今年も、桜の咲く季節が訪れた。



 歴史改変主義者、なんていう奴らと戦うためにこの本丸にやって来てから、もう何度か季節が巡った。俺はどうも容姿も性格も元主に似てしまったのか風流への造詣が深いわけではなかったが、同じ兼定の名を持つ之定、ここでは歌仙と呼ばれているが、あいつや俺の相棒を自称する国広がやたらと風流や自然美を好むせいか、いつの間にか自分までそこそこそういった類のものに詳しくなってしまった。春の桜、夏の蛍、秋の紅葉、冬の雪を愛でるだけで酒は美味くなると宣ったのは、さて誰だっただろうか。
 本丸が広い分、ここには庭の数も多い。池があったりそこで鯉が優雅に泳いでいたり、粟田口の短刀たちの間で流行っているらしい鬼ごっこたる遊びが充分に出来そうな広さの庭もあれば、はたまた井戸だけがぽつんと置かれている狭い庭もある。遠征のない者、出陣のない者、夜間帯の出陣を控えてる者、それぞれが過ぎ去る時間の大方をこの庭々でのんびりと過ごすのだ。かく言う俺もその1人なのだが。

 桜の木の、ひとつめの蕾が花開いたのを発見したのは毎朝律儀に庭の草木や花々に水をやっているらしい之定で、俺は偶然、あいつが今の主とそんな話をしているところを通りかかって知ったのだった。俺の前の主とは似ても似つかない、優雅で朗らかで、前の主と仲の宜しかった島原の女たちに比べるまでもなくいい女だろう主は、いつも気に入って身につけている着物に満開の桜の花々を咲かせていて、之定の報告に、嬉しそうに顔を綻ばせていた。美しいものは、嫌いはなれない。
 それからというもの、専ら俺が1日を過ごす庭は、何やら他の刀剣たちが嚆矢の桜と呼ぶその桜がある庭が良く見える縁側になっていた。遠征や出陣、家事や馬当番がない日の、よく日差しの当たる午後、縁側に腰掛けて、その桜の枝をなんとはなしに眺めるのだ。蕾がひとつ、またひとつ花を咲かせ、徐々に寂しげだった濃茶の枝が薄桃色に変わっていくのを眺めながら茶をすする。新選組の屯所で前の主や仲間たちとともに桜を眺めたことはあったが、こうして人の身を持ってから実際に見える景色は、無機質だったあの頃とは随分と違うようだ。



「いずみ、今日もここにいたのですね」

「ん?おー、主じゃねえか」

「隣、よろしいですか?」



 盆に茶と菓子を乗せた主の声が、俺よりも高い場所から降ってきた。今日も今日とて相変わらず白地の着物に桜を咲かせている。主は毎日自分の仕事の傍らこうして本丸を歩き回って刀剣たちに声をかけているらしく、その甲斐あってか刀剣同士の仲も良く、本丸は常に和気藹々とした雰囲気に包まれていた。審神者としての実力は勿論、色々な意味で人を惹きつける力を持っているのだろう。そんなところは、短気で喧嘩っ早くてとある界隈からはばらがきなどと呼ばれていたにも関わらず、不思議と新選組隊士たちの尊敬の眼差しと絶大な信頼を寄せられていた前の主と唯一似ている点と言えるかもしれない。俺が座っている縁側の隣を何度か手で叩いてみせると、彼女はひとつ礼を告げ、優美な仕草でその場所に座った。
 主は、俺のことをいずみと呼ぶ。刀剣たちは基本的に俺のことを兼定とか和泉守と呼ぶが、この人は何故か刀剣たちを独特な名前で呼ぶのだ。



『人は、忘れることを繰り返す生き物です。少しでも愛嬌のある呼び名の方が、いつまでも忘れずにいられるじゃないですか』



 一度、何故そう呼ぶのかと尋ねたことがあったが、主は笑ってそう言った。こうして人の身体を持ってからそれは身を持って知ったので、なるほどそうだと感心したのは覚えている。



「今年も、桜が綺麗に咲きましたね。いつ見ても、この花は美しいものです」

「そうだな。俺も美しいものは嫌いじゃねえし、何より酒が美味くなるからな」

「では、そのうち夜桜でも眺めながら酒盛りでもしましょうか」

「おー、それもいいかもしれねえな」



 とは言ってはみたものの、出来ることなら、蕾が膨らんでからこうして満開に咲き誇るまで見守り続けてきたこの桜を眺め酒を嗜むのならば、いっそ桜のように美しく清らかな彼女もこの桜も、誰にも見られないように、誰にも傷つけられないように、ひとりじめしてしまいたい。雨が降り、嵐が吹き荒び、あっという間に花弁を散らして人々の記憶から忘れ去られてしまうような儚い花ならば。



「……あんた、いい香りがするな」

「ふふ、そうでしょうか。桜の香りがこの着物の桜にも移ったのでしょうね」

「……ああ、そうかもな」



 どんなに人の身を模していても俺は刀であり、主は特殊な力を持つとはいえ人間だ。抱きしめてしまえば、細い枝のように簡単に折れてしまいそうなほど、美しく、それでいて弱い生き物なのである。刀である俺たちは、折れない限りどれほど大きな傷を負っても数日も経てば治ってしまうし、磨けば輝きを取り戻す。人間の命は、花のように儚い。だから俺がどんなに想おうと、どんなに愛そうと、彼女はいつか俺の目の前から花のように散ってしまうのだ。
 きっとあと数日もしたら、満開に咲き誇るこの桜も終焉を迎える。毎年変わらず美しい花をつけても、季節の移り変わりとともに俺の頭の中から泡沫のように消えてしまうのだ。きっと、俺たちは刀の身でいた頃の方が、幸せだったのかもしれない。



 やがて季節は巡り、庭には緑が増えた。そのうちその緑は赤や黄色に色づき、冷たい綿雪とともに地に還る。散る花のように彼女はあっけなく俺の前からいなくなってしまった。それでも、すぐに新しい主がやってきて、再び本丸は活気を取り戻して、また何も変わらず季節が巡り、桜が咲くのだ。
 きっと俺も、いつしか人間と同じように、彼女も、彼女と一緒に眺めた桜のことも、忘れてしまうのかもしれない。それでも記憶の傍らで彼女が笑っている間は、俺は変わらずあの儚い花を愛でるのだ。



君がいなくなっても、
(君が愛したあの花が変わらずに咲き続けるのならば、)
僕はきっとそれなりに生きていける