心の腐乱臭





腐って腐って腐って腐って、そして朽ちればあるいは幸福なのかもしれない。熟しすぎて食べられなくなったトマトのように赤く、最期には黒く黒く潰れていく。それを食材とする人間としては腐敗などというのは迷惑なだけだろう。けれどトマト自身は何を思うか。土と一つになり次世代のために種を遺す、これほど幸福なことはないのではないか。
恋とは腐ることだ。青葉は考える。相手に焦がれ、時を待ち、熱い思いと共に腐っていく。与えられる恋やら愛やらに晒されて、柔らかく柔らかく腐っていく。トマトと同じ。そしてその恋あるいは自らの終わりのときさえ、幸福を感じるのだ。種を残せるかどうかは別として。
掌に巻かれた包帯を眺める。見事に刺されたボールペンは穴を開け、凄まじい痛みを青葉へ突き付けてきたものだ。今はほぼ治りかけている傷。それが何故かひどく寂しい。自傷が趣味というわけでは当然ない。ただ、治ってしまうことが不満だった。どうして腐ってしまわないのか、そのまま落ちてしまわないのか。青葉の心の内を具現するように黒ずんでいけばいいのだ。まるで恋にさらわれるように、腐っていったなら。

「青葉君?」

帝人の心配そうな表情に笑顔を向ける。黙り込んだ青葉を気にかけているのだろう。つくづく優しい人だ。胸中で吐き出して、じくじくと熟していく心に蓋をする。
安心したように前を向いた帝人を横目で眺める。細められる瞳に、ゆっくりとしかししっかりと回る口。少し力を入れれば簡単に折れてしまいそうな首。綺麗だと思う。悲しくなるほどに甘ったるい彼はどこまでもひ弱で、そして美しい。小さくて優しくて温かくてたまに強くて、もうどうしようもないくらいに魅力的で。
これが恋かと思ったのは割と前のことだ。帝人に、大事な人のために何でもできるような非道さを見たからではない。昔の自分ならば吐き気がしていたような優しさを見たからというだけでもない。
そうだ、あえて言うならば、彼はきっと水なのだ。青葉に対して与えられる栄養のたっぷりつまった水。好奇心を満足させ、巡らせた策略の中でうまく使えるはずの存在。彼と会う度、話す度、知らない姿を見付ける度、青葉の中には水が注がれていく。
けれどそのせいで、青葉の心は腐ってしまったのだろう。

「この間園原さんと買い物に出掛けたんだけど」
「はい」
「そしたら偶然臨也さんに出会って」
「はい」
「それに反応したのか静雄さんまで来ちゃって」
「はい」

これが恋だ。程々では済まず与えられすぎた水に、心は恋に占領された。腐る、腐る。取り返しもつかないほどに、黒ずんで潰れて腐っていく。
それが幸福だと思った青葉は、もう朽ちていくことが決まっているのだろう。トマトのように腐敗しきった心は、きっと食べられることもなく捨てられるのだ。それでもいいとまで思うのだから、大分終わっていると自嘲さえしたくなる。

「青葉君、聞いてる?」
「聞いてますよ、先輩」

初めて見る不満げな表情に、青葉は笑みを浮かべる。自分の中の熟れた部分に安堵するように。





END.

2010/04/04


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