非現実的妄想少女
 一歩先に奈落があった。
 奈落は深くて底知れず、私は淵の手前で直立していた。対岸は微かに光明を灯すのみで見えず、私は此方の岸に一人ぼっちだった。切り裂いたように鋭く開く奈落の向こうから時折、巨大な化け物のはいずり回る粘っこい音や、吐き出す吐息の、生臭くて凍えそうな擦過音が聞こえていた。


 学校の四階から三階へ向かう階段を前にして、私は立ち止まっている。
 放課後、窓の外は夕日が薄く引き伸ばされた雲と共に流れ去り、闇がほんのりと蛍光灯で色付いていた。体育会系クラブ生の、騒々しい笑い声が階下から渦を巻いて上って来る。内容は聞き取れないのに、低音が間引かれて高音独特のけたたましさが目立つ。それが、何故か寂しい。私は黒いカーディガンの袖を指を覆うように引っ張った。晩秋の頃、夜になると冷えが足元から来て、体がだるくなる。
 私は階段を前に立ち止まっている。友達を待っているわけでもなく、足が痛むのでもなく、哲学的な思考に興じているわけでもない。
 予感がするのだ。
 私はこの階段を降りられない。誰かが私を突き落とす。
 幼稚園の頃から、年に一度くらい、何の前触れもなくこの予感はやって来て、実際的な結果を私の身体にもたらし現実になる。背筋を伝い落ちる生暖かい予感から、私は逃げられない。
 幼稚園の頃から、私はずっと誰かに嫌われ疎まれ憎まれ続けている。それは、私に明確な死を予感させるほどの強さだった。
 目を閉じる。脂汗が滲むこめかみと耳を両手で挟んで覚悟を決める。私は今日、突き落とされる。
 今度こそ、死んでしまうかもしれない。


「気がついた?」
 消毒液のにおい、整理され片付けられた生活臭、弾ける花果物の香り。
 私は目を覚ます。自分がどこにいて何をしているのか、一気に理解した。いい加減、十数回めの経験ともなると場慣れしていて当たり前ということなのだろう。病院のベッドから身を起こす。カーテンでパーティションになった狭い病室の内側に、見舞いの人影があったことはなかった。私の家は、両親とも仕事に忙しい。
 寝起きのぼんやりした頭のまま、ふと右を見る。そちらから呼ばれたような、天啓に導かれるような、不思議な感じがした。
 そこで私は、信じられないものを見る。
「しっ騒がないで!」
 知らない青年がいた。口に立てた人差し指を添え、外を伺うように片目をしかめる。目ざとく、私の喉が驚きのあまり声をあげそうになるのを察知し、その手で乱暴に口をいで来た。
「あ……」
 私はさらに驚いて言葉を失う。青年の手が私をすり抜けたのだ。骨張った色白の手首が私の口から生えている。
 彼はいったん口元で笑いをせき止め、鼻からくすり、とおかしそうに微笑んだ。気持ちのいい、彼の柔和な人柄をうかがわせる笑い方だった。
「あーあ、ごめんごめん驚かせたね。はい、あんぐり口閉じて、そう、お上品にね」
 色素の薄い、羽毛のような髪をがさがさと掻いて青年、もとい幽霊は半透明の手の平をひらひらさせた。


