ST.Valentine
 ああ、なぜ……。
 私はオーブンの蓋を開けて絶望した。大理石の調理台、床暖房完備、ありとあらゆる調理器具の揃ったこのキッチンに、それはひどく不釣り合いだった。
 泣きたくなる気持ちを平手でひっぱたいて、黒焦げになったフォンダンショコラを調理台に積む。約半日を費やして量産された物体Xが山になっていた。煤けた空気が鼻腔に入り込み、肺を攻撃する。むせながら愚痴た。
「お菓子作りなんか、分量と調理法さえ正しければ、それなりに出来るものだと思っていたのに」
 できたてのフォンダンショコラを味見してみて、とても食べられたものじゃない苦さに流しへ顔を突っ込む。蛇口を勢いよく捻り水道水で口から出た失敗作を洗い流す。十二個十五分の焼き時間を、三十六個用に三倍したのが悪かったのだろうか。
「京子!」
 父ががみがみ怒鳴りながらキッチンの扉を開ける。
「薄野さんにキッチンを使わせてやりなさい。このままでは晩御飯が食べられん。朝昼と我慢して使わせてやっていたら、いつまでも菓子作りに興じおって……なんだ、この焦げ臭いにおいは?」
 部屋に漂う空気をかぎ取るように斜め上を見上げて鼻をひくつかせた。調理台に積み上がった黒い塊はまったく未処理だ。
「み、見るな!」
 私は反射的にフォンダンショコラ、もとい生物兵器を父に投げ付けた。




「あさってバレンタインだよね! クッキー作って来るから皆食べてね」
「よっしゃ食べてやろう。持っておいでなさい」
「ねぇ好きな人には何あげる?」
「彼氏にはデパートチョコあげて分けて貰おうかなー」
「クッキーはクラスに配るつもりだけど、好きな人いないしねー」
「最近はさ、女子どうしじゃなくて、男子どうしもチョコあげあうらしいよ」
「えーやだー」




 二月十一日。バレンタインデーなるものが、三日後に控えていることを私は知った。
 「男どうしでチョコレートなんて、チョコレート業界も冷え込んでるのかしらねー」と夢のないことを代島さんは言っていたけど、姐御肌な彼女のこと、きっと当日は何かしら用意して来るに違いない。
 そう思ったらいてもたってもいられなかった。遅れを取るわけには行かない。
 チョコレートを作ったとして……。
 あげる相手はきっと……。
 泡立て器で卵を混ぜながら、ピンク表紙のレシピブックを睨む。コンビニで男子がいかがわしい本を買う時みたいに、学術書と重ねてレジに出したものだ。こんな浮かれた本。買うことがあるなんて思わなかった。
 あげる相手はきっと、代島さんと、いつも彼女と一緒にいるクラスメイトと、それから……。
 ふと、いつも頼りなげにへらへら笑うとある男子の顔が頭に浮かんだ。
 違う、最初から、バレンタインというどこかの宣教師もとい洗脳師の名前を聞いた時から、頭に張り付いて離れない顔だ。
 特別かっこいいわけじゃないし、むしろださいし、クラスに馴染む能力も気概も足りないし、私より頭は悪いし、庶民だし、まったく、まったく、存在感皆無が前提のエキストラみたいな男子だけど。
 私はきっと彼にもチョコレートを渡す。バレンタインという呪われた日に、雰囲気という呪文をかけられて、私はチョコレートを渡す。
 バキイッと派手な音がして、顔面に卵黄がヒットした。泡立てに力み過ぎたらしい。
「うぇ……まっず……」
 ぬるぬるするだけの卵黄、味付けなし、はあまりおいしくない。
 もう一度卵をボウルに割り直す。
 あげるからには失敗作は作れない。


