窒息の日々を洗う 生徒×先生 何度も何度も深呼吸をして、静雄は顔を上げる。物理準備室というプレートは飽きるほど確認したから用があるのはここで間違いない。それでも緊張は止まず、意図せずノックする手に力を込めてしまった。 「竜ヶ峰!」 「平和島君、竜ヶ峰先生ですよ。あと、扉は後で一緒に直しましょうか」 「……おう」 苦笑しながらこちらを見た帝人は眼鏡をかけている。ちょっとした授業中との違いにどきどきしながら部屋へと侵入すると、帝人の正面の席を勧められた。帝人が座っているのは彼の机ではなく様々な道具が並べてある長机だ。採点はいつもここでやるのだと前言っていた通り、その手元には重ねられた答案があった。 今は放課後で、他の教師はそれぞれが顧問をする部活へと出掛けている。帝人が不真面目なわけではない。彼は園芸部の副顧問であり、週に二日だけの部活のためにすることはないのでここにいるのだ。それを知っていてやって来た静雄だが、やはり緊張してしまう。 きしり。椅子が鳴って、帝人は大きく伸びをした。 「それで、何の用事ですか」 「ああ、その。勉強教えてもらえたらと思って」 「構いませんよ。ちょっと待っててくださいね?」 すぐに採点しちゃいますからと微笑んで、帝人は赤ペンを握り直す。しゃっしゃっと丸をつける音が響く教室。静雄は熱の篭った視線を帝人へ向ける。 大きすぎる白衣のせいで覗く細い手首。真剣に細められた瞳。紙の上を滑る繊細な指先。乾燥するのか時折唇を嘗める仕草だとか、眼鏡を押し上げる仕草がひどく卑猥だとさえ思う。心臓の音が徐々に大きくなっていくのを自覚して、静雄は慌てて目を逸らした。 教師に向ける感情として不適切だとは分かっていた。むしろ男に抱くこともいけないだろう。キスしたいだとか押し倒したいだとか、そんな肉欲を伴った好意。怪物と恐れられる自分にも平等に接する竜ヶ峰帝人に、平和島静雄は恋をしていた。 「でも平和島君、物理だけは真面目ですよね」 「へ」 「他の先生方が言ってましたよ? 平和島が全然授業に出てくれないって」 「う。いや、それはだな」 「ふふ、いいじゃないですか。勉強も程々に、喧嘩も程々に。怪我さえさせなければ僕は気にしません」 「それは大丈夫だ。こないだお前に叱られてから気をつけてる」 「それはよかったです。あ、それと、進級はしないとまずいですよ」 「……努力する」 笑い声とペンを走らせる音がする。それに混じって自分の鼓動が聞こえる。 恐る恐る視線を上げて、静雄はそっと帝人を見詰める。彼はこちらを見てはいない。それに一抹の寂しさを感じながらも、チャンスだと静雄は心中で叫ぶ。 (好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ。こっち向け。いや向くな。好きだ。竜ヶ峰。先生。帝人。好きだ、好き) この気持ちに気付いてもらえないかと淡い期待を込めて、熱い視線を向け続ける。分かってもらえなくてもいい。所詮は自己満足なのだ。こうして見詰めて思いを捧げるだけでいい。今はまだ。 「竜ヶ峰」 (好きだ) 「先生、ですって。何ですか」 (好き) 「何でもない」 (好き) 「えー。変な平和島君」 (好きだ、好きだ好きだ、) きっと最後の砦。帝人を先生と認めるようなことを言わなければ、同じ視点でいられるのではないか。帝人のことが好きだと自覚したときから、静雄が彼のことを先生と呼んだことはない。しかし当然二人の立場は明確で、帝人は大人の瞳で静雄を見るのだ。笑顔を向けてくる帝人に静雄も笑う。自嘲を含んだそれに、彼の想い人は気付くことはないのだろう。 虚しいなと思った。それでも子供の恋で終わらせたくないとも思うくらい、自分は本気らしい。ならば最後まで足掻いてやろうではないか。 「さて、平和島君。どこが分からないんですか」 「おう。つーか竜ヶ峰、採点大丈夫か?」 「あと少しなので平気ですよ。それより、先生です。あと敬語」 「悪い悪い」 もう一度好きだと心の中で呟いて、静雄はノートを開く。自由落下の公式が、こちらを見て笑った気がした。 END. 2010/04/02 |