 青年が、病室に降って湧いた。彼を幽霊だと瞬時に判断してしまったけれど、それは安直だったかもしれない。そう思って彼の体に触れようと手を伸ばしたり、半透明の写真を合成したみたいに彼の衣服に透けて見える、カーテンの意味を考えてみたりした。どこかに3Dプロジェクターやスピーカーがあるのかと探てもみたが見つからない。幽霊以外に合理的で論理的な理由は見つからなかった、と言うのもおかしな話だけど、つまり、そう納得するしかなかったのだ。
「お昼の時間ですよー」
 まだ若い看護師が配膳台を押しつつ現れる。
「カーテンは開けておいて下さいね」と愛想よく笑った顔が、私の隣を見て引き攣った。彼女にも、この幽霊が見えるらしい。
「何か不都合なことがあればすぐ言ってね」
 まる見えの不都合は取り敢えず議題に上るまで放置の方針にするのか、極力幽霊へ目線を向けないようにしている。私は定形的な返事も表情も作らず無表情と無言でそれに応えた。抗議する意味はないけれど、彼女の額に少し気後れの色が浮かぶ。
 青年は幽霊であるのを良いことに、上半身を九十度傾けダイナミックにナース服の下を覗いている。看護師は体を器用にねじって痴漢行為を阻止し、テーブルにトレーを乗せた。
「この栗原さんはね、ここで働き出してまだ半年ちょっとなんだけど、将来は看護婦長になるって張り切ってて気持ちいいんだよね。めげないし、体力あるし、明るいし、でも、よく叱られててね、しょっちゅうトイレで泣いてるよ」
 この幽霊は女子トイレにも侵入するらしい。デリカシーと良識をどこかに捨てて来たに違いない。
「これ、ここだけのトップシークレットだけど」
 人差し指を唇に当てる仕種をする。お気に入りのポーズなのか、話題のせいか、生き生きとした表情が無駄に眩しい。
「内科で去年来たばかりの鴨井さんと数ヶ月前から付き合ってて、この間夜勤の時キスしてたよ。あれは、ディープだったね」
 こののぞき見趣味の幽霊を止める奴はどこにもいないのか。飽きれつつ栗原さんを上目使いでうかがうが、彼女は平然と業務をこなしていて、聞こえている風ではない。私と目が合うと、ニコリと笑った。私は何か吐き気がして顔ごと目を逸らした。
「俺の声は聞こえないよ。俺は、半死人とか命に平生から関わっている人とか、生と死のマージナルにいる人には見えるみたいだけど、声が届いたことはないんだ」
 栗原さんが去り、開け放たれたカーテンを名残惜しい気持ちで思っていると、青年がそっと自身の秘密を告げる。さっきまでの軽薄な行為とは対照的に、柔らかいが打ち沈んだ言い方だった。低い声がしんみりと私の心に染みる。
「俺の声を聞き届けてくれたのは君が初めてだ」
 彼の声が私の吐き気を熱く掻き回して増幅させる。同時に、甘い痛みが口の奥、喉の上側を刺激して、居ても立っても居られない気分になった。照れ臭いとは、このことを言うのかもしれない。もし彼が幽霊でなければ、その顔面を引っ掻いてやるのに。
 私は両耳を塞ぎ、布団に頭まで潜り込んだ。
「無念が増えるだけじゃないの。さっさと成仏してしまえば」


 きっぱりと突っぱねたはずなのに、幽霊は性懲りもなく私の前に現れる。現れては、聞いてもない医者や看護師、隣床や隣室患者のプロフィール、聞きたくもない夜中の事情状況内情情事をつまびらかに教えてくれる。彼が無作為に話題を選び、飛び石を行くように話題を渡り歩く陰に、私と親しくなろうという下心があるのは、自意識過剰でもなんでもなく明らかだった。彼は、私の目が覚めたらそこにいて、私の目が閉じるまでそこにいた。どうやら人間に飢えているらしいのだ、今まで誰にも声を聞いてもらえなかったから。
「誰か来た?」
 雑談を途切らせて彼が問う。
 私は、彼のおしゃべりを傾聴するフリをするのにも聞き流す愛想を使うのにも飽きて、窓の外を見下ろしていた。ぽとんと落とされた質問は、耳に届いていない風を装う。
「入院して三日目だけど、誰も来ないね」
 彼の言葉に含まれた、豆粒程の感情が、私の胸を弾いた。パジャマの上から心臓を握る。
「つまんないね」
 やめて、と叫びそうになる。彼の言葉が、世界を病院の内側と外側に切り分けて、私を隔離する。私はここにひとりぼっちだ。まるで、幽霊みたいに、心はあるのに存在がない。
「あーあ」
 ため息を吐きながら、青年は私のポーズを真似て、窓枠に顎を置いた。
 半分眠たそうに落ちたまぶたが、お預けされたみたいに脱力して淋しそうに震えている。
「きみは貝みたいに口をつぐんで、何も話してくれないし」
 視界の端で彼の肩が揺れた。多分、私の頭を撫でている。誰かをここで待ち続けている、それは彼も私も同じだ。


