Vanitas


「なあ。お前、あの吸血鬼にチェロ教わってるんだって?」

 ジョシュアが同級生に声をかけられたのは、丁度チェロのレッスンに向かっていた道行きでのことだった。
 プラリマリースクールは先日、冬季休暇に入ったばかりだ。自分も目の前にいる同級生も、来年の九月には最高学年を迎える。なのに、つまらない噂話を持ち出して人をからかおうとするなんて。背は高いくせに中身は随分と子供っぽいのだなと、ジョシュアは同級生の顔を見上げたまま小さく溜息をついた。
 偶然会ったこのフットボールが好きな同級生とは、五年も学校で顔を合わせているわりにあまり話をしたことがない。ジョシュアの仲のいい友人は楽器を習っている子ばかりで、活発なグループとの交流は少ないからだ。けれど、彼の言う『あの吸血鬼』が誰を指しているのかは分かる。ガブリオーレ先生のことだ。
「僕のチェロの先生は、吸血鬼なんかじゃないよ。レッスンは陽の当たる部屋でしているし、第一、吸血鬼なら教会の近くに住んでるもんか」
「わかんないぜ。日光も十字架も平気な吸血鬼だっているかもしれないだろ。皆、怪しいって噂してる。食料を買ってるのを殆ど見かけないとかさ」
「そんなの、ただの噂だってば。先生は普通の、優しい大人だ」
「優しいふりしてるだけだったら? お前も血を吸われないよう気をつけた方がいいぜ」
「何を言ってるんだ。時間に遅れてしまうから、僕、失礼するよ」

 ジョシュアは緩んでいたマフラーを巻き直して、道を急ぐことにする。先生の噂は子供の間で広まっているもので、吸血鬼だなんて本当に失礼な呼び方だと憤慨しているのだけれど、相手を納得させるまでこの話に付き合っていたらレッスンに遅れてしまう。それに、幾ら反論しても無駄な気がした。彼は先生がどんな人なのかを知らないし、深く考えもせずに、ただ面白がっているだけなのだ。

 この町の外れには大きな湖があり、今の季節は薄氷で覆われている。雪の少ない地域とはいえ、今日は一段と寒い日だ。湖の方角から吹いてくる冷たい風が、ジョシュアの息を白く染める。
 ガブリオーレ先生の借りている住まいは、勿論吸血鬼の住んでいそうな古城ではない。教会のすぐ近くにある一軒家で、他の家と同じように古くから建っている。ジョシュアは先生の家に到着すると、手袋をはめた手で鉄製の丸い戸叩きを握り、玄関扉を叩いた。

「やあ、ごきげんよう。今日も時間通りだね」
「ごきげんよう、ガブリオーレ先生。今日もよろしくお願いします」
「寒かっただろう。さあ、上がって」

 先生は穏やかな微笑みを浮かべて、家の中へとジョシュアを促した。
 その肌は外遊びをあまりしないジョシュアと比べてもずっと白くて、少し癖のある短い髪も、眉も睫毛も真っ白だ。先程の同級生が言っていたことを思い出して、ジョシュアはふと思う。先生が外で買い物を頻繁にしないのは、単に目立つ外見を気にしているからではないかと。
 大人の年齢はジョシュアにとってはっきり判断出来ないものだけれど、先生はもうすぐ四十歳を迎える父より幾つか若く見える。白いセーターに黒のタイトパンツを合わせている先生はすらりと背が高く、少し憂いを帯びた品の良い顔立ちをしている。コートハンガーに掛けられている黒いコートを羽織って外出する先生を想像すれば、あの噂話が囁かれるのも理解出来ないわけでもない。吸血鬼は美形と、相場が決まっているのだ。

 けれどジョシュアは知っている。その薄青の瞳は冬の空の色よりも澄んでいて、話す声は落ち着いていて暖かくて、笑顔はいつも優しい感じがするのだということを。

「レッスンは指が温まってからにしよう。今日は僕が準備するから、これを飲んでゆっくりしていて」  
 ジョシュアがマフラーと手袋を外してダッフルコートを脱ぐ間に、先生は紅茶の準備をしてくれた。部屋のテーブルの上にティーセットと角砂糖の入った器を置くと、元々そこへ置かれていた小包みを別の部屋に持っていく。そういえば丁度、郵便物が届けられる時間帯だ。先生は届いたばかりの包みを開封したところなのだろう。
 ほんの少しだけ見えた小包の中身は瓶で、中に入っていた液体は赤かった。あれは、そう。きっとジャムだ。先生は何ヶ国もを点々としているというから、遠くの知り合いから手作りのジャムが届いたって不思議ではない。

