ダイブ!
 今日も、どこかで誰かが溺れて死んだらしい。


「××県××市の××川上流で、女子大学生が流され、行方不明になっていましたが、本日未明頃下流の〇〇市にて遺体で発見されました。彼女は一昨日、台風九号の到来により増水した川に流され、」
 馬鹿な奴もいるものだなあ、と僕はぼんやりテレビの画面を見ていた。
 テレビの画面は川を映しているからか、部屋の隅に浮かんだ青白い窓に見える。
 壁だけじゃなくて、ダークブラウンのフローリングにもいくつか窓が開いている。太陽光によって白く切り取られ、薄暗いリビングに、いくつも窓が浮かぶ。
 扇風機の掻き回すぬるい風が、僕のふくらはぎをくすぐる。
 黒いアイスコーヒーを、ガラスのコップに注ぐ。

 川や海で溺れて死ぬなんて、毎年夏になるとどこかで誰かがやらかしてしまうけど、誰もそのことを反省しないし学習しない。去年も今年も来年も、一定数の人間が、水に飲まれて命を落とす。
 僕はそういう人たちのことが理解出来ない
 なぜなら、僕はインドア派で、太陽で焼肉が出来そうな真夏日に外へ出たりしない。自然、水辺にも近寄らない。溺れ死ねるほど、水遊びに熱中出来る感覚も持ち合わせていない。

「死亡した田辺早紀さんは、学校の活動で生態系の調査に来ていたそうですが、水質調査の際、川が一部分だけ深くなっていることに気付かず、」
 僕の持つコップから、コーヒーが溢れ、素足の上に落下した。茶色い水滴が、僕の白いシャツとジーンズに散って染みを作る。
 田辺早紀。
 聞き間違いかと思ったけど、テレビ画面に浮かんだ文字は、確かに田辺早紀(20)と毒々しい迫力で伝えていた。
 僕は瞬きを忘れて凝視する。
 何故だよ。
 信じられなかった。
 画面はすぐに切り替わって、政治家が日本の未来について語り始めた。だけど、僕には日本の未来なんてどうでもよかった。閉ざされてしまったある女の子の未来の方が、何十倍も、何百倍も大事だった。
 僕は問い掛ける。
 何故、君みたいな人が川に溺れるなんて幼稚な理由で、僕の前からいなくなってしまうんだよ。


 田辺早紀は、僕のクラスメイトだった。高校一年生と、三年生の時の話だ。
 彼女は明るくて美人で、非常に人目を引き付けた。一年生の時、彼女は僕にとって憧れの人だった。高嶺の花、という表現では語弊がある。言うなれば、目指すべき人生の目標、人生の師匠だった。
 生半可な芸能人や政治家や、雑誌のアイドル、そんなものは常にスクリーン越しにあって近いようで遠く、誰からもちやほやされるわけもなく時にけなされて、日々消費される慰みもののようで、その株価は僕の前でとても薄っぺらいものに感じられた。
 それに比して彼女は、空気だけを介して会話する事が出来たし、僕か彼女が望めば容易に触れる事が出来たし、同じ学校の同じ学年の同じクラスで毎日を共有出来た。彼女が持つリアリティは、計上出来ない程の価値を持って、当たり前みたいにそこにあった。
 僕が彼女を崇めたのは、誰彼かまわない優しさや外見だけではない。むしろ、彼女が生まれ備えた学力や身体能力、何より何にでも積極的に取り組むその姿だったと思う。否定的な事よりも肯定的な事をかき集め、世界を愛し尽くしていた彼女は、さながら地球を慈しむ太陽のごとき明るさを振り撒いていて、眩しかった。
 つまり、彼女の死は、太陽の消滅にも等しい大惨事だったのだ。


 田辺早紀の訃報が、僕の部屋からなけなしの生気を一気に吸い取ってしまったようだった。
 腹を叩いても耳を澄ましても、僕の内側からは何のやる気も湧き上がって来なかった。
 白紙のレポート、もとい白紙のワード画面を前に僕は脱力する。
 ネタがない。フィールドワークをしてデータを集めることが前提の地球惑星科学科に在籍しているにも関わらず、僕はこの夏一度も家から出ていなかった。僕がこの学科に不本意を抱いているのも原因ではあったが、台風の過ぎ去った後はなお一層心身を重たく煩わしく感じたのも、それはまたそれで、事実だ。
 ため息を垂れ流し寝返りを打つ。散髪すら怠った髪が視界を塞いで、何も見えなくなる。冷えたフローリングに頬を押し付け、拳を力無く添え当てた。
 こんな穴蔵のような世界の片隅でくすぶっている僕を、彼女は何と思うだろうか。思い出してくれた時はあっただろうか。
 僕は、この所とりつかれたみたいに、ずっと田辺早紀を思い出し続けている。
 彼女の笑った顔、真面目な横顔、怒りに溢れた背中、楽しそうな声、感動に取り乱した姿。
 そして、僕が流させてしまった、涙。


