白天星
 最近、夢をよく見る。
 世界が一面、真っ白なんだ。
 とても美しくて、眩しいんだ。


 ベッドの中で目を覚ました僕は、まだ眠気の残滓がある重たい上半身を起こした。小学生の時に買ってもらった学習机にくっついた、電気スタンドの紐を引っ張る。パチパチパチっとグローランプの明滅する音と共に、弱々しい光が真っ暗な部屋に灯った。片付けられた学習机の上には、ラップをかけられた食事のトレー。腰を引きずるようにして覗き込むと、冷めたスープとカツレツが二枚、それから山盛りのご飯が盛られていた。

 さっきまで、真っ白な世界にいた。
 光の粒が炭酸水のように弾け、半袖シャツから伸びる肌の上で踊っていた。きらきらと世界は輝いて眩しく、全身が温かかった。誰かの楽しそうな笑い声がさざ波のように周囲で揺れていて、花や土の甘い香りが微かに漂っていた。
 その光の世界の中で僕はなぜかとても幸せだった。

 目を覚まして初めて目に飛び込んできた現実は、冷たく、冷蔵庫よりも冷え切って愛がない。確固たる立体感と存在感をもって立ち現れた現実は、幸福感に満ちあふれた夢の世界に少しも場所を譲ってくれそうにない。僕は、ため息を深く長く吐き出して、勉強机に置かれた夜食、もとい一日分の食事を咀嚼する。右の奥頬がじんわりと痛くなった。冷たくて固くてぼそぼそしている。こんなご飯を何年も食べ続けている。それでも、一日に一回しか食事を与えて貰えない体は歓喜に震え、僕はしばらく無心で食べ物を口に放り込み続けた。
 トレーの上が大半片付いて、背中を丸めた無理な姿勢に痛痒を覚えた僕は、背筋を伸ばすため体を反らす。伸びをする僕の目線の先には、小学三年生で止まったきり増えない教科書とノートが広い棚の中、申し訳程度に立っていた。
 小学三年生の頃からだ。僕が日中、起きていられなくなったのは。きっかけは何だったか忘れてしまった。多分友達と仲たがいでもしたのだろう。ある日突然、朝起きる事が怖くなって、熱が出た。母親が放任主義だったものだから、そのまま何日もズルズルと休み続け、ちょっとずつ、ちょっとずつ、起きる時間がずれて行った。
 これだけならよくある不登校だろう。
 違ったのは、僕の場合、睡眠時間が徐々に伸びて行ったことだった。
 さすがに積み重なる欠席と食事すらせず眠り続ける息子に不安になった親は僕の手を引っ張って、何十軒もの病院を回り、その五倍以上の医者に面通りして来た。だが、僕の眠り癖は治らず悪化の一途を辿り、ついには『眠り病』となった。医者はことごとく匙を投げ瞼を下ろして首を振り、とうとう診療時間に起きられなくなった僕は、家から出ることもなくなり、とっくに高校生の年齢となった今も昏々と眠り続けている。
 時計を見ると二時三十五分。昨日より五分遅い。
 暖房のない部屋で、僕はぶるり、と身震いした。
 最近、加速度的に睡眠時間が増えている。このままでは一日中起きられず眠り続けるようになるであろう。一日は二十四時間ではなくなり、僕はついに普通の人の枠組みを越える。
 それは、かなり、怖いことだ。
 食事を終えると体内から眠気はすっかり消え、僕の気分もかなり優れた状態になっていた。氷水の張った湯舟を横目にシャワーを浴び、寝ていても伸びるひげを剃って、通販で揃えた服を着て玄関をくぐる。そのままぶらぶらと目的もなく繁華街へと向かう。