 部屋の隅にある石造りの暖炉の中で、燃える薪がぱちぱちと音をたてている。ジョシュアはティーポットからカップへ紅茶を注いで、まずは掌で包んだ。カップの熱で、両手の指が一気に温まる。暖炉の齎す温もりも、冷えた体をじんわりと包む心地の良さだ。
 紅茶を一口してから窓辺近くに座る先生を見やれば、チェロの右下のペグを巻いて、一番細いA線から順にピッチを整えているところだった。普段は助言を貰いながらジョシュアが調弦を行うので、先生一人に任せてしまって、何だか申し訳ない。ガブリオーレ先生にチェロを教わり始めたのは今年の秋口、まだ気心が知れた仲とは言い難いので尚更そう思う。

 ジョシュアにはガブリオーレ先生よりも長い付き合いの、夏の間だけチェロを教えてくれる先生がいる。夏季休暇を利用してこの田舎町へやって来て、チェロ教室を開いてくれるのだ。そちらの先生には五歳から習っていて、夏限定のレッスンで会えるのを毎年楽しみにしている。都会の楽団に所属しているという夏の先生は子供好きな年配の先生で、物静かなガブリオーレ先生とは違う朗らかなタイプの大人である。
 今年からガブリオーレ先生にもチェロを教わることになったのは、父の勧めがあったからだ。父は物書きで、時々取材と称してふらりと出掛ける。ガブリオーレ先生は父と何処かの町で知り合い、何かの事情でこの町へやって来たのである。
 でもそれらは子供が知らなくてもいい、大人達の話だ。ガブリオーレ先生が何者なのか、その職業すら、ジョシュアは知らない。

 準備を整えると、ガブリオーレ先生は無伴奏チェロ組曲第一番の触りを弾いた。すぐに終わってしまったのを残念に思う。ガブリオーレ先生の演奏は素晴らしいので、出来れば毎レッスン一曲を終わりまで聴かせて欲しいくらいだ。
 ガブリオーレ先生の優しいチェロの音色は、まるで暖炉の火のように、暖かさがじんわりと内側に沁みてくるような心地がする。それは肌寒い季節に初めて聴いたからなのかもしれないし、演奏者であるガブリオーレ先生の雰囲気や、古いイタリア製のチェロそのものの持つ音色のせいかもしれないけれど、ジョシュアにはとびきり素敵なもののように思えるのだった。
 勿論、夏の先生の音色だって素晴らしいのだけれど。どちらにも教わる身なのだから、特別耳に自信があるわけではない子供が技術を比べることはとても難しい。だからこれは、単に音色の好みの問題だ。ガブリオーレ先生が名高いチェリストだと誰かが言ったならば、ジョシュアは信じてしまいそうだ。それくらい、ガブリオーレ先生の音色には心惹かれるものがある。

「さて。始めようか」
「はい、ガブリオーレ先生」
 ジョシュアはティーカップをテーブルへ置いて立ち上がった。先生と入れ違いに窓辺の椅子へ腰を下ろして、ネックを支えてもらっていたチェロを受け取る。
 まずは先生のかけてくれるメトロノームに合わせて、順番に音を出す基礎練習から。肘や腕が上がらないよう気をつけて、正しい姿勢を保ちながらメトロノームを待つ。ところが先生は、思いがけないことを口にした。
「ジョシュア、少し言いにくいんだが。これが最後のレッスンだ」
「え……?」
「急で済まない。君に教えてあげたいことも、まだ沢山あったのだけど。僕は、あるべきところへかえろうと思う」
「あるべきところ?」
「そう。チェロで例えるなら、僕は、ようやく魂柱を立てられたところなんだ。だから、かえるのは今しかないと思ってね」
 先生はジョシュアとの別れを惜しむかのように、少し悲しげに微笑んだ。

