憧れだけで止まれたら、どんなによかっただろう。


 初めてここに来たときは何もかもが違う世界で、ほんとうの意味で右も左も分からなかった。入社したとき同期はわたしを含めて5人いたけれど、わたしとは比べものにならないくらいの経歴を持っていて。名の知れた大学の卒業者ばかりの同期に、スタート時点から引け目を感じてやまなかった記憶がある。

 学生時代から要領の悪かったわたしは、そんなエリートな同期たちを常に追いかける立場だった。1度では仕事を覚えきれず、同んなじことを何度も何度も上司に聞いたこともある。そのときは怒られはしないものの、またか、と呆れられていたのは事実で。すみませんすみませんと頭を下げながら、二三歩先をゆく彼らを、一進一退についてゆく日々。

 ―そうしたなかで、わたしはひとりのひとと出会った。

 配属された課に身を置く先輩だった彼は、わたしとさほど歳は変わらない。とても整った顔をしていてきれいな翡翠の目をしていたのに、眉間にしわを寄せては気むつかしそうに業務をこなしていた。最初の印象は単純に怖いひとというもので、しばらくははなしをすることすら憚られたものだ。

 …けれど。仕事を行なう姿は圧巻だった。上司に1を云われただけで10を完成させて、毎回課長を驚かせていて。そのうえ取引先との交渉もどんなにむつかしいものでも承諾を持って帰ってきたし、お客さんを何人も抱えているのに目配り気配りは欠かすことがない。それこそみんな口にはしなかったが、彼が未来の課長だということは目に見えたはなしだったのである。

 そういう立ち居振る舞いを目の当たりにして、わたしは決心した。―このひとを目標にしよう、と。

 同期との差が開いてゆく一方で心の折れかけていたわたしの尻に、火がついた瞬間だった。どんなささいなことでも彼から技を盗もうと必死になって、アポイントメントには同席を申し出た。最初は大層びっくりされたけれど、勉強をしたいというわたしの一点張りに彼も折れたようで。好きにしろ、とぶっきらぼうに許してくれたっけ。まるで金魚の糞のようについて回っては、逐一聞き逃さずメモを残す。…毎日がほんとうに勉強だった。

 いっしょにいる時間が長くなってゆくにつれて、分かったことがある。一見厳しそうな彼の裏側は、思いやりであふれた人物であるということ。ひどくやさしいひとだった。がむしゃらに仕事をこなすわたしをいつもいつも気にかけては、無理は禁物と釘をさしてきて。彼の言葉ひとつひとつが、ほんとうにうれしくてたまらなかった。

 だけど―このひとみたいになりたいという純粋な憧憬が、大きく外れてしまったのは一体全体いつからだろう。

 わたしに向けられるその慈しみを、わたしだけ≠ノほしいと願ってしまっている自分に気がついてしまったのだ。なりたいという憧れからは遠くかけ離れて、いつしかあのひとのとなりに立ちたいと思うようになっていた。肩を並べてもおかしくないふさわしい存在になろう、と。

 つまり―尊敬が、恋に変わってしまったのである。

 ―その笑顔もやさしさもわたしにだけください。
 ―このひとの、彼女になりたい。

 自覚してしまってからのわたしは、ひどく欲張りになっていたと思う。あのひとからの特別がほしくて、ほしくてたまらなくてそのために躍起になった。見劣りしない奴になるためには、まずは地位を確立せねばとますます仕事にのめり込んでいって。上司からは見違えるようだと目を丸くされた。

 必死、だった。あのひとのとなりに立ってもいい存在になるために。どんなことも厭おうとしなかった。


* * *


 そしてめくるめくように時は過ぎて2年後。3月の人事異動でわたしは転属を云い渡された。悪事を働いたことによる左遷ではなく、なんと課長としての異動で驚きを隠せなくて。上司曰く、これまでの仕事ぶりが評価されたらしい。