 男が女に純粋な憧れを抱くなんておかしいと疑問をこぼす人もいるかもしれない。事実、廃棄物がごとく床に転がる僕だって、彼女に対してただただ憧れ、敗北を記すに甘んじるばかりではなかった。
 高校三年生になり、受験を控え成績を意識する思潮が高まるにつれ、どうしても追い越せない田辺早紀と言う名前を疎ましく感じるようになった。
 覚える単語の数を倍にしても、こなす演習の数を倍にしても追い付けない。寝る間も惜しんで勉強するから、体育の時間は何度も貧血で倒れた。その時間、保健室を使う学生は僕だけだった。ベッドの中で押さえ付けたものは、情けない、とか、悔しいとか、惨め、とか、そういう端正な言葉では表せない。もっともっと複雑怪奇でどろどろと醜い。僕には目指したい場所があった。そこは、推薦でしか望みの得られない場所だったから、学校を休むどころか授業を倒れてサボることすらしたくなかった。
 多分僕は、上手く手足を動かせない虫みたいな気分で、自分自身に苛立っていた。
 だから僕は、彼女を傷つけた。軽々と空を飛ぶ、その翼がうらやましくて。


――同じ推薦を狙ってたのは知ってたよ。
――僕の行く道を奪ったようなものだよな。
――そうは思わないけど。
――言ってたじゃないか、志望校はA判定出たって!
――そうね。


 晩秋の地を這う冷えた秋風に髪をもてあそばれながら、彼女はどこか遠くを見つめ、俯き加減に考え込む。ややあって僕に向き直った彼女の目付きは硬く鋭くなっていた。後ずさる僕を止めたのは、目尻をぼかすように滲む涙。


――いいよ。辞退する。


 推薦は僕には回って来なかった。他所のクラスの誰かが貰った。僕はただ八つ当たりしただけ。一方で彼女は血みどろの戦場へ飛び込んだ。その戦場が、彼女にとっても容易ならざる世界であることを、彼女の友人による「志望校ランク上げたんだ」という言葉から知った。二ヶ月後田辺早紀は見事当初の目的地に収まり、今僕は二つも三つもランクを下げた志望しない大学の志望しない学部の志望しない学科で志望しない三年めを迎えている。
 八つ当たりして、幻滅させて、優しさに甘えて、荊道を歩かせて、なのに何の結果も出せなくて、僕はどうしようもない屑野郎だなと知った。自分、というものをどれだけ高く見積もっていたのだろうと、理想と現実の落差を考えれば恐ろしくて、前を向いて歩く気概を失った。
 言うなれば、あの時、僕は挫折したのだ。

 彼女は生き物が好きだった。よくある女子のポーズでないことは、同じ生き物好きとして、静謐な水面を覗くように透けて見えた。彼女が生き物に注ぐ愛は、犬猫であろうと、カエルであろうと、ハイエナであろうと等しく温かく、ともすればゴキブリすら愛しているのかもしれないと思わせた。
 今、僕は生き物がそれほど好きではない。触りたいとすら思えない。呼ばれなかった世界に対する酸っぱい葡萄的な怨恨だろう。好きの反動であるだけに、嫌いも深く強固で解けない。
 灰になった体で、彼女はもう生き物とは触れ合えないのだろうなと考える。彼女が途上にした課題や研究のことを思う。田辺早紀のことを考えると、彼女の思念が滝壺を目指す勢いで僕に流れ込んで来て、頭が破裂しそうになる。
 誰か、女性の手の平が、僕の背中を押した。
 ディスプレイに目を遣れば、スクリーンセーバーすら落ちて真っ暗だった。適当なキーを叩く。
 ぱっと目の前が白くなり、眩しさに上下の瞼が反射的に接着して、僕は窓に雨戸を下ろしたままだと気付いた。もう昼前なのに、部屋の中は闇に支配されている。
 無念だろうな、と彼女の心情を慮った。これからようやく、思う存分したいことに手を出せる、そう胸を踊らせた矢先の死。努力して正面から勝ち取った権利を失って、まだ諦め切れず地縛霊になっていたとしても不思議ではない。
 僕はふらふらと立ち上がり、洗面台に立ってシェービングジェルを顔に塗りたくる。
 彼女の家に行こう。
 唐突な閃きに突き動かされる感覚は、あたかも田辺早紀が僕の体にダイブして来たみたいだった。





