですかこんな時間に。嫌がらせですか、それなら盛大に成功していますよ。今の僕の機嫌は今年一番の悪さです。最悪です。眠いです。僕が何時に寝たか知ってますか、二時ですよ二時。ついさっきもいいとこですよ。聞いているんですか臨也さん』
「……」
『だんまりとか本気でやめてくれませんかね、それとも寝てるんですか? 人のことは起こしておいて? 残念な人だとは常々思っていましたが、寝ぼけながら電話する癖でもあるんですかあなた。何とも言えない高尚な癖ですね』
「……ぁ」
『……臨也さん?』

困惑したように名前を呼ばれ、臨也は返事をしようと何度も何度も口を開く。まるで酸素の足りない金魚みたいだなどとくだらないことを考えて、苦笑もできないことに気付く。変に、苦しい。

『ねぇ、臨也さん』
「……」
『もしかして、泣いていますか』

何を言っているんだいと笑うこともできなかった。頬は冷たくて、シーツにもシミができている。自覚したと同時にせりあがってきた嗚咽で変な音が喉からもれる。熱い塊が気管を塞いでいるようだ。満足にできない呼吸に、金魚みたいだと思ったのはあながち間違いではなかったなと嫌に冷静に自嘲した。
苦しい。泣くというのは、こんなにも苦しいものだっただろうか。こんなにも胸が締め付けられるものだっただろうか。泣き止み方も、上手な泣き方も分からない。

『臨也さん』
「ふ……」
『臨也さん、大丈夫ですか』
「みか、どく……」
『何ですか。僕はここにいますよ』

まるで子供をあやすような優しい優しい帝人の声が耳から染み入ってくる。聞いたこともないくらい柔らかな声音には温かささえ感じる。臨也は唐突に、頭を撫でられているようだと思った。ゆうるりと慈しまれているようだった。
何度も何度も名前を呼ばれる。惜しみなく与えられる安心感に息を吐き出せば、いくらか落ち着いたものであった。

『楽になりましたか』
「あ、あ」
『……臨也さんでも、泣くことなんてあるんですね』

子供みたいでした。ぽつりと零された言葉に、やはりそう思っていたのかと眉を寄せる。情けない姿を見せてしまった。けれどやけに、幸福な気がした。

「ねぇ」
『はい?』
「怖い夢を、見たんだ」
『夢、ですか』
「そう。帝人君、今から君の家に行っていいかい」

え、と困惑気味な声色。それはそうだろう。こんな時間に訪問するなど、非常識極まりない。それでもすぐに断れないのは、先程の臨也の泣き声を思ったからだろうか。
臨也は声を吐き出す。帝人が必要なのだと訴えるように。

「君がいないと、夢見が悪いんだよ。帝人君、会いたい」

あの薄い体を抱き込めば、悪夢など見ない気がした。心地よい帝人の匂いに包まれて眠れば、何も怖くなどないと思った。今はただあの少年に会いたくてならない。
ふと思い付いてうっそりと微笑む。夢の中で臨也は、帝人を失ったのだ。一人になる夢を見てうなされて涙さえ流した。臨也に孤独とは苦しみなのだと教え込んだ彼には、責任を負ってもらわねばならない。
返事も待たずに電源ボタンを押す。冷え切っていた指先は、いつの間にか熱を持っていた。帝人に会えるのだと高鳴る心臓と、呼応するように。





END.

2010/08/12


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