 当日は朝から憂鬱だった。
 結局、失敗作しかつくれなかった。
 父にキッチンから引きずり出されそうになって、フォンダンショコラ(炭)で一戦交えたり、材料の補充にコンビニまで走ったりしたけれど、そのすべてが徒労に終わってしまった。
 寝不足でクマの出来た顔が鏡の向こうで肩を落としている。ベーキングパウダー臭い体をシャワーで流し、制服に袖を通す。リビングに戻ると、今は見たくない立派なお弁当がどんと腰を据えて待ち構えていた。
 お手伝いさんの作ってくれたお弁当はいつもお節料理のようだと感心される。そして本日のデザートであるゼリーはキラキラと美しい仕上がりだ。お手伝いさんである薄野さんは、友人とお昼を食べるのだと告げた翌日から、馬鹿みたいに手の凝った昼ご飯を用意してくれるようになった。それは嬉しいのだけど……だけど……。
 朝食のトーストを親の敵とばかりに噛み付き貪る。
「お嬢さん、そんな撃ち殺しそうな目をしていては、怖がられますよ。ガンマンみたいです。撃ち殺すなら男性のハートぐらいでないと」
 ティーポットを持って控えた薄野さんがセンスの古い冗談を言う。
「薄野さんはずるい」
「どういうことでございましょ?」
 薄野さんは、マグカップに紅茶を注ぎつつ、にっこりと優しそうな下膨れ顔を崩した。
「京子さんは、頑張ったじゃないですか。来年は薄野と一緒に作りましょう。コツさえ掴めば簡単ですよ」
「私はひとりでっ……」
 言いさして、テーブルクロスに目を落とす。
 彼の言葉を思い出した。
 その一言で私を幸せにした何気ない言葉を思い出した。

――湯潟に教室にいて欲しい。

「薄野さんは私とお菓子を作りたいって思ったことあるの? あの、私、普段ちっとも料理しないから、もしかしてって」
 テーブルクロスの裾を両手で丸めつつ尋ねてみる。
「ええ、そうですよ。京子さんとキッチンに立てたら楽しいでしょうねぇ。あら、どうしました、お嬢さん? テーブルクロスで顔は拭けませんよ」
「私も」
「ほらお顔にあてがうならこっちのナプキンを、今何かおっしゃいました?」
「私も、薄野さんと料理したい」
 薄野さんが息を飲んだ。
「お嬢さんからそのような言葉を聞けて、感無量でございます」




 薄野さんは涙を流しながら、私にケーキの箱を持たせてくれた。
「フォンダンショコラではございませんけど、自信作のガトーショコラです。せっかくのバレンタイン、お友達と楽しんで下さいな」
 背中を叩かれ、耳打ちされた。