 田辺家で、田辺早紀の笑顔で溢れる位牌に、手を合わせる。鼻の奥を刺激する焼香の存在が、僕を身の置き場のない気持ちにさせる。なぜだろう。抹香は心身の穢れを取り除くものだからかもしれない、と、よく拭かれた畳の上で整えた足に掛ける体重をずらした。多分、僕はこの空間において異物なのだ。
「暑い中来て頂いて、早紀も喜んでいるでしょうねぇ」
 斜め後ろで控えていた田辺早紀の母親が湿り気の多い呻きを漏らし、僕は黙祷を終了する。母親はハンカチを鼻に当て、こちらが恐縮する程感謝に満ちた目を涙に潤ませていた。
「いえ、そんな、僕は」
 意味をなさない言葉をもごもごと口の中で転がし、膝頭を見たまま首を振る。連絡も貰ったのに、通夜にも葬式にも顔を出さなかったのだ。むしろ責められるべきだ。が、罪悪感から漏れた声は、蝉のジャワジャワという生存本能に負けた。

「忘れ物ですよ、日傘」
 彼女の家を発つ時に、母親から藍色の日傘を渡される。
 僕は不意を突かれ戸惑いつつも、ボタンを押して日傘を開く。張られた布は空気を小気味よく弾いた。
 柄を不器用に回しながら、僕は彼女が流されたという川に沿って上る。ささやくような水のにおいに、微生物の生臭ささが混じって踊っている。
 一時間以上犬のように舌を垂らしながら坂道をはいずった。茹だるような耳を冷ましてくれたのは、子どもたちの嬌声だった。生き物の中で唯一、今も昔も変わらず嫌いなものがあるのかときかれれば、僕は迷わずこう言える。
『ガキなんか暑苦しいだけで不快』
 けれども。
 田辺早紀なら、彼女なら、どうだろう。
 肩の後ろに向けて問う。彼女がそこにいるような気が、ずっとしていた。
 川へ架かけられた短い橋の中央に立ち、木製の欄干へ寄り掛かる。
 三、四メートル下を行くせせらぎに首まで身を沈めて、子どもたちは思い思いの遊びに興じていた。
 川面は太陽光を細切れにしてばらまく。瞳孔で光量を調節出来ず、手の平で傘をこさえて彼らを数える。
 一、二、三、四、五……。
 泳いでいる男の子が二人、木箱を持って魚取りに熱中する男の子が二人、それから女の子がひとり延々と潜っては浮かんでを繰り返している。
「何してんだよ、男のくせに日傘さしてダッサー」
 背中を蹴られ、欄干で腹部を殴打し、のろくさと振り返ると、勇ましい顔に脂肪の乗った体つきをした男の子が僕を笑っていた。
「そこどけよ」
 横へ数歩ずれる。
「兄ちゃん」
 欄干の上に、両足で立ち上がり、高い位置から僕を見下ろして悪戯っぽく口を歪める。腕を組んで、ぐっと上半身を反らす。
「見てろ、肝冷やすなよ」
 そこどけお前ら!
 彼が出し抜けに橋下へ、腹の底から怒鳴り付けた。僕はたまげて後ずさり、尻餅を付く。僕が倒れる間隙に、男の子は欄干からジャンプする。着水の音が誇らしげに届いた。
 瞬きをして、誰もいない欄干を見つめる僕の瞳に、田辺早紀の姿が現れた。明るく染めた肩までの髪をゆるりと回転させ、楽しそうに笑う。僕を手招きする彼女は、嬉しくてたまらないのか、何が愉快なのか、頬をぴくぴくと痙攣させていた。僕が反射的に首を振ると、肩をすくめる。そのまま背を向け、欄干に膝を乗せてよじ登り、間髪置かず飛び降りた。さっきよりも派手な水音が軽快に響く。
 僕は慌てて跳ね起き川を覗き込む。川の中央、胸まで水に浸かって、満面の笑顔をした彼女が、僕に両手を振っていた。未練も不安も何もない笑顔は、今を目一杯生きるエネルギーに溢れていて苦しい。
 僕は、自分の胸をシャツの上から握る。そうしないと心臓が体からこぼれ出てしまいそうだった。
 そうか。僕は至り着く。田辺早紀は、子どもが好きだ。彼らと一緒になってはしゃぐのだ。
 ああ、ほら。
 シャツをねじるみたいに握って堪える。
 彼女の心が、気分が、僕の中に流れ込んで来る。死した人魂が僕にダイブして、僕をわくわくさせる。なぜ、彼女は死んでもなお、僕に付きまとうのだろう。放っておいて欲しいのに。暗い穴蔵みたいな場所で負け犬をまっとうしていたいのに。
「おい!」
 下方へ、田辺早紀に向けて、僕は怒鳴った。
 途端、彼女の姿は霧散し、子どもたちが不思議そうに僕を見上げる。その真っすぐな瞳にたじろいで僕はうかつなことを口走った。
「アイスクリーム、食べないか?」


