無垢な瞳は何も知らない ヤンデレ注意 平和島静雄の何が恐ろしいのかと人々に聞けば、多くはその力が恐怖の対象たるのだと答えるだろう。簡単にどんなものでも破壊しつくせる彼。機嫌を損ねたならば、ポストのように投げ飛ばされるかもしれない。あるいはガードレールのように捻り曲げられるだろうか。多様な方法でもって人を傷付けられる静雄のことを、皆は恐れる。彼から自分の身を守るために。 けれど正臣は違う。彼の力など今更恐ろしくはなかった。これまでその脅威を何度も目にしてきたが、それによって人が死んだなどとは聞いたことがない。怪我を負ったことも負わせたことも一度や二度ではない正臣だ。関わりたくないと思いこそすれ、命の危険がないのなら怖がる必要はないと軽く笑える。ただ喧嘩が強い、けれど理性のある怪物。力は怖くなどない。正臣が恐れるのは、むしろその中身である。 正臣に言わせれば静雄の心はひどく白い。愛を知らないがために愛に焦がれ、純粋な目でもって正義と悪を判断できる。圧倒的な力を手にした彼だからこその真っ直ぐな心。それが正臣には、どうしようもなく怖かった。 「なあ、紀田」 逃げ出そうと思えば逃げ出せるはずだ。極力相手に視線の先を悟らせないように状況を確認し、正臣は知らず溜まった唾液を嚥下する。薄暗い路地裏はそれほど狭いわけでなく、自分たち以外の気配はない。一対一ならば全力で走れば逃げられるだろう。けれどそれは、紀田正臣のおしまいを意味していた。 目の前に立つのは、喧嘩人形平和島静雄。気怠げに立つ背の高い彼はこうしてみるとまるでモデルのようだ。夜の池袋から差し込む明かりがその背中を後光のように照らし、光の中で立っているのだとおかしくも思った。少し傷んだ金髪、夜であるのにかけられたサングラス、職業を偽るバーテン服。人々が恐れる、まったくいつもの静雄である。 ああ、けれど、その目だ。気付かないはずがない。その目。静雄の目は今、正しく狂気に染まっている。 「目障りなんだよなあ、お前」 「……」 「幼なじみだか何だか知らないが、得意そうにいっつも一緒にいやがってよ」 彼が正臣の幼なじみで親友の竜ヶ峰帝人のことを好いていることは知っていた。帝人も懐いていたようで、共にいるところを何度か見たことがある。微笑ましいなどと思いながら少し寂しくもなったものだ。 ただの友人同士なのだと思っていた。互いに人間として認め合っていて、年の離れた友人として彼らは付き合っていくのだと、そう思っていた。 いつからおかしくなったのだろう。初めは正臣の考えた通り兄弟や友人のような距離感だったはずだ。たまに連絡を取り合って会ったら仲良く話すような。いつからだ。いつから平和島静雄は竜ヶ峰帝人を友人以上に見るようになった。いつからその瞳に狂気を孕むようになった。いつから、変わってしまったのだ。 正面に立つ男を睨みつける。静雄は苛立たしげにポケットに手を突っ込んでいるが、もう片方の手に標識が握られているのが見えた。最初からそのつもりだったのだ、正臣を消すつもりで、静雄は彼に声をかけたのだ。震えそうになる手を握り込み、深呼吸をする。大丈夫だ、やられるわけにはいかない。今はまだ。 「静雄さん」 「ああ?」 「悪いんですがね、帝人にとっての俺はあんたよりも上ですよ」 「……てめぇ、」 「あいつは俺のもんです」 「相当死にてぇらしいな」 言葉とは裏腹に静雄はひどく愉快そうな顔をしている。口端は角度をつけて吊り上げられ、サングラスの向こうの目も弓なりに細められていることだろう。その姿はあまりに楽しそうだ。思わずぞくりと悪寒が走る。 があん。耳がおかしくなりそうな嫌な音が響く。発生源は目の前にいる静雄であり、その手にある標識だ。つい先程まで直立していたはずのそれは今やかなりの角度をつけて曲がっており、痛々しくえぐれたコンクリートに、地面にたたき付けたのだろうと察する。