「イジメが、あったの」
 うん、と興味心を隠せない浮足立った相槌を青年は打つ。私は眉間にしわを寄せ睨みを効かせながら、パジャマの袖を引き伸ばし、言葉を編む。
「小学校に入ってしばらくしてからのことだから、もうずいぶん前なんだけど。いじめられたのも私じゃないし、忘れて当たり前の記憶なの」
 目を閉じてみて、思い出せる記憶は少ない。А四アルバムにして数ページ、写真十枚分程にしかならないシーンの断片。その他は、色褪せて抜け落ちてしまった。
「イジメって、いじめられる側も嫌かもしれないけど、それを見させられる方も、物凄く不愉快なの」
 いじめをする子がいて、いじめられる子がいて、それを見ている私がいた。人間の関係に優劣を付けるやり口が、卑屈に痛め付けられ奪われて行く尊厳が、子ども心に気持ち悪かった。まるで、異形の子がクラスにいるみたいだった。
「なんでいじめてるの、なんでいじめられてるの、腹が立って腹が立って、しかたなかった」
 私は今まで誰にも言ったことのない事を言うために、ぎゅ、と窓枠に顎を押し付ける。
「関係ない私の身にもなってよって」
「ん?」
 幽霊が、不思議そうに高い声を出す。
「いじめられてる子をかばおうとか、いじめてる子を止めようとか、考えなかった。自分の気持ちだけ考えてた」
「ああ、そういうことか」
 納得行ったのか、何度も頷いている。得意げな笑顔さえ滲ませていて、私は彼がこの話を期待したより遥かに軽く捉えているのだと知る。深刻さを感じさせない軽薄な態度に、意地の悪い対抗意識が、むくむくと頭をもたげた。
「私たちは醜いのよ。いじめる姿も、いじめられる姿も、それを傍観していた私も、それをヘラヘラ笑って聞いてるあなたも」
 人間は、汚い。
 私は小学校一年生にしてその定理に至り着き、以来ずっとそれを身の回りに起こる事象にことごとく当て嵌めて来た。
 人間とは、自分のことだけを考えている。人間とは、自分の快楽だけを考えている。そのために何が、誰が犠牲になっているかなんて知らない。知ろうともしない。
 この世界は、全ての人間のエゴと欲望の吐き溜めだ。
 だから私は、この世界から消えてしまいたい。
「もっと色々、聞かせてよ。君の話、楽しいから」
 青年がベッドの縁を回り、隣へ我が物顔に腰を落とした。
「嫌」
「なんでもいいから、ほどこしだと思って。僕はね、外の世界には行けないんだ」
 真っ直ぐで真剣な目が願った。笑いを含まない目の色が、奈落のように真っ暗で、気付けば引きずられるように頷いていた。


