ナグルブレイク
 夜の公園で、稲塚優太の握りこぶしは真っ赤だった。
 さらさらとした血液が彼の手の甲を覆っている。血飛沫は点々と、彼の細く短い腕を肩口の辺りまではいずっていた。彼の瞳では怒りと恐怖がごたまぜになって渦を巻く。白目は奇妙に乾いて震え、薄い唇も閉じられずわなないている。

 終電かもしれない。
 公園へかぶさるように走る電車の硬く無機質な音が高架下を蹂躙して駆け抜ける。
 古びたコンクリートの屑が振動に剥がれ俺達の間を舞い、車窓からの光に影を作った。

 優太の足元には小さな犬が四肢を投げ出して横たわっており、その呼吸は遅く途切れ途切れになっていた。薄茶だったのだろうふくよかな毛皮は、自身から溢れ出した血液によりべったりと体に張り付き、そのやわらかさを失っている。
「ねぇ、こいつ、ぼくの言うこと聞かないんだ」
 仰天して彼から目を逸らせずにいた俺に、優太は弁解する。
「ついて来るなって言ってもついて来るんだ。仕方ないから、こうして叱ってるんだよ」
 優太の額や色褪せた衣服から覗く手足にはアルコール臭い布がいくつも張り付いている。
 瞬時に虐待、という二文字が俺の頭に浮かんだ。
「違うんだよ!」
 俺の腕に正面から優太は縋り付く。
 彼は小学五年生と言うことだったが、それにしても小柄で吹き飛びそうな程痩せていた。
「これは教育の一貫で、悪いのはチビなんだ」
 俺は優太の表情が、必死な声に反比例するように、冷え切った無表情であるのを見て、鳥肌が立った。まるで、録音した台詞を流すテープレコーダーのように、彼の口調と表情は足踏みを乱す。
 彼の手についた血がぬめって俺の腕に伸びる。
「チビは悪くないだろ……」
 どう答えれば正解かわからなかった。
 彼の言葉に合わせればいいのか。
 甘い言葉を吐けばいいのか。
 それともきつく叱ればいいのか。
 迷い迷った末頭は真っ白になる。
 何か言わなければ彼がこうやって釈明することすら止めてしまう気がして、ともかく口を動かした。
 結果俺の舌が紡いだのは、俺の純粋な気持ちだったのだ。



 稲塚優太との付き合いは、住宅街の中にある、小さな公園から始まった。



 優太にさんざん殴られ蹴られたチビという子犬は、覇気をもがれ恐怖政治の檻に収まる道へ甘んじることに決めたらしく、キャンキャンと鳴くことも、空腹になって時間外に食事することも、ふらふらと辺りを散歩することもなかった。公園の隅の段ボールの上でいつもまどろんでいた。
 優太は自分が世話しているんだと言っていた癖に、食事を持って来ることをしばしば忘れ、また時として配給に失敗してしまうらしかった。
 あの日以来、中学校の行帰り、俺はチビの様子を確かめる日課が出来てしまったが、日々子犬の体は小さくやせ細って行く。
 とある雨の日、寒気に震えるその姿を見るに耐え兼ねて、菓子パンを差し出してみた。チビは鼻を微かにうごめかした以外、何の反応も見せない。

「チビは賢いから、ぼくのあげた物以外食べないよ」
 優太が背後から足音を忍ばせて現れ、俺の隣に屈む。
 俺は頭から雨をかぶる彼へビニール傘を差し掛けた。
 優太はパンの耳をチビの前で上下させる。
 喉を低く鳴らし、チビは飛び上がってパンの耳をくわえた。乾いた音の鳴る袋から次の耳を出し、優太自身もそれを食べ始める。
 彼の手足には相変わらず絆創膏やらガーゼやらでは覆いきれない痣や傷痕があった。
 俺はそれから目を逸らす。踏み込んでしまうことを恐れていた。
 彼の持つものを一緒に背負い込まねばならないことをどこかで億劫に感じていた。世界は善人ばかりではないし、もちろん俺も善人ではない。向こう見ずになるには少し、物事を知り過ぎていた。
「お前さ、けっこうエサやりそびれるだろ。あ、責めてるわけじゃないんだけどさ」
 チビを膝に抱き上げると、見た目より遥かに軽くて、羽毛でも摘んだ気分になる。
 毛皮で膨らんでいるが、実際はもっと、手に負えないくらい、骨と皮ばかりのガイコツだった。
「俺にもエサあげること許してくれないかな」
 優太は背中を一度痙攣させ俺を見たが、すぐに目を逸らし、チビを撫でる俺の手を見つめる。
 小さな額、日焼けした頬、唇は不満を宿すように尖っている。まばらだが長いまつげが上下する。
 彼の手がチビの顎をかき、俺の手に触れ、その熱さに俺は気まずくなる。
「いいよ」
 答えて優太は俺の目を覗き込んだ。見透かすような、何かを乞うような目で、俺を見上げて来る。
 真摯な瞳に耐え切れず、俺は気恥ずかしさに顔を逸らした。



