水色ランデブー




非常についていない。
昨夜は妙にバイトがはかどり、眠ったのは早朝といっても差し支えのない時間帯。足りない睡眠のせいで今朝はすっかり寝坊してしまった。朝食もそこそこに走ってきたわけで、テレビ、しかもピンポイントに天気予報など見る暇は当然ない。
昼からの降水確率八十パーセント。そのことを知ったのは、学校で携帯を開いたときだった。置き傘は、なし。

「……はあ」

ざあざあと忙しなく落ちる雫を見詰めながら、帝人は溜め息を吐いた。まだ五時過ぎなのに真っ暗な空、強い風に揺れる電線。窓の向こうは大雨である。
アンニュイな気分に拍車をかける雨の大合唱をBGMに、シャーペンを走らせる。机の上に鎮座しているのは学級日誌だ。日直なのは構わない、というか仕方がないことだろう。けれど今日は掃除当番の日でもあり、掃除が終わったと思ったら休んだ国語係の代わりにノートを提出に行かされ、職員室の前で教師に捕まって資料室の片付けを手伝わされた上にわけの分からない世間話にまで付き合わされたのだ。ここまでくると、もうこれ以上仕事などしたくなくなるわけで。
忙しそうな帝人に気を遣ったのか何か思うところがあったのか、正臣は杏里と共に帰ってしまった。雨のせいかクラスメートも誰も残っていない。紛うことなき一人ぼっちである。

「おわ、ったー」

息を思い切り吐き出しながら机に突っ伏す。少々適当な字になってしまったことには目をつぶってもらうことにしよう。職員室に行くのは嫌な予感しかしないので、教卓の上へ日誌を放り出してやる。
これでようやく帰れる。けれど外は、休日だったら確実に引きこもりたくなるような天気である。

「雨かあ……」

このまま傘もなしに出歩けば、三分もしないうちに濡れネズミとなるだろう。だからといって止むのを待つには、「夜にかけて雨足は強くなる」という天気予報は不吉すぎる。ならば他人の傘を借りればいい。ただそれを実行するには、帝人は少々臆病者すぎた。
どうしたものか。玄関へ向かいながら思案するけれど、いい案など思い付くはずもない。というか、すでに諦めかけている。たまにはびしょびしょに濡れてやるのも楽しそうじゃないか。投げやり気味にそう考え、校門へと走り出そうとしたそのとき。

「こんにちは、帝人君」

帝人の足を止めたのは、この曇天にはそぐわないほど爽やかな声だった。青空やお花畑が似合いそうな、少し嫌味なくらい綺麗な声。残念ながら、帝人はそれに聞き覚えがある。
ぎぎぎとでも音がしそうなほどゆっくりと振り返れば、見慣れた笑顔。何故か高校の玄関に立っているのは、美形の情報屋である。

「臨也さん……。どうしてこんなところに、」
「こんにちは」
「ていうかどうやって校内に、」
「こんにちは」
「…………こんにちは」

渋々ながら挨拶を返し、本日一番の溜め息を零す。
ついていない、どうしてこうもついていないのだ。正直、この人にはあまり関わりたくない。友人に忠告を受けたからというのも一理あるが、彼独特の軽いノリがあまり好きになれないのである。小馬鹿にした雰囲気というか、不真面目な雰囲気が。そうであるのに運悪く相手には気に入られてしまったらしく、彼は帝人の行く先々に現れる。
いい迷惑だ。もちろんはっきりと口に出すことはなく、けれど露骨に表情に出た心情は臨也にも伝わっていることだろう。なのにいっそ嫌がらせかと思うほど気付かないふりをされて、困惑と苛立ちは増す。嫌な性格、本当に。

「どうやって侵入したんです」
「人聞きの悪いことを言うねぇ。鍵のついていない校内に入ることなんて、君の家にピッキングで入ることよりも簡単でしょ」
「訴えますよ」
「俺がそう簡単に捕まると思う? あ、ちなみに今は合い鍵で開けてるから、鍵穴が傷付く心配はしなくていいよ」
「……」
「あっはは、そんな目で見ないでよー。ぞくぞくしちゃうじゃない!」
「もう勝手に言っててくださいよ……。僕帰りますからね」

外を見れば、雨は教室にいた頃よりも明らかに強く降っている。これ以上酷くなった中を歩くのはできれば遠慮したい。帝人だって、風邪を引きたいわけではないのだ。
おざなりに頭を下げて走り出そうとすれば、捕まる手。犯人は分かり切っている。思い切り眉をしかめて振り返ると、相変わらずいい笑顔をした臨也が傘を片手にこちらを見ていた。

「傘、ないんでしょ」
「どうして僕が傘を持っていないことをあなたが知っているのかは甚だ疑問ですが、否定はしませんよ」
「入れてあげよっか。ああ当然俺の分しか持ってないから、相合い傘ってことになるけどね?」
「ありがとうございますでも結構ですそれじゃさようなら」
「ああああ待った待った! いいじゃん相合い傘くらい!」

彼がこの状況で何を考えているかくらい容易に想像がつく。予想通りのことを言ったところをばさりと切り落とすと、情けない顔をしながら縋り付かれてしまった。あえて言おう、欝陶しい。
纏わり付かれているせいであしらい方は大分うまくなったと自負しているが、彼がしぶといこともよく知っている。下校中に出会えば送ってもらうことになるし、家の前に立っていれば結局上げることになる。勝手に侵入されても許してしまうし、なんだかんだでメールも電話も無視できない。帝人の幼なじみであり親友である少年に、お人よしだと何度言われたことか。否定できないことが悔しいところである。
主人の機嫌を損ねた犬のような臨也の態度に、徐々にほだされていくのが分かる。そんなかわいらしいものでないことは十二分に理解しているのだが。顔がいいから可哀相だなどと思えてしまうのだろうか。忌ま忌ましいことこの上ない。
相合い傘くらいいいかな。そう思った時点で、負けは決定したも同然である。

「持つのは、臨也さんですよ」
「もちろん! しっかり家まで送って行くからね」
「もう好きにしてください。しかし、本っ当に物好きですよね……。わざわざこんなことのために来たんですか」
「うん? んー。だってさあ」

嬉しそうに開かれた傘は綺麗な水色をしている。見た目の良さとあいまって、ぱさりと雫を飛ばす姿は絵画のようだ。よく見れば、ここまで来るまでに彼の傘を濡らしたらしい雨が、コンクリートに水溜まりを作っていた。それだけ長い間待っていたのだろう。帝人一人のことを。
そんなことを考えていたからだろうか。

「好きな人を雨に晒してさ、平気でいられるはずないでしょ?」

優しいと錯覚してしまいそうな笑顔と言葉。思わずときめいたのは、帝人にしてみれば不覚以外の何物でもない。それでも確かに、かっこいいと思われた。

「……あー、困った」

このままでは落とされるのも時間の問題かもしれない。
近い未来の自分に背筋が寒くなるのを感じ、帝人は小さく体を震わせる。そしてそれを心配した臨也に、またときめいてしまうのだった。





END.

2010/03/02


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