 私は、自分の気持ちを吐き出す穴が欲しかったのだろうか。「王様の耳はロバの耳」と哀れな帽子屋が吐き出したように、深く誰にも届かない、底知れぬ自分だけの穴が。
 私は誰にも言えない言葉を抱えていた、青年は聞いたことのない話を聞きたがっていた。私たちの利害はあらかじめ計算されたパズルのように噛み合って、当たり前のようにその恩恵を享受したけれど、それは奇跡のような邂逅だとも理解していた。
 遠慮がちに語りはじめたはずのどろどろしたものは、芋づる式に口へ溢れ、一時私は呼吸すら出来ない程、話すことに夢中になる。どれもこれも、誰にも面と向かって放つことは許されない内容だったけど、これだけは共通していた。皆が知っていて理解していて当然の常識でありタブーであり、つまり、人間の抱える醜悪な本性だった。
 しかし、F1のタイヤよりも速く回転していたはずの私の舌は、夜が来てふけ込む頃にはタービンが崩れ、錆び付いて軋みを上げ始めた。
「あの、それから、それからね、ええと、栖原君が卒業式に出れなかった話はまだよね?」
「いじめじゃなくて家庭事情だった話なら聞いたよ」
「あ、ごめん、じゃあ、あの、ええと、ほら、あれ、あったじゃない」
「いや、僕にはわからないよ。もうないなら無理しなくて」
「あるの!」
 私はあるのあるのと言いながら、目を限界まで開いて涙を堪える。射すくまれたみたいに、青年が肩を跳ね上げた。
「悔しいっ」
 青年に拳を振り落とす。彼は幽霊のくせに体を曲げて避ける。
「もっと、もっと、どうしようもないくらいたくさんあるはずなのにっ」
 今まで、私は私の世界を封鎖していた。醜い世界に必要以上に触れないように、堅牢なシェルターを作って。世界は隅々まで醜いものだと信じていたから。
 なのに、世界の醜い部分がこんなにたやすくついえて、からっぽになってしまうなんて。一体、私は何を信じていたのだろうか。深い谷底に突き落とされたみたいに、私は体の中心がスカスカと心許ない。涙が引いて行く、からっぽの引力に耐え切れず引っ込んで行く。悔しいと言う感情も、怖いと言う感情も、憎悪も嫌悪も引っ込んで、後には虚無以外何も残らなかった。虚無は広大な更地のように荒れ果てひび割れた皮膚を晒す。
「大丈夫? 泣いてる?」
「泣いてない。大丈夫」
 青年が私の顔を覗き込んで確認して来たが、私には彼の顔がよく見えなかった。
「また、思い出した時に話をしてよ」
「うん。お休み」
 私はからっぽの体を横たえ、その上に布団をかぶせた。布団はがさがさと体の表面を滑り、どこかでつっかえて止まる。
 からっぽの体は夢を見ない。


 世界に対する悪態を熱に浮されたみたいに吐き散らし、憎悪のダストボックスをひっくり返した私が一変、真っ白な消し炭になってしまった事を心配してか、青年は私が眠りに落ちてからも側にいてくれたようだった。
「どこに行くの?」
 ベッドから立ち上がり、松葉杖と手足にカーテンやら丸イスやらを絡み付かせながら病室から出ようとした私へ、幽霊から声がかかる。振り返った私は、多分、嘘にしか見えない笑いを浮かべた。例えるなら、顔のパーツだけ笑顔に取り替えた虚空を見つめるマネキンがふさわしい。
「ついて来ないで」
「君、まさかまた」
「また? 何? ただのトイレよ」
 もう少しまともな愛想笑いを出来ないのかと自分自身に舌打ちながら、行き先を告げる。あまりついて来て欲しくはなかった。
 慎重に誰にも出くわさないよう周囲へ耳を澄ませてみれば、夜間でも覚醒を続けるヒーターや常夜灯の細かな振動音が充満していた。獣のうめき声みたいなその合間を縫い、廊下を進む。廊下の端には苔色に塗り潰された、かび臭い非常階段があった。
 階段を前に立ち止まる。松葉杖を横たえる。
 病室にいる私は、見舞いに来ない友達を待っているわけでもなく、階段から落ちた身が痛むのでもなく、哲学的な思考に興じているわけでもない。
 知っているのだ。
 私は誰からも関心を持たれない。私が、そうなるように願ったから。
 私はこの醜い世界から死んでしまいたかっただけ。
 醜い世界の理から解放されたかっただけ。
 でも、一人で汚れきった体を支えるのは辛く、寂しかった。
 だから。
 何度も何度も繰り返した。
 何度も何度も、奈落の底へ行こうと試みた。
 何度も何度も、私は私を突き落とした。
 何度も何度も、天地を逆さにし、私の体は宙を踊った。