 わずか2年足らずで昇級したひとなど、そうそういないと云われた。部長には祝われると同時に笑われたものだ。「最初は泣いてばっかりだったのに」と。

 その肩書きはわたしにとって、うれしさこの上ないものだった。お給料が上がるとか意見しやすくなるとかそういうことではない。

 ―ようやくあのひとと同んなじ土俵に立つことができる。

 その事実で云い表しようのないくらいの喜びを噛みしめた。追いつこう追いつこうと思ってもどんどん先にゆくあのひとに、これでやっと顔負けできるようになったのか。となりに立っても恥ずかしくない奴になることができたのか。…うれしかった、感無量だった。背中ばかり見ていたけれど、これでもうそばにいても胸を張ることができる。


 けれど、それでもやっぱり、日番谷先輩は遠いひと、だった。


 結婚すると聞いたのは、人事の発表があって間もなくのこと。お相手は同じ会社で別の課のかた。そもそも階が違うためにお目にかかったことは数回しかないのだけれど、すごくすごく可憐なひとだった。いわゆる癒し系の部類に入るようなそんなひと。わたしとは真逆の人間。

 幼なじみだという。付き合ったのは最近でそこまで長い期間だったわけでもないけれど。このひとじゃなきゃ、という意識がお互いにあったらしい。あの日番谷のプロポーズとは、と一時期かなり職場では盛り上がっていて、飲み会でも話題にされては彼もうんざりしているようだった。…でもその顔は、必ずしもいやそうではなくて。

 この想いを告げてしまおうかと何度考えたことか。捨て台詞的にお酒の力を借りて吐き出そうと思ったけれど、あのどことなくしあわせそうな彼を見ては到底告えるはずがなかった。

 きっときっとわたしは心のどこかでは振り向いてくれると信じて疑わなかったのだろう。同んなじ立ち位置になれば、可能性はあると。でもそれは単なるわたしの希望的観測で、あのひとの意向なんて算段に入れてすらいない。


 わたしにはあのひとだけだったけれど。
 あのひとはわたしだけなんてことは―全くなかったのだ。


 ―金曜日の帰り道、偶然駅までいっしょになった彼の1歩後ろを歩いてゆく。数年間追いかけて追いかけてやまなかったこの背中がぐんと近づいたかと思ったら、それもつかの間、すぐに引き離されてしまって。

 彼はほんとうに高嶺のひとだった。いくら手を伸ばしても決して掴めないひとだった。…ほんとうにほんとうに、届かないひとだった。

「…日番谷先輩」

 憧れて仕方のなかった背中に呼びかけると。どうした、とこちらを振り返る。…暗い夜道ではその左手の薬指がやけに眩しく見えてしまう。ずくり、と心のなかがうごめくようなそんな気がした。

「ご結婚おめでとうございます」

 今の今まできちんと云うことのできなかった言葉。まっすぐ目を見て云うと、なんだ改まって、と困ったように息を吐く。ちゃんと云えてなかったからと付け加えれば、ありがとう、と返ってきて。

 ああ、ほんとうにほんとうに―届かない、遠い遠いひとになってしまった。

「俺もちゃんと云えてなかったが―名字、…昇級おめでとう」
「ありがとうございます」

 ついにお前も課長だな、と目を細めて云う彼に満面の笑みで応える。

「名字から学んだことがたくさんあった。尊敬もしていた」

 ―最高の相棒だ、お前は。

 その言葉に思わず涙があふれそうになってしまったが、なんとかわたしはこらえた。尊敬していてやまなかったひとから逆に尊敬していたと云われて、うれしさ以外のどの気持ちが息をしよう。それくらい彼のなかで大きな存在になっていたのだ、わたしは。

 でもそれはあくまで仕事のいちばん≠ナあって、プライベートのいちばん≠ナはななかった。

 同時に思い知らされて、かなしさがなかったはずがない。所詮それまでだと、どうにもこうにも越えられない壁を築き上げられたようなそんな気もする。となりに立っても恥ずかしくない存在にはなった、けれどそれはそばにいてもいいということとイコールではなかった。

「うれしいです、ありがとうございます。先輩を目指してやってきてよかったです」


 ―日番谷先輩、すきです。だいすきです。
 だから、


「…しあわせになってくださいね」


遠くて遠すぎて、
近くにいたい人だった