退廃的ノスタルジア (ねぇ、帝人君) (何ですか臨也さん) (君は俺を信じていない。そうだろう?) ざわりと風が吹いた。生温さもそのままに頬を掠めていったそれに舌打ちして、臨也は足を進める。人の群れをかい潜って、真っ直ぐに歩く。今は平日の昼だというのに、先を急ぐ人々の波は穏やかになる気配もない。これだから嫌なのだ。嘆息の後に顔を上げ、少しだけ後悔した。 ビルによって切り取られた空は、埋もれてしまいそうなほどに青い。今確かに埋もれているのは人の波の方だというのに、意識だけはこの場から離脱しているようだ。溶けていきそう。いつだったか掌を伸ばしてそう呟いた少年を、臨也はずっと探している。 (よく分かりましたね) (まあね。だって君は、俺を見やしないから) (臨也さんを、ですか) (そう) 暇を持て余しているのだろう女性が向かうスーパーを横目で眺め、若者が群がるファーストフード店をちらと覗き込む。どことなく瞳を潤ませた妙齢の女性がこちらを見詰める気配を感じたが、それには応じず足を速める。 白い壁に手をついて、たまに休憩する。日差しは強くなる一方で、気を抜けば立ちくらみに襲われそうだ。黒髪を容赦なく照らす憎き太陽。汗がじわりと滲んで、冷たいものが恋しくなる。かき氷に、ミルクアイスに、ソーダ。子供みたいだ。軽く笑ってまた自己嫌悪に陥るのだから、まったく外を歩くというのは精神によくない。 (俺が君を愛しているのだと言っても、君はそれを信じないんだろう) (そうでしょうね) かつての自分を思い出す校舎を遠目に見る。今は授業中だ。体育なのだろう、レーンの中で走っている生徒の息は荒い。この暑さなのだ、水泳の授業がないのが本当に哀れになる。 木々がさざめく音がする。校舎を隠すように植えられた街路樹が影を作ってひどく涼しげだ。ようやく生きた心地になる。呼吸をも楽になるような気持ちのよさ。蝉の鳴き声さえ今は耳に楽しく、このまま眠ってしまいたいとすら思う。光を反射する窓の向こうで、誰かと目が合った気がした。気のせいだろうともたれていた壁から身を剥がす。 (ねぇ) (はい) (どうやったら俺のこの気持ちを、君に信じさせることができるのかな) 噴水を囲むようにしている公園には、やはり人が多い。暑さには誰も勝てはしないらしい。 跳ねる水がその度に光を弾く。きらきらと安っぽい宝石のような輝きが辺りを包んで、いとけない子供が嬉しそうに声を上げる。大きく手を挙げて笑っている姿は、まるで天使のようだと思った。今にも誰かをその光の中に導いて、そのまま帰って来ないのではないかと。目を細めて、臨也は噴水の向こう側に目をこらす。鳩に餌をやる母親が、子供に優しく声をかけていた。 (残念ながら、それは無理なお話です臨也さん) (どうして) (だって僕は、) ざわり。風が吹く。人々のざわめきを、木々の囁きを、水のきらめきをさらいながら、風が渡っていく。まるで何かを拒絶するようじゃないか。小さな少年に拒絶された臨也が、誰かを相手に笑い声を上げる。 彼が住んでいたアパートには、もう誰もいない。今にも崩れ落ちそうな廃屋と化したコンクリートの塊は、人がいたことさえ幻だったと訴えかけてくるようだ。けれど臨也は知っている。ここには確かに彼がいたのだ。臨也は彼のことを大切に思っていて、彼はいつもそこで微笑んでいた。臨也は知っている、分かっている。 彼はそこにいた。そしてもうそこにはいないのだと。 「帝人、君」 (だって僕は、愛自体を信じてやしないんですから) 愛を信じていないのだと、彼は言った。いかにも天使のような微笑を浮かべ、愛に唾を吐きかけた。彼の目に、臨也はどう映っていたのか。簡単に愛を掲げる臨也のことを、どう思ったのか。もう聞く術はないのだと分かっている。彼はいなくなってしまった。愛に疑念を抱き何も愛さないままで、この町から消えた。そのままだ。彼のいない、愛を信じる者ばかりで、今この町は構成されている。もう彼の足跡さえも残ってはいない。 愛を信じない彼に、臨也は何を言うこともできなかった。人を思うことで自己を確立させてきたと言っても過言ではない臨也には、彼の考えは到底理解できるものではなかった。愛することを信じずに、彼はこれまでどうやって生きてきたのだろう。分からなかった、理解できなかった。そして何故だろう、余計に愛しいと思った。愛されている少年。それを信用できない少年。脆く、柔らかく、可愛い。 何か一言でも言ってやれたならばと思う。いっそ気持ち悪いほど気障に、君を愛する俺のことだけでも信じてくれないか、なんて言えばよかったのかもしれない。彼はいない。臨也の彼への愛情を、彼は知らない。 「帝人君」 (何でしょう、臨也さん) 「この涙が君への愛だよって言ったら、」 君は信じてくれたかなあ。 今日も彼の断片を見詰め、臨也は町を後にする。行く先をなくした感情を持て余したままで、涙を流して。 風が吹く。彼はいない。 END. 2010/06/30 |