 今。階段の底を見る。暗く閉ざしていて、何も見当たらなかった。私はこの階段を降りられない。私が私を突き落とすからだ。

 さあ、行こうか。

 私が低く囁いて、まだガーゼの取れない顎が小さくすぼむ。頷いた。

 背中に温かな手の平の気配。気配は幻。ただの願望。自分で飛び降りるのはやっぱり少し怖いから、私は私を助けてくれる誰かを想像してみるのだ。それはいつも、影のように真っ黒な姿をしていて、髪が長く、顔は見えない。そして微かに笑っている。
 行っておいで。
 行ってきます。
 短かなやり取りの後、私の体は階段の際を舐めるように飛んでいた。目を開き、口を結んで、先を見据える。頭からのダイブ。
 非常灯のぼんやりした緑でも、防火設備の滲んだ赤でもない。発光ダイオードみたいに明確で小さな白の瞬き。
 その瞬きの狭間に、ありえない人物の顔を見つけて、私の伸ばした背筋が崩れた。奥歯の間から危ないの「あ」が飛び出し、直後、私はリノリウムに頭から肩から腕やら全身を打ち付ける。だが、慣れた衝撃は来ず、あったのは妙に柔らかな感触で、痛みはほとんどなかった。起こった事に理解が及ばず、床に伸びたまま死んだふりをする。
「何がトイレ、だよ。やっぱり飛び降りてんじゃん」
「ほっといてよ、死にそこない」
「俺死んでないんですけど」
「ねえ、あんた、肉体あったの? どういうマジック?」
 頭部が青年の膝に乗せられていた。温度はない。柔らかいかと言えば肉らしい弾力はない。ゴムみたいに無機質だ。ただ、硬くはないし、平らな床に頭を置いているような頼りなさもなかった。視界に青年の股や膝が見えるし、多分、膝枕とかそういう姿勢なんだろうって推測した。そうしたら、胸が熱くなった。痛くなった。下唇を噛む。この幸せな感覚は、初めてだ。なんだ、この幸せ。なんだ、この幸せ。
「肉体ならそこらじゅうにあるよ」
 私は病院中にうじゃうじゃ漂う死霊を想像して肩を震わせた。
「キモッ」
「あ、怨念とか無念の集合体だと思ったでしょ」
「思った。違うの?」
 霊魂の塊は、舌を鳴らして指を振る。
「違う違う。俺は病院の霊だから」
「地縛霊?」
 だから病院の外の話に興味津々だったのかと腑に落としかけると、
「違う違う」
 とまた地縛霊は指を振った。
「だから病院の霊。病院そのものの霊」
「は? 病院?」
 私は試しに床を叩いてみた。ぱしんぱしん。ただの冷たい床だ。
「病院?」
 確認の意味を託して彼を見上げると、幽霊は顔中に笑顔を刻んで首を傾げた。惚れ惚れするほど優しい笑顔。私は、こんなにたおやかに笑う人を知らない。嫉妬が、私の内で渦を巻く。きっと彼が現世にいたら、誰からも愛されただろう。『汚い』という表現が嫌になるくらい似合わない人だ。私は身反りを打って、彼の膝から逃れた。なぜか、ひどく不愉快だった。
「怪我したり死にそうな人がいたら、早く元気になってって祈るのが俺のお仕事」
 光をまとった幽霊の手の平が、私のふくらはぎに触れ、肩に触れ、顎に触れる。細長い指が示すのは、厚ぼったいガーゼ。
「ここにいる人たちが早くもとの世界に戻って行けるよう助けるのが、俺の役目。二度とここには戻って来ないことを願ってる。だから、君みたいな子は困るな」
「苦しくないの? 辛くないの? もう嫌だって思わないの? あんたはひとりぼっちよ。みんなのために頑張って、その結果ひとりぼっちよ?」
「苦しくないよ。辛くないよ。嫌じゃないよ。だけど、少しつまらないかな。もっと外の世界を知りたい。健康な人の日常生活を知りたい」
「病院にいなくても、健康じゃない人だっているよ」
「そうだね。君が優しくて純潔なのと同じかな」
「は?」
 吐き捨てるように発音してみせた。幽霊は怯むことなく笑っている。
「汚いことが許せない君はとても綺麗だよ。それに、優しい。今だって僕の心配してくれたでしょ」
「くっこの病院男!」
 転がったまま全身でじだんだを踏んだ。
「耳障りの良い言葉並べてんじゃないわよ」
 汚いよ。
 私は。
 私は、あんたの中にある汚い心を見たかっただけだよ。
 心配したんじゃないよ。
 わかってるくせに。
「……もう」
 私は頬を膨らませる。降参だ。そんな風に甘やかされたら、降参するしかないじゃないか。
「成仏しちゃえとか、死にそこないとか言って、ごめん」
「よく出来ました」
 へらへら笑わないでよ。そんなに嬉しそうに笑わないでよ。
「俺の話に付き合ってくれてありがとう」
 お礼なんて言わないでよ。
 私が、何かしたみたいじゃない。
 抱き着くみたいに床へ伏せる。幽霊がその正面に回り込んで真剣な表情を作った。病院の霊だと言われても、ちゃんと血肉通った心を持つ人間にしか思えない。今頃になって、彼が綺麗な顔をしていることに気付く。少し落とされた瞼の陰を覗いていたら、私は呼吸を忘れていた。
「さっき、君と話が出来るのはなんでだろうって考えてみたんだ」
「偶然じゃないの?」
 青年はゆっくりと首を振った。
「多分ね、君が生死の境よりもこちら側にいたからだと思う。俺と君が会話出来るっていうのは、正常じゃないんだよ。不健康な状態なんだ。だからそのうち、俺の声を君は聞かなくなる」