 繁華街は、明るいから好きだった。僕の感覚の中で、家はもう何年も四六時中寝静まっていて、父親や母親の顔もずいぶん見ていない。あの家にいると、自動で食事の出る建物に一人住んでいるような気分になって気が滅入った。不登校児の癖に人恋しくなって繁華街へ出歩くようになったのはここ最近のことだ。と言っても、起床時間が短いから体感的なものでしかないのだろう、そういえば、最初ここに来た時僕は夏服を着ていた気がする。スンスン、と鼻を鳴らしてみると、ムゥと蒸す酒臭い空気の中に、肉と油の旨い香りがする。口の中にじゅわ、と唾液がわいて苦しくなったが、香りの出元は分からなかった。
 ポケットに両手を突っ込み、背中を丸めてタイル張りのアーケードを進んでいると、「ソウ」と呼び止められる。声のした路地裏の暗闇に目を凝らすと、短い金髪に耳だけでなく顔面を這ういくつものピアスを付けた男がニタニタと口角を上げていた。ツカサだ。
「ソウ、そろそろだと思ってさ」
 ツカサは、当然のように僕をソウと呼ぶ。彼と初めて出会った時、とっさに僕がソウタ、と名乗ってしまったからだ。ソウタは小学生の時最も仲が良かった奴の名前だと気付いた数日後、進まない時間軸の中に捕われ続ける現実を思い、僕は吐いた。路面にろくに消化もされない飯粒を撒き散らす僕を指さして、ツカサとその友人たちはゲラゲラと笑っていた。彼らの髪の毛は赤かったり、攻撃的に逆立っていたりスキンヘッドだったり、手足に入れ墨がのたくっていたりしたが、それを奇妙に思いこそすれ、怖いだとかアンモラルだとか、社会概念から外れているとか、そういう風に感じはしなかった。ちょっとかっこいいなと思った程度だ。初対面の時きょとんと彼らを眺め回していたら、物おじしない馬鹿だと見なされて、それ以来僕らは仲間をしている。
「ホレ」
 手渡された封筒を逆さに振ると、カプセル薬が七錠出て来た。僕は家の金庫からくすねた一万円札を五枚ツカサに押し付け、喉の渇きを癒すため水も飲まずにそれを食道の奥に落とす。
「空腹状態だとキクんだけどな、オマエ、それは無理なんだっけか。もったいねぇな」
 ツカサの低い声を耳に響かせながら、薬が胃壁に吸収され血管を伝って全身を隅々まで巡るのを待つ。程なくして、視界の端がちかちかと極彩色にきらめき始め、足の裏がぐにゃぐにゃと崩れ落ちて行った。かっと指先が熱痒くなり、逆に背中がぞくぞくと冷や汗に濡れる。脳みそが最初はゆっくりと、次第に速く、眼球を引きずって回転し始めた。耳元で天使達が金属質なファンファーレを奏でる。膨れ上がった毛細血管がぴりぴりと全身に快感を送り、思考回路は体感への不快感でいっぱいなのに、肺がエヘラ、と笑う。笑い出すと何がおかしいのかもわからないままぽんぽんとエヘラが飛び出した。エヘラ。エヘラ、エヘラ。エヘラエヘラエヘラ。耐え切れなくなって地面に転がり涙と鼻水を流しながら笑い転げる。
 トリップだった。
「ギャハハハ、ソウタァ、もっとイケ、もっとイケるぞぉ?」
 誰のものとも知れない、つんざくようなエールが鼓膜を貫く。誰かに頭を踏まれ、さらに何錠か薬を飲まされたような気がする。しかし、僕にはもう、薬が与えてくれる蠱惑的で幾何学的な刺激しかわからなかった。