 滑らかな曲線が美しい、チェロの飴色の表板。その内側、裏板との間に立てる棒を魂柱と呼ぶのだと教えてくれたのは、ガブリオーレ先生だ。チェロだけでなく、バイオリン属の全ての楽器にある魂柱には、音を裏板まで振動させて楽器全体に響かせる役割がある。
  音を左右する大切な部位なので、魂柱を立てるのは楽器に魂を吹き込むようなものだと、以前、先生は言った。

 ジョシュアには、ガブリオーレ先生の例えがよく掴めなかった。今日が最後のレッスンで、先生は何処かへ帰る。ということは、この町から引っ越してしまうということだろうか。
 もう先生とは会えなくなって、その音色も聴けなくなってしまうのは寂しい。それでもチェロの大事な部位に例えられたなら、大事な決断なのだと受け取って頷くしかない。
 僕は大丈夫だ。お別れするのは寂しいけれど、先生とは一緒に過ごした時間がまだ少ないから、涙が出るほど悲しくなったりしない。これが最後のレッスンならば、教わった分の成果をしっかりと披露しなくては。
 ジョシュアは動き始めたメトロノームに合わせて、なるべく正確な音が出るように気をつけて、丁寧にチェロを弾いた。

 ガブリオーレ先生はレッスンが終わると、君は良い子で、とても良い生徒だとジョシュアを褒めた。
 帰り際には父宛ての手紙を託された。手紙の中身を知りたい気もしたけれど、やめておいた。良い生徒は手紙を盗み見たりしないものだ。
 父は渡した手紙をすぐに読んだのだろう。夕方の庭で腕を組んで、物思いに耽っているのを見かけた。知人が町から去ってしまうのだ、別れの手紙を読んだ父は、きっと自分以上に寂しく感じているのだろうとジョシュアは考える。
 本当のところは、血の繋がりがない父には尋ねにくい。父と母は再婚で、ジョシュアは母親の連れ子なのだ。いつも笑顔を向けてくれる優しい父であっても、子供の自分から先生との関係について踏み入るのは気が引けるのである。

 最近は夕食の時、育ち盛りだからと言って僕に沢山食べさせようとしていたものだったが、この夜を境に父はそうしなくなった。やはりガブリオーレ先生が引っ越してしまうと知って、気落ちしているに違いない。


*******
 
「なあ。お前のチェロの先生だけど」
 冬季休暇が明けて登校すると、あの日先生を『吸血鬼』と言った、フットボールが好きな同級生が話しかけてきた。今日はいつになく真剣な顔をしている。
「あいつ、灰になったんだってな。お前がやっつけたのか?」
 朝からこんな縁起でもない話をされたら、流石に怒っていいだろう。ジョシュアは強めの口調で言い返した。
「なんてこと言うんだ。先生は引っ越しただけだよ」
「だって、ダイアンの兄貴が灰になるのを見たって。ダイアンの家は教会の近くにあるだろ。遠くの町で働いてる歳の離れた兄貴がいてさ、冬季休暇中は帰省してたんだ。兄貴は友達とお酒を飲みに行って、その帰りにあの家の前を通ったらしい。そうしたら、吸血鬼が苦しそうな様子で庭に出てきて、あっという間に灰になったって」
「酔っ払いの話をそのまま信じるなんて馬鹿げてるよ。人間が灰になるわけない。先生は元々住んでいた町に帰ったんだ、僕にそう言ったんだから」
 ジョシュアが睨むと、相手は意外にも眉を下げた。
「お前がそう信じたいなら、それでいいよ。けど俺も他の奴も、冗談じゃなくて本気で心配してたんだぜ。無事で良かったな」

 授業が始まる。
 喧嘩になるのを覚悟していた同級生の思いがけない困り顔に、ジョシュアは動揺していた。そうして初めて、先生が本当に吸血鬼だったならと仮定して、これまでのことを一つ一つ思い返してみる。
 そうだとしたら、吸血鬼よりも恐ろしいのは。

 考えているうちに気分が悪くなってきて、僕は学校を早退した。迎えに来た父に、車の中で問う。
「ねえ、お父さん。ガブリオーレ先生から貰った手紙のことだけど」
 運転する父が、抑揚の無い声でゆったりと答えた。

「ガブリオーレ──ああ、残念だけどあれは手違いで、灰になってしまったねぇ」
 

 
 
end.




(camelさんと、台詞付きイラストを交換して物語を書く遊びをした時のものです。ありがとうございました!)


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