「はい、これ、病院生活暇でしょ」
 バサバサバサ、とベッドの上に紙袋の中身を広げてみぃちゃんは言った。彼女へ送ったメールは「授業ノート持って来て><;」だったはずなのに、布団の上にあるものはファッション雑誌や漫画雑誌にしか見えない。間違ってもノートではない。こんなツルツルボソボソした紙にノートなんて、出来やしない。
「ようやく素直になったね。見舞いに来ないでいいよって言うから、うちら逆に心配したんだよ」
 みぃちゃんの隣で同じセーラー姿のチカコやさゆりんが頷く。彼女達は一様にほっとした気配を漂わせていて、どこと無く記憶よりやつれて見えた。
「ごめん」
 彼女達にどれほど心配をかけたかが痛いくらいに透けて見えて、目を合わせられない。こうやって心配なんてされたら、死ねなくなるから、私は向き合うことを避けていたのに、幽霊のせいで台なしだ。暗号化した甘えさせてってシグナルを彼女達はちゃんと受け止めてくれる。受け止められたら、世界は醜いばかりでないと認めざるを得なくなる。
 無言で両腕を広げてみた。
 みぃちゃんもばっと勇ましく両腕を広げて、がっしりと私を抱きしめてくれた。彼女に揺さ振られ、私の視界ががくがくと揺れる。
「早く元気になってね。待ってるからね!」
 彼女の言葉が私の耳を走り抜ける時、すがりつくような必死さを置き去った。
「ごめん、心配させたかも」
 自殺、とかしちゃってごめん。そんなつもりはなかったんだけど。結果的にそうなってしまった。私は、全く、何も、考えていなかったのだ。
「全くだよもー」
 泣き出した彼女のぐちゃぐちゃな顔を見ていたら、私にも移ってしまった。チカコとさよりんも加わって、抱き着き合って団子状になった私達はぎゃあぎゃあとカモの群れみたいに喚いていたけど、同じ病室のおばさんも看護師も何も言わず見守っていた。きっと、何となく知っていたんだと思う。
 彼女達の背後で幽霊が、そっと唇に人差し指を当てた。憎々しいくらいのしたり顔が可笑しくて、私は涙を流したまま笑い出す。
 幽霊の口が大きく開いて動く。
「よかったね」
 まだ、彼の声は聞こえていた。