 胃袋の冷え切った感覚で目を覚ます。指先や爪先は神経が断絶したのか、動かしてみても何も感じない。地面をのたうちまわったせいで、頬が軽く切れ、口の中も鉄臭かった。
 ツカサの姿はない。彼は僕に薬というアメを与えて金を得るのが目的だから当然だった。完全なるギブアンドテイク。だから僕らは仲間だ。そうでもしないと、僕に声をかけてくれる人はいない。薬でのトリップ自体は、一瞬の快感の後だらだら尾を引く不快感を連れて来るから、あまり好きになれなかった。
 立ち上がり、ふらふらと足を運ぶ。世界は恍惚に心を満たしてくれた先程とは打って変わって、悪意を剥き出しに僕へ襲い掛かって来た。ぐにゃりと曲がった街灯が僕の脳髄を割ろうと落ちてくる。不安に竦み上がり、ひきちぎれそうな心臓を宥めつつ覚束ない足取りで僕は逃げ続ける。起床時間の短い僕にとって、薬のもたらす予測不可能で不安定な感覚は、ただただ不愉快なだけだった。それでも、薬を飲まなければツカサ達へ存在価値も信用も証明できないから、歯を食いしばってこの暗澹とした時を耐え忍ぶ。
 体の内側を薬が蝕んで行く事には気付いていた。けども、眠り病のことを思えば、薬に食われた臓器四肢など無きが如しで案ずる必要を感じない。繁華街を行く酔ったサラリーマンや、呼び込む声に疲れを滲ませる体の線が崩れた女性達。夜に朝が滲み始め、夜を彩る絢爛豪華な魔物はその効力を失い始めている。擦れ違った男に啖を吐きかけられ、僕はそれをまるで手榴弾のように恐れ逃げ惑う。電圧の下がった人形のように気怠く重たい全身をガラガラと引きずり、再び路地裏へ入り込んだ。眠気が夜の帳のように世界へ幕を引き寄せている。
 早く帰らなくては。
 額を押さえ、眠気に気をとられた僕は何かにつまずき、身を支えようと慌てて周囲に手をさしかけた。
 軽いが大きさのある何かが指先で弾き飛ばされ、路地の奥へと滑空して行く。廃品や生ゴミの山に突き刺さったのか、鈍い音を立てた。
 僕は姿勢を崩し膝をつく。掴まるに最適な何かが脇にあって、急な姿勢変化に対応出来ずくるくると回る視界を向けると、そこにあったのは巨大なポリバケツだった。いくつか壁に沿って並べられている。さっき弾き飛ばしたのはポリバケツの蓋だったらしい。
 ポリバケツからは、何かが溢れ出していた。僕はポリバケツから生える何かを右手ですっと撫でる。湿った布の突っ掛かる手触りの下に、冷たい何かが通っているのがわかった。同時に、生ゴミの腐敗臭が指へ糸を引いて絡み付き、僕はひっくり返りそうになる胃袋を無理矢理飲み込んだ唾で黙らせる。
「人……?」
 あえぐ僕の鼻に突き刺さるのは紛れも無い人毛の束で、それはゴミから出た汁をあたかも栄養剤のように吸い上げてねっとりとした汚らしい海綿と化している。僕は慌てて飛びのき、鼻の奥まで液体の形で侵入した汚物を取り除くべく顔面を両手でごしごしと擦った。それでも嫌な臭いは全く軽減されず、体の奥を撫で回しムカつかせる。
 改めて見るとポリバケツから溢れ出しているのは人間の体をしていた。すらりとした手足を投げ出し、長く癖のない黒髪を垂らしている。怜悧に整った横顔は頬だけふっくらとしてあどけない。歳の頃は僕と同じくらいだろうと思った。彼女は両手で黒く細長い筒を構え、空を見上げている。手にしているのは望遠鏡だろうが、細く短い望遠鏡にとっては宇宙へ向かう直線コースは古ぼけたビルやら光化学スモッグやらネオンやらの障害物が多過ぎた。
「ねぇ、きみ、名前はなんて言うの? どうしてこんな所にいるの?」
 コツ、と少女は望遠鏡を覗き込んだまま首を傾げた。路地の入り口から差し込んだ明かりが、くすくすと少女を笑わせる。
「名前は――」



