初めに翼があった。 その血の通ったふわりとした白い翼を難なく動かせたとき、ああ僕は鳥になったのだと察した。 ところがその認識は、秒にも満たない時間のあいだに自らの行動によって、覆えされた。パチンと、乾いた両の手のひらが合わさる音。僕が合点がいった際に無意識に行う癖だ──え、僕、手もあるの! 「煩いぞ。もう少し、静かに」 後方から飛んできた、静謐な声に振り返る。 僕は驚きのあまり言葉も無かった筈なのだが、「煩い」との指摘は手を打った音に対してなのか、それとも条件反射のようにばさりと広がったこの翼に対してなのか。確かに辺りは、微細な音も気に触る程の静けさに包まれている。 自分の手を確認した瞬間の視界には、自然と足元も映り込んでいた。黄金の光の中で雲みたいなふわふわとした地面を見慣れた素足で踏みしめていた僕は、成程どうやら鳥ではないようだ。 そして、僕の今の姿に纏わるヒントは振り返った先にあった。たった今、粛々と注意を促してきた存在。彼、或いは彼女は、白い翼を美しく畳んだままに浮いていた。金細工の施された革表紙の本を片手にして、ペリドットの嵌め込まれたような瞳でこちらを見ている。 天使だ。ということは、見たところ同じ翼を携えている僕も、今は天使の姿になっているのか。けれどもこの瞳の色と中性的な顔立ち、無表情で人間味の無い美貌には既視感がある。 そうだ、彼は僕が昨日だか今日に見た、球体関節人形にそっくりじゃないか。記憶というのは眠っている間に整理される、ということは。 「こんにちは。その……天使さま?」 「ごきげんよう。そう私は天使、なかなか察しがいいようで助かる。尤も、君も今の姿は天使だけれどね」 また苦言を呈されては適わないと、僕は天使に小声で話しかけた。意外にも微笑んで答えてくれたので、まずは一番確めたい事柄について単刀直入に質問する。 「僕死んでませんよね?」 「勿論だとも」 「良かった。じゃあ、やっぱりこれは夢か……」 「夢? ああ、そのように認識しても問題はない。ある意味では好都合」 「どういうことです」 「これは布教活動の一種なのだ。君には天使の仕事を体験してもらう」 「なんで」 「一日警察署長というのを?」 「知ってますけど」 「あれは私達の真似をしている」 「嘘だろ」 「何か?」 「いえ何でもないです」 真顔で天使らしからぬボケをかまされて、やっぱりこれは夢だ、と僕は確信した。見た目は美しくとも中身はポンコツの天使が登場する、不出来な夢。僕らしいといえば僕らしい。 天使は手の中の分厚い本をパラパラとめくると、僕に近寄ってきてあるページを見るよう勧めた。 「天使の仕事にも色々あってね。どれ、君には何がいいだろう。試しに一つ選んでみたまえ」 一覧にずらりと並ぶ天使の仕事の数々。どうして僕にも読める日本語なのかは突っ込まないことにする。何せこれは夢だ。 仕事の内容はありそうなものから意外に思えるものまで様々で、僕の想像で出来ているわりに目で追うのが面白い。けど、意外とポピュラーなものは無いな。 「あれは無いんですか、受胎告知」 天使の仕事では有名な部類だと思い、僕は興味本位で聞いてみた。すると天使は小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。 「いつの時代の認識だい、今は令和だよ。これだから私達天使は、布教活動で最新の天界事情を人の子へ伝えねばならないのだ」 「昔と今ではそんなに違うんですか」 「フレックスタイム制、という働き方を?」 「知ってますけど」 「あれは私達の仕事ぶりをモデルにしてい」 「うん絶対夢だろこれ」 「何か?」 「いや何でもないです」 言葉を区切ればまた不自然な程の静寂が訪れる。酷く静かで、けれど鮮明な、目覚める気配のない長い夢だ。 仕方なく、仕事を一つ選んでみることにした。 「それじゃあこの…、仕事その104。漂流する天使譚に紛れ込む、というのは?」 「それは君にはまだ早い」 天使はそう言ってパタンと分厚い本を閉じる。 「うむ、まずは準備運動といこう。それでは翼の体操から」 「ああ僕よ早く目覚めてくれ」 end. (ほがりさんのTwitter企画、#漂流する天使譚 にて漂流させたお話でした。ハッシュタグを辿ると様々な天使に出会えますので是非!) |