 退院の日が来ても、私と幽霊は相変わらずくだらないおしゃべりに興じていて、私は半ば、彼の声を聞けるのが自分だけだということを忘れていた。
「もう待ち合わせの時間なんだから、早く行かないと。髪型とかいつも気にしてなかっただろ」
「今日から私は病人じゃなくなるの! ボサボサの髪でうろつけないでしょ。もー早く起こしてよ」
「声かけても全然起きなかったのそっちだろ」
「幽霊って役立たずね……」
「鏡越しにジト目するの止めてもらえる?」
「ねえ、後ろ変じゃない? 跳ねてない?」
 青年は顎に指を添え、うーん、と唸る。
「大丈夫。跳ねてない。うねってるけど」
「大丈夫じゃないじゃん」
「えええええ!? 嘘!? まだ終わんないの?」
 鏡に向き直った私の背後で、幽霊が悲鳴を上げた。台詞とは対照的に、彼の声は楽しそうだ。誰だって、子どもなら、消防士の真似や医者のごっこ遊びは楽しいもの。それと同じだろうと考えたら、口の端から空気が抜けた。ふつふつと弾けて、笑い声が病室を満たす。
「あはっ、おかしい。かわいー」
 身支度を台風のように済ませ、幽霊と一緒に駆け足でロビーへ向かう。と言っても、松葉杖をついているからそれほど速くは行けない。
 階段を降りきった直後、何かが首の後ろを撫でた。生臭い、凍えた気配が左右に抜ける。振り向きかけた私を、幽霊が「ほら」と言って止めた。
「みぃちゃん、あそこにいるよ」
「あんた便利ねー。病院中、死角なしなんでしょ」
「まあね」
 外来の患者でごった返すロビーは人の壁が厚くて向こうが見えない、というレベルですらない。ほとんど段ボールの中で鳴くヒヨコ並に人間がぎゅうぎゅうと押し寄せて息苦しいくらいだ。ここで誰かを見つけるのはちょっとした手間だ。
「あのね」
「何?」
「私、今度ここに来た時のために、いっぱい土産話ためとくね」
「何で?」
 歩きながら後ろを確かめたが、獣のような気配は、もうそこにはなかった。
「ほら、私すぐに話せることなくなっちゃったでしょ? それが、悔しくて。私、この歳まで何して生きて来たんだろうって。もっと色んなこと見て聞いて、経験して、外の世界のこと教えてあげる」
 腕を背中で組んで聞いていた幽霊は、そうだね、と柔らかく笑った。
「でも、ここに来ないことが一番だよ」
 近くのベンチで赤ん坊がけたたましく泣き始めて、私は彼の言葉を聞き逃した。
「え、何?」
「退院おめでとう」
 頭を撫でる仕種をされる。全身がくすぐったくなって鳥肌が立ったが、彼には絶対内緒だ。
「ありがとう」
「おっそーい!」
 みぃちゃんが横から抱き着いて来て、私の意識は完全に幽霊から外れる。
「ごめん、髪の毛が言うこと聞かなくて」
「あ、ほんとだ、跳ねてるね。じゃ美容院行っちゃお。退院祝いに」
「それいいねぇ」
 みぃちゃんに荷物を預け、松葉杖をぽくぽく繰り出して進む。退院した後の予定を考えるなんて、初めてのことかもしれないと思う。
「タクシー待ってもらってるよ」
 病院前に停まっているタクシーに乗り込む寸前、救急車が到着し、中の怪我人を敏速な動きで病院へ運び込み始めた。私はその姿を目で追いかける。みぃちゃんも、何してるの、と言いつつ隣で乗らずに待ってくれる。
 病院の入り口で、怪我人を乗せた担架が、ポールを回るみたいに大きく迂回した。まるで、そこに人がいるかのような動作だ。
 そこに、彼がいる。
 見えないが、きっといる。
 けども、私の声は音にならず、喉を締め付けただけだった。
 怪我人が運ばれて行く病院が、とても遠くに感じられて目頭が熱くなる。
「みぃちゃん」
 自分でも驚くくらい優しい声が出た。まるで、彼みたいな声音。彼女の暖かい手を握り、私は涙の気配を払い飛ばして笑顔を咲かす。
「帰ろっか」


 以来、私は私を助けてくれる誰かを想像してみるのだ。それはいつも、消毒液臭い青年の姿をしていて、唇に人差し指を当て、楽しい話をねだる。そして微かに笑っている。



非現実的妄想少女
さよなら、は、あっけなく





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