***


 世界が一面真っ白な夢を見た。
 漂白剤でも使ったんじゃないかと言うくらい真っ白で、影がなかった。
 最近よく見る夢。夢の中で僕は、これを夢だと自覚している。
 誰かが僕の名前を呼んで、腕を引いた。これからみんなと遊ぶのだ、と予感のような物が閃いた。疲れてからだが泥のようになるまで、ずっと。
 それは、なんと幸せなことだろうか。


 少女は結局名前を教えてくれなかったが、僕は別段不満に思わなかった。彼女は、僕が隣にいても嫌そうな顔ひとつせず熱心に自分のすべきこと、望遠鏡を通して空を見上げること、をし続けていたからだ。隣に僕がいることを許してくれたからだ。
 あの日から僕は毎日彼女の元に通った。バイクを飛ばすツカサとすれ違ったり、ツカサと同じく奇抜な格好をした青少年たちがサラリーマンをリンチしたりしている場面を目にしたりすることもあったが、僕は声を掛けたりしなかった。かっこいいな、と思うし、楽しそうだな、とも思う。夜風を受けて町を切り進み、電子ゲームでもするみたいに、力の限りを実在の人間にぶつける。だけど、この通り僕はバイクなんて持っていないし――そうツカサに言うと「盗めばいいじゃん」と笑われた――やはり実物の人間が血を流しヒイヒイと泣き叫ぶ姿はどこか醜くて、なぜか、涙を誘った。胸の奥がぎゅっと締め付けられて、逃げ帰って布団の中に潜り込みたくなるくらい寂しくて悲しい気分になった。
 それに比べれば、少女の隣にいることは平坦で、刺激もなかったけども、誰かと一緒にいられると言うだけで僕の心は温かくなった。
「何を見てるの?」
「何を探してるの?」
「僕がいて邪魔じゃない?」
「お腹空かない?」
「そんな薄着で寒くない?」
「ねぇ、どうしてゴミ溜めの中にいるの?」
 ぽつりぽつりと質問する。
 少女はその全てを緩やかな頬の輪郭線で受け止めて、尖った顎の先で流した。
 僕もそれら質問の答えは聞かなくても分かっていたから、自分の鼻をつまんでじっと何も見えない空を見上げる。
 三日目から僕は自分の姿を省みる気配のない彼女の代わりに、人肌のお湯とタオル、シャンプー、石鹸を携えて彼女の元に訪れた。彼女が黒い筒の中、見えるはずのない星々を探している間、腐臭を放つその体を綺麗にしようと思った。僕自身の体からは、いつも洗剤の良い香りが立ち上っていて、それは家にいる時は気付かなかったのに彼女のそばにいると香水のようにきつく鼻について、どうにもいたたまれなかった。
 長い黒髪をお湯で丁寧にすすぎ、シャンプーで細かなゴミと臭いを落とす。全身もお湯で湿したタオルでゴシゴシと拭いた。薄い皮膚の下の、青白い毛細血管が透き通り、繭のように美しい手足が現れる。それでも彼女がまとう衣服はきっと脱ぎ捨てられてあればゴミ以下の何物でもないであろうと容易に想像が付くくらい、染みだらけで臭いも酷く、すり切れボロボロだ。僕はしばらく迷って、家から持ってきた自分の服を差し出した。彼女は無言で俯き、寂しそうな表情をしてそれを身につけた。
 生ゴミのどこか甘くもある饐えた臭いは、辺りにネズミすら近づけない効力があるらしい。路地裏に散らばったゴミを片づけたら、時々小動物が駆け抜けるようになった。そこでようやく僕は人心地つける気がして、筋肉痛に悲鳴を上げる体を座らせる。酷く久しぶりに良く動いたようだと思う。
 少女はじっと空を見ている。今は逆さにしたゴミ箱に腰を下ろし、ぶかぶかのジーパンに包まれた足をぶらつかせ、白いダウンジャケットを着ていた。僕たちが吐き出す息は白くたなびいて夜空へ上り闇にじわじわと溶け込んで消える。繁華街は最初は喧噪に満ちあふれているが、徐々に酩酊感を増し、不明瞭なわめき声や愚痴に取って代わり、終いには空っ風が吹きすさぶのみとなる。食べ物や消化液の複雑に折り重なる残り香が、力ない風邪と共に舞い込んで来る。時の移ろいを耳鼻と迫り来る眠気で感じ取りながら、僕は彼女の隣でじっと彼女が見ているであろう世界を想像していた。
 壁の塗装がはげたビル、蔦と言うよりは雑草のように縮れた何かが上空にかかり、地上からは頑固にこびりつくネオンの胞子、街灯、人の営みの気配。それらが夜空を汚染して、狭い狭い頭上は闇のように真っ黒ではなく、霞か靄がかかったように白けている。例え望遠鏡を持ってしても星は見えないだろう。だからきっと、彼女はこの町の汚染された夜を追いかけているのだ。