流石はあの平和島静雄。正臣は顔では笑みを浮かべながら掌に滲んだ汗を服で拭った。 殺される。直感的にそう思った。彼は、静雄は正臣を殺そうとしている。きっと何の躊躇いもなく消し去る。いくら正臣とて死ぬのは怖かった。死なないのならば何も怖くないとそう思っていた。けれど今は、死さえ恐るるに足らない。それよりもしなければならないことが正臣にはあるのだ。死ぬ前に彼は、静雄と約束を交わさねばならない。 静雄が笑う。にやり。どこかの情報屋のようだと言ったら彼は怒るのだろうか。 「俺はなあ、竜ヶ峰のことが好きなんだよ」 「……知ってますよ」 「なのに竜ヶ峰はなかなか俺だけを見てくれやしねぇ」 「そうでしょうね」 「あいつが俺のもんにならないんなら、」 暗い瞳。静雄は実に愉快そうに笑う。 「いっそ食っちまおうか」 何を見ているのか何も見ていないのか、愛おしいものを眺めるような視線に肌が粟立つ。 平和島静雄は狂っている。純粋で真っ直ぐな帝人への愛のために、正常な思考は知らぬ間に取り払われてしまった。好きなものを独り占めしたい。そんな子供じみた欲求を我慢する術など、彼はきっと知らないのだろう。ただただ無邪気に欲して、そのためなら手段も厭わない。そんな人を愛することを知った獣が欲しがっているのは帝人だけだ。それなのに帝人は静雄を愛してはいない。ならば彼は、静雄は、どうするのか。 ああ、と思う。帝人が奪われてしまう。手の届かないところへ連れ去られてしまう。お気に入りの玩具を抱き込むように、帝人の命が奪われてしまう。 正臣は怪我をするのは怖くないが、死ぬのは怖い。そしてそれ以上に、帝人がいなくなるのは耐えられなかった。 「俺が気に食わないんすよね」 「ああ」 「俺がいなくなれば帝人に手は出しませんか」 「……お前が?」 訝しげにひそめられた眉からは、多少なりとも逡巡している雰囲気が読み取れる。今帝人の一番近くにいるのは正臣だ。その嫉妬の対象がいなくなれば、いくら静雄といえども好きな相手を傷付けようとはしまい。そのためなら正臣は、自分の命さえ惜しくはないのだ。 さあ殺せと両手を広げかけて、静雄の口元に笑みがはかれていることに気が付く。そんなに邪魔がいなくなることが嬉しいのかと眉をひそめかけ、 「あれ、静雄さんに正臣?」 呼吸さえ忘れた。 背後からかけられた声は、正臣の大切な大切な幼なじみのもの。そして静雄が愛する、狂気を一身に浴びる少年のもの。気が遠くなるようだと思った。だめだ、最悪だ。 「もう正臣、こんなところにいたの? 大分探したんだよ。というか、静雄さん。お仕事は大丈夫なんですか?」 いけない。来てはいけない。何も見なかったのだとこのまま来た道を戻ってくれ、頼むから。でないと、でないと死ぬのは俺ではなく、食われてしまうのは俺ではなく、ああ。 正臣の心中での叫びなど帝人に聞こえるはずもなく、ゆるるかな声は相変わらずな言葉を紡ぐ。徐々に近付いてくる足音と、恍惚に歪む喧嘩人形の顔。背筋を氷が滑っていくような感覚が正臣を襲う。それは真実、恐怖だ。 きっと振り返れば、帝人は常の温かな笑みを浮かべてそこにいるのだろう。何も知らず、静雄が帝人に向ける視線の意味も、彼の狂気も、今一歩先に命の危険が潜んでいることも、知らず。 いっそ残酷なほど無知な幼なじみ。けれどそれは決して罪ではないのだと、正臣は確信する。そう、帝人に罪はない。残酷なのはその優しさ。 「正臣?」 ぐにゃりと崩れる静雄の笑い、心配げな帝人の瞳。正臣は目を閉じ、ひたすら祈る。そこに立つ狂人にではなく、いるかどうかも分かりやしない、底意地の悪い神様に。 無垢な瞳は何も知らない (だから、殺さないで) END. 帝人サンド様に提出させていただきました。 2010/07/17 |