「あー! ガトーショコラ!」
 代島さんがケーキの箱を開けて嬉しそうに叫ぶ。
「バレンタイン?」
「自分で作ろうと思ったんだけど、間に合わなくて」
 精一杯の見えをはる。間違いではないはず。自信作というガトーショコラは実にいい色合いをしていた。甘いチョコレートのにおいが舞い上がって、喉の奥が甘ったるくなる。
「ねー桐原くーん!」
 代島さんが、購買で買ったらしきパンを持ちぷらぷらと教室内を歩いていた桐原君を呼び止め手招きする。
「なに?」
 面倒臭そうに彼は眉をしかめた。桐原君はたまに代島さんの発想と行動力について行けなくなるらしく、ろくなことがないと言ってけむたがるきらいがある。
「京子ちゃんのバレンタインガトーショコラ、食べないの?」
「は?」
 彼が信じられない、という風に私を見た。私は胸を張る。せめて堂々としていよう。
「湯潟が?」
 難しい顔のまも早足で近付いて来る、その勢いが少々恐ろしくて後ずさる。
「わたしちょっと用事が」
 代島さんが桐原君にハイタッチしつつ教室の外に消えてしまった。
「これ、バレンタイン用。本当はガトーショコラを作ろうと思ったんだけど」
 じっとケーキの出来映えを見ている。私と見比べる。片方の頬がぴくぴくと痙攣し、食い入るように私を覗き込む。
「ど、毒は入ってない」
「いや、わかってるけど。湯潟って料理しない子だと思ってたわ……」
「料理くらいする」
 出来るかどうかは別だが、そんなささやかな問題点を見せる必要はない。
「僕、に?」
 桐原君はなぜかくるりと三百六十度回転した。
「そう」
「それはつまり?」
 桐原君が顔を真っ赤にする。顔中の筋肉が締まりなく歪み、変な薄ら笑いまで浮かんでいて、完全にいつも以上のだささをかもしだしている。
 私はしばらく呆然とその赤らんだ顔に見入っていた。
 ださいのと、それに魅力を感じることは別物なのだと遠くの方で思う。しかしなぜ彼は照れているのだろうか。首を捻って、私はとんでもない行き違いをしていることに気付く。
「やっほー紅茶買って来たー!」
 桐原君の背後から元気ハツラツな声、抱き着かれて前傾する桐原君、その衝突先にあるガトーショコラ。私は慌ててそれを胸に抱き抱える。桐原君の額が机に激突して、骨が割れたみたいに固い音がした。
「バレンタインでしょー。一人ひとパックリプトンプレゼンツー! 好きなの選んで」
「リプトン」
「重てぇ」
「あらごめん遊ばせ。京子ちゃんどれがいい? 多めに買って来たから他のひとの分気にしなくていいよ!」
「リプトン」
「ん? リプトン苦手?」
「好き」
「ならよかった!」
 代島さんのことだから大作を作って来るのだと思っていた私は拍子抜けする。
 不戦勝不戦敗一引き分け。
 そんなテロップが目の前で踊った気がした。
「ふふふ」
 代島さんに負けたくなかったのだけど、せめて見劣るような姿は見せたくなかったのだけど、これじゃあ勝負も何もあった物ではない。勝手に始めた戦が、まったく空回りで幕を閉じてしまい、肩の力が抜け落ちる。気負っていた物が拳のフリ卸先を見失って、笑いの形で溢れた。
「あ、笑ったー! 今日一日超怖い顔してたからさ、桐原くんになんか用事あるのかと思ったんだよね」
 代島さんが私に蚊を落ちか付け、手のひらを壁に見立ててささやく。
「ど? 上手く言えた?」
「なにを?」
「告白」
「代島さん」
 言葉に詰まる。ケーキの箱を中身がつぶれるくらい抱きしめて、焦りを押さえ込んだ。
「もともとそんなつもりない。大丈夫。……ありがとう」
「な、なんですってー!」
 代島さんはすぐ感情を声の大きさで表す。意外だという感情をその高音に託し、桐原君を見た。
「でっかいたんこぶ出来たんだけど! 力加減という物を考えたら良いと思うね。ってなに先にケーキ切り分けて」
「みんなで食べましょー。これ、京子ちゃんのお手伝いさんが作ったんだって。うわーすごいずっしりしてるおいしそう!」
「おいこら一切れ小さいのが混じってるぞ」
「等分とか苦手だもん」
「まさか代島さんって」
「な、なによ、四等分くらい出来るに決まってるじゃない。オホホホ。京子ちゃんのぶんよ。ほらお食べ」
 巻き添えになった私は、代島さんに口の中へケーキをねじ込まれる。想像以上にしっとりとして甘い。おいしい。
「だよなあ」
「うっわその目信用してないむかつくー」
 リプトンを持ち、代島さんは桐原君の首筋にそれを押しつけた。
「嘘付けつめた! つめてぇ! やめて!」
「はっはっは、モテない男は辛いねえ。人の気遣い無駄にする奴は許せん」
「意味わからん言いがかりはよせ」
 リプトンパックの力を借りて、代島さんは桐原君を組み伏せていく。何とか理由を付けて彼の額を冷やしているのだとわかっていたから、私は黙ってリプトンのパックを開けた。ミルクティー。
 いかにもたくさん入れるためにざっくばらんに作りました、と言わんばかりの大味な紅茶をごくごくと飲む。緊張でほてっていた体が内側から冷えていく。
 代島さんに襲われる桐原君を見ながら、少し、寂しい気がした。
 なぜ代島さんに負けたくなかったのか。
 ガトーショコラを紙皿に取り分けていく。
 答えは出なかった。
 自分が菓子作りを仕様とした動機の根本原因がそもそも非常に曖昧で、自分ですら把握していなかったみたいである。
 私は気遣い上手な代島さんに対して抱えるこの気持ちの形にも、桐原君の照れた顔に対してうわずったこの気持ちの形にも、与えるべき言葉を見つけられなかった。
 ただ今は、胸が締め付けられるような寂しさも、喉の奥のしょっぱさも、まともに指を動かせそうにない甘い痛みも、生まれて初めて味わう物だから。
 大切にしまっておきたいと思う。
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