 世界が一面真っ白な夢を見た。
 夢から覚めたくないと思った。


 目を覚ますと僕は泣いていた。綺麗過ぎて、美し過ぎて、そこに僕の居場所はないんじゃないかと、悲しくなった。涙はたったの一筋、頬を伝い落ちてからからと乾いていた。
 味美味しいけども、冷え切って心に不味いご飯を胃袋に収め、僕は四度少女の元へ向かう。
 綺麗にタイル舗装されたアーケード。それはいつものように吐瀉物や、煙草のしみったれた吸い殻、居酒屋やテレクラのピンクピンクしたチラシ、引き出されて散らばったティッシュペーパーのゴミに汚されていた。
 まだまだ宵の気配を背負った人並みの中、ツカサの姿を見た気がする。背中を猫か動物のように丸め、両手をポケットに入れ、刃物のように研ぎ澄まされた目をして、同じく臨戦態勢に入った仲間を連れていた。彼らは、この繁華街の中で、綺麗なタイルなのだろうか、それとも、踏みつぶされたティッシュペーパーなのだろうか。
 僕は、しばし考えて、タイルの繋ぎ目をつま先で蹴った。
 少女は今日も飽きないようで、熱心に夜空を見上げていた。僕も持参した紅茶を水筒から注ぎ、ちびりちびりと飲みながら彼女と時を共有する。
 特別何をするでもない、毎日少しずつ削られて行くことだけが変化と言えば変化の、この時間が、僕には現実世界の小さな幸せだった。冷たい夜の空気が僕らの体温を奪っていく。硬い地面で尻が痛くなり、全身が凝り固まる。体に蓄積する小さな小さな痛みが、眠ってばかりいる僕のわずかなリアリティだ。
 絶対に空を見ることを止めない少女の姿を眺めていると、僕は知りたくなった。魔が差した、そんな気がした。そっと望遠鏡に手を伸ばす。手のひらに吸い付くさらさらとした漆黒のボディは、氷のように刺々しい。彼女の見ている先、物。両手で望遠鏡を掴むと、どくり、と心臓が脈打った。恐怖が土砂崩れのように落ちてくる。
「ちょっと見せてくれる?」
 誰にともなく断って、望遠鏡を持ち上げる。望遠鏡の下から、少女の顔が現れた。
 光をその内側に宿した義眼が、僕の瞳を射貫く。
 やわらか“そうな”頬はややはげ落ちた紅がはかれ、上唇は薄く,下唇はふるりと可憐な彼女の唇は、ほんのりと口角を上げ、まるで微笑むようで、わずかそのつぼみを開かせている。しかし、その唇の端は陶磁器のように割れ、微動だにしない。彼女は瞬きをしない。最初から理解していた。僕が路地裏で出会った少女は、人形だった。
 少女の青っぽい義眼が逸らされることなくじっと僕を見上げる。きらきらと、まるで、星を宿したかのように美しい瞳。星は望遠鏡の先にあったのでもない、汚染された夜空から届かないのでもない、ずっとここにあった。ずっと、少女の瞳の中にあった。
 星を探し続ける少女の、瞳の中に。
 胸にグラグラとわきたったのは情けなさと悔しさ。いたたまれない恥ずかしさに、僕は全身をすり潰される。
 僕は望遠鏡を地面に転がし、少女の頭部を両手で掴む。さらさらとした髪が指の間をくすぐる。親指でその可憐な耳をなぞる。少女は美しい。とても。
 義眼が何かを問うて来る。魂を持った人間の瞳よりも雄弁に僕の心へ問うて来る。
――あなたには星が見える?
 質問の圧力に耐えきれなくなって、両手に力を込めた。
 僕はそのまま両腕を頭上高くに振り上げる。
 そして、一気に。