 俺が餌を与えるようになって、チビの体調はすこぶる良くなった。具体的にどうかと言えば目やにの浮いていた目がすっきりと調い、俺の気配を察知すると段ボールの上で起き上がり、優太に殴られて以降びっこを引いていた右後ろ足の動きが軽快になり、塞がらず倦んでいた傷口が少しずつ治まってかさぶたと一緒に大量の毛が抜けたりした。
 チビから血と泥で凝り固まった毛の塊が剥がれ落ちた時は肝を冷やしたが、日増しに子犬らしい奔放さを取り戻すチビを見ていると楽しくて嬉しかった。
 優太も毎日は難しいようだったが、俺の下校時刻に合わせるように公園に現れ、俺たちはよく三人で遊んだ。傷がほとんど良くなると、本来のやんちゃを取り戻したみたいにチビは尻尾を振ってはしゃぎ出し、フリスビーや鬼ごっこをしてみる機会もあったりした。
 チビが元気よく公園を走り回り、葉っぱやゴミを毛皮に付けて戻って来る姿を見ていると、俺は光のような、体温よりも少し温かい感情に、胸を満たされる。今この瞬間、ノラで庇護する親を持たないチビは幸せに生きているし、優太も羽を伸ばしてチビとはしゃいでいる。
 俺は、俺たちは上手くやっていると思っていた。
 いい関係を築き上げたと、無邪気にも慢心して信じ込み、疑わなかった。



 赤く焼ける公園で、稲塚優太の握りこぶしは真っ赤だった。
 さらさらとした血液が彼の手の甲を覆っている。血飛沫は細かい網となり、彼の細く短い腕を肩を越えて首の辺りまではいずっていた。彼の瞳では悲しみと愛情がないまぜになって渦を巻く。白目は儚いくらい透き通って震え、対して薄い唇はきっちりと閉じて笑みを結んでいる。