 六人の子どもはソーダのアイスキャンディーを箱から奪うように取り去る。彼らのがやがやと騒々しく甲高い話し声や嬌声は、脳みその奥、頭蓋に突き刺さって少し目眩を呼んだ。
「にーちゃん」
 さっきの男の子が僕のすねを蹴る。
「なんだよ」
 自分用の、バニラアイスの包みを開けつつ振り向いた瞬間、バニラアイスとアイスキャンディーが入れ代わった。
「オレこっち食いたい」
「はあ? ガキはソーダ味だろ」
「おいおい、そーぞーでものを決めるのはよくないぜ?」
 いたずらっぽく歯を剥き出したその顔に見覚えがある気がして、僕は瞬きをしてぼやく。
「どういう意味だよ」
 早々にアイスを胃袋に納め、次々に飛び込んで行く彼らの後ろ姿を数えながら、僕は冷たいだけのアイスキャンディーをかじる。
「おい、てめーら、にーちゃんに礼を言えよ」
 バニラの男の子が号令すると、「ありがとう!」の声が弾丸みたいに胸を撃ち抜いて、僕は目眩にたたらさえ踏んだ。
 炎天下にさらされつつ食すアイスキャンディーは、甘ったるい粘つきがあるものの、冷たく喉を潤して消える。黙々とミントブルーの塊をかじる。冷えた前歯が痛い。
 僕は、自分が日傘を手放していることに気付いていなかった。
 アイスクリームを食べないかと提案してしまったのは、偏に彼女のせいだった。彼女が僕の頭の中で、「一緒に遊ぼう」などと言うから、反発しただけだった。

 そーぞーでものを決めるのは――。

 ふ、と、僕は怖くなった。
 さっきまで僕の中にいたはずの田辺早紀の気配が、アイスみたいに溶けてしまって跡形もない。
 目眩も緩やかにひいて行く。

 田辺早紀を、かわいそうだと思ったのだ。
 あんなに一心不乱に前へ進んでいたのに、たやすく前途を失って。
 もう、何も出来ない、叶えられない、その運命が。
 悔しいだろうと、未練だろうと、まだまだ生きて、やり残したことをやりたいに違いない、彼女ならそう思うはずだから。
 あまりにも死んだことを受け入れられなくて、まだ、この世を漂っているんじゃないかって。
 歯ぎしりしてじだんだ踏んで生きてる奴らを羨ましがってるんじゃないかって。

 水面鏡に映った彼女の姿がゆらぎ、次第に驚愕した僕の顔になる。僕は、微かに唇の両端を持ち上げ笑っている。笑みの意味は、ようやく訪れた解放と快方への喜び。彼は、生きたいと切望していた。

 わかってしまった。
 僕がここまで来た理由も、ここでしていることの理由も。
 ぜんぶ、全部、彼女ならしただろうと想像したことだった。

 想像は所詮、想像でしかなくて。
 事実とは程遠くて。

 彼女が抱いたかもしれないと想像した悔しさも未練も、本当は、全部、僕が持っていた悔しさや未練で。
 挫折したあの日、丁寧に包んで捨てたはずだったのに、いつの間にかそれは戻って来てしまった。
 いや、最初から、ずっとそのままの姿で僕の隣にあったのだろう。僕が顔を逸らして見ないふりして来ただけだ。

 それが、僕の本当の気持ち。


「お前ら、そこどけ!」
 バニラの男の子が慌てたように、背後から怒鳴った。
 僕は足元を見下ろす。こちらを見上げ、子どもたちがぱっと顔をきらめかせた。
 僕は欄干の上に立って深呼吸する。

 足の裏で蹴る。

 風が全身を切り抜け、重力が僕の気持ちをわしづかみ、空も川面もなにもかもが明るく眩しく、世界は真っ白。


 僕は、君の世界に、ダイブする。



ダイブ!
君と僕のボーダーライン





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