「おい! 放せよ!」
「全員取り押さえろ! 逃がすな!」
 怒声と悲鳴が、まるで少女の断末魔のように路地裏へ飛び込んで来た。
 人がざわめきひしめき合う気配に何事かと路地裏から顔を出す。今まで見たことの無いような密度の人垣が出来上がっていた。その一角が崩れ、かっちりとした濃紺の制服を着た警官と、それと対照的なまでに派手な昇り龍が刺繍されたブルゾンを着た男が転がり出る。その男の顔に見覚えがあった。ツカサだ。
「チクショウ! 放しやがれ! イヌコロが。人間を捕まえるしかやることのねぇゲスどもが、俺に触ってんじゃねぇよ!!」
「暴行殺人未遂の現行犯で逮捕する。大人しくしろ」
 野次馬が互いに顔を見合わせて騒ぐ。
「これでこの辺りも少しは物騒じゃなくなるわぁ」
「ケッ、俺達を馬鹿にした当然の結果だよ」
 警官に押さえつけられたツカサは、頬から顎をタイルに打ち付けた。折れるように歪んだ彼の顔がこちらを向き、目線が交差した。一回通り過ぎた焦点がカチリ、と僕に合う。
「オイ、ソウ! こっち来いよ、俺らを助けろよ」
 僕は反射的に前へ駆け出し掛けたが、並み居る野次馬が一斉に僕へ向き直ったその重圧で、足を動かせなくなった。
「ソウ! 仲間だろ!? なあ、この腐った警官ども殴り殺そうぜ?」
 彼の雑言に反応して、取り押さえる力がいっそう強まったらしい、ツカサが苦しそうに顔をしかめ、うめき声を上げた。
「ソウ! ソウ!!」
 何度も何度も、名前を呼ばれる。それは僕の名前ではない。僕の友人だった少年の名前だ。そしてそれは、旧い、旧い記憶を揺さぶって起こす。
――ソウ! 助けて! ぼくを見捨てないで!
「ソウ、ソーウ!!」
 僕は、思い出した。
 思い出したら、足は勝手にツカサの元へ向かっていた。野次馬達が怪訝な顔をしつつ僕に道を譲る。ゆっくりとした足取りでツカサの横に立った。しゃがみ込んで、何を言えばいいのか言葉を探し、ぎゅっとダッフルコートの胸を握る。
「ありがとう、僕を呼んでくれて。最後に僕に頼ってくれて。僕は、ツカサが大好きだ」
「ソウ? なに気色悪いこと言って……?」
「おまわりさん」
「君、離れなさい。危ないよ。それともこいつらの仲間か?」
「そうです」
 はっきりと答えると、警官の血相が変わった。鬼のように厳しく僕を睨む。
「この人たちから、覚醒剤を貰っていました。一週間分を五万円で。お金は親のものを盗みました。これが証拠です」
 ポケットから封筒を出した。逆さにするとカプセル錠が四つ、地面に散らばる。
「ソウ、オマエ、俺達を裏切る気か!?」
「違うよ、違う。ごめんね、ツカサ」
 肺にしょっぱく生暖かい液体がとぷん、と注がれる。とぷん、とぷん。息が苦しくなった。視界がじんわりとしょっぱく歪んだ。
「おまわりさん。僕は馬鹿です。覚醒剤がどうして悪いことなのかは分かりません。だけど、悪いことなのは知っています。親からお金を盗むことが悪いことなのも知っています。だけど、だけど、どうしても、この薬を飲みたかったんです。ごめんなさい。どうか、僕を逮捕して下さい」
「君……」
 ほんの少しだが、警官の声のトーンが落ちて、目尻がゆるんだ。僕は拳を固めた両手を差し出す。カチャリ、と軽い音と共に、手錠がはめられた。
「ツカサ、僕はね、ツカサと仲間になれて嬉しかった。でもね、さっき、僕を呼んでくれたことが一番嬉しかった。ありがとう。だから、もう、仲間は止めよう」
 ツカサは額に青筋を浮かべて目を剥き出し、口を思い切り開き、地の底から怨嗟を叫ぶ。
「何言ってんだテメェ……俺達を裏切りやがって!! クズが! テメェなんざ、クズだっ、家畜以下だっ、死ね、クソゴミがっ。そこらの野良犬にでも食われちまえ!!」
 ごめんね、ごめんね。
 どうせ僕は近い未来に真っ白な夢の世界に閉じ込められ、人ではなくなるから、その前にツカサとの関係を変えたかった。自分の望む姿に変えたかった。
 僕は心の中で何度も謝る。寂しかった。僕は、ツカサという仲間を失った。自ら捨てた。
「今度は、友だちになってね」
「はあ? 何ガキみてぇに甘ったるいこと言ってんだよ。テメェなんざ顔も見たくねぇ。消えろよ」
 ツカサが僕に上体を近づける。ケッ。生暖かい唾を吐きかけられた。
 煙草とアルコールで濁った唾液が、僕の頬にべったりと張り付く。


 世界が一面真っ白な夢を見た。


 淡い薄桃色の花びらが、青空の下に舞う。
 桜並木の終着点で僕の両親が手を振っていた。
 花の切ないくらい甘い香りが辺りにふわふわと漂っている。歩くと、靴の裏を砂利がよじれるつぶつぶとした感触があり、きゅっきゅっと石が鳴った。
 日差しが制服越しにゆるゆると僕の体を温める。舞い散る花びらを目で追うと、太陽が瞳に飛び込んで、思わず眉をしかめた。
 天高く日は昇り、物々の落とす影は短い。空はどこまでも澄み切って雲ひとつなく、中天へ向かって水色から白のグラデーションを描いている。鳥がさえずりながら空を横切った。
 僕は瞼を閉じてみる。幸福感が全身を満たす。


 世界が一面真っ白な




白天星
夢を見たんだ。





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