「お兄ちゃん」

 俺は呼びかける優太の、温度がない声を鼓膜の奥に落とした。心臓がタービンのように喚いていて、俺の思考回路では混乱と困惑と悲しみと拒絶と怒りが、何で? の二文字に集約されて暴れかえっている。
 何で? ときくまでもなく明らかなことは、今は夕暮れで、優太は出会いより血まみれで、チビは息絶えているということだった。
 チビの口からはだらし無く舌がまろび出て、こちらを見る二つの目からは赤い涙が流れていて、俺が近寄っても小さな体からは反応がこぼれない。そっと手の平でその背中を覆うと、背骨が砕けて目茶苦茶になっているのがわかった。
 俺の知る柔らかく繊細な触り心地とは真反対の、刺々しく杜撰な触り心地だった。
 優太と俺とチビはあんなに仲良くやっていたのに、突然その中の一匹が命を奪われなくてはならない理由がわからない。優太はチビを好いていたのではなかったか。パンの耳を運んで来てはチビを生かそうとしていたのではなかったか。
 あまりな晴天の霹靂に、俺はチビを抱いて優太を突き飛ばすことしか出来なかった。
 軽っぽい優太の体が後方に飛んで、彼は尻餅を着く。砂埃が舞い上がって優太の喉を刺激し、彼は激しくむせこんだ。
「バカ! バカ野郎! 何でこんなことすんだよ!」
 怒鳴り付けたのに、優太は赤く腫れた目を俺に向けるだけで無言を保つ。それからおもむろに俺の足にしがみついた。細い骨のような腕が俺に絡まり、その指先に灯った力が俺に突き刺さる。
「チビがずるいんだ。チビだけお兄ちゃんにかまってもらってずるい。チビがいなくなれば、お兄ちゃんはぼくに優しくしてくれるだろ。そうだろ」
 優太は俺の太ももに顔を擦り付け、逃がすまいと腕の力を強める。
 俺は、自分の背中から血の気が引いて行く感触を初めて味わった。
 つまり、優太は、チビを殺せば俺の気持ちや時間に余裕が出来て自分もかまってもらえると思ったのだ。
 チビが殺された本当の理由は俺にあって、もし俺がチビに会いに来なければ、もし俺がチビにエサをやらなければ、もしかしたらチビはこんな目に遭わかったんじゃないだろうかと思うと、足から力が抜けた。
 ふらふらと後ずさりながら、優太の頭を押して引きはがそうとする。優太の首に包帯が巻かれていることにようやく気付き、目を懲らしてみると、倦みや血液でがちがちに固まっているのがわかった。触ってみると、頼りなく優太の首に沈む。
「優太、これどうしたんだ……?」
 俺は罪の意識からか、初めて彼に傷のことを問うた。問えば関わらずにはいられず、また関わることから逃げることも人として許されないだろうから、ずるずるとその手前で逃げ回っていたのに、俺はこの時チビの死というショッキングな現実に雰囲気と理性を取られて、安易に優太の背景へ足を踏み入れてしまった。
「お母さんがフライパンを押し付けたんだ」
 ああ駄目だ。
 俺は奥歯を噛み締めて、堪える。想像とも妄想ともつかない映像の群が襲い掛かって来て、目を開けていることすら出来ない。
 優太の母親が優太を殴る。
 あつく熱されたフライパンで、フライパンから調理中の鶏肉とかピーマンとか玉ねぎとかを辺りに撒き散らしながら、優太を何度も何度もたたき付ける。硬い金属製のフライパンは油のにおいと音を爆ぜさせ、次第に形を歪めて行く。
 優太は泣き叫ぶのだろうか、チビのように泣かずに堪え続けているのだろうか。
 母親が意地悪く、もっと優太を痛めつけてやろうと、フライパンを彼の首に押し付ける。
 肉の焼ける香ばしいにおい、絶叫する優太、ただれた皮膚の破れ目からほとばしる血液が床に散らばる。
 どんなに痛いのだろう。
 どんなに苦しいのだろう。
 どんなに辛いのだろう。
 俺にはわからない。
 本来あった皮膚の色がわからなくなるほど日常的に暴力を受けることも、痣だらけ、傷だらけになるほどの痛みの深度も頻度も、安穏と恵まれて幸せな家庭で育った俺には経験がないから、想像することは出来ても感じることは出来ないし、理解するためでも絶対そんな目には遭いたくはない。
 この考えはドキュメンタリーの一部みたいに、優太を可哀相な子ども扱いしている。俺はそれを思って優太を突き放すことが出来なくなる。
 出口のない暴力と教育の檻。
 まどろむようにしか生きられなかったチビの姿。
 チビを檻から解放したのに、優太だけをあえて檻に残した俺。
 背負いたくはなかった。
 怖かった。
 目を閉ざした。
 だって、俺みたいな人間が何を背負えると言うのだろう。
 俺はまだ中学一年生で、優太のために大人と戦う知恵も力も財力も覚悟も何も持たない無能な子どもだ。
 もし、優太を救おうとして救えず逆に悪化させでもしたら、自分に被害が及ぶことを疎んで逃げ出したりでもしたら、俺は俺の心が許せなくなるから、だから、知らないふりを選んだ。
「優太、お兄ちゃんじゃこうして公園で遊んでやるのが精一杯だ」
 優太の頭を軽く撫でる。彼の頭は丸くなくてぼこぼこと波打っている。たんこぶやかさぶたが手の平に触れる。
「嫌だ! ぼくも、チビみたいにしてよ! ずるいよ、ずるいよ、チビばっかりずるいよ」
 優太はチビの死を悲しまず、俺に見離されることを感づいて涙声になった。
 彼の掠れて悲痛な訴えが、俺の心臓を引っ掻いて苦しくさせる。
「優太、お前……」
 優太の心のどこかが壊死してしまっている。
 俺だって、人のことを言えるように高尚な心を持っているわけではないけども、あんまりだと思った。
 神さま、優太の心を殺さないでくれよ、優太はまだ小学生なんだよ、生きてるんだよ、おかしいだろ、大切な奴が死んだら悲しいんだよ、寂しいんだよ、もう取り戻せない思い出に縋り付く他ないんだよ、何かを感じるはずなんだよ。
 俺は砂地に膝をついてチビを寝かせる。優太の頭を撫で、耳を撫で、頬を撫で、首を撫で、肩を撫で、彼の背中に腕を回して撫でた。燃えているみたいに熱くて、傷だらけの皮膚。
 耳の近くに口を置いて聞かせる。
「わかった。お兄ちゃんがなんとかしてやる」
「本当?」
「本当だ」
 優太だって暴力のあげく死んでしまうかもしれない。俺は、自分がその可能性を置いて逃走しようとしていたことに気付いた。気付いてしまった。
 気付いてしまったら、もう、逃げられない。
 覚悟を決めて立ち向かうしかない。

 優太は、チビの痛みを解せず自分の事を最優先したから、チビを殺してしまった。
 俺だって同じだ、見せかけの優しさを持ち合わせても、本当の優しさを持たないから、優太にチビを殺させチビを失ってしまった。
 なら、すべきことは、自分の気持ちの優先ではないのだ。
 同じ間違いを俺は犯してはいけない。
 見捨てたものを、今度こそ見離さないように、しっかりと見つめるんだ。
 優太の幸せを一番に考える。
 そうすれば、絶対に優太を閉じ込める檻を壊せる。彼を解放出来る。
 俺はそう自身に念じ聞かせながら辺りを見回し、優太の手を引いて歩いた。
 夕日の届かない高架下に、ひっそりとコンクリート片が転がっていた。その中のひとつを選んで拾う。両端の尖った八面体は、やすやすと人肉を貫きそうだった。指先で砂を払う。
 きっと、優太の母親や父親に対抗する、最強の武器になる。
 右手の平と指を回りこませて握ると、硬質な重みと冷たさが、生き物みたいに微かな湿り気と共に伝わって、手の平になじんだ。

 俺は目を閉じる。
 高架の向こうから緩い風が向かって来て、シャツの裾をもてあそぶ。
 優太の手を探り、しっかりと互いの手を絡める。
 大丈夫だ、俺には、出来る。
 深く明日の気配を肺に吸い込んで、想像した。

 俺は、この手で檻を、打ち砕く。



ナグルブレイク
愚か者に幸あれ





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