訳もなく侘しさが襲って来ることがある。 訳もなく、という所が肝要だ。 理由があれば、対処が取れる筈だし、理性的でありさえすれば、世の中の大概の事はどうにかこなせる様に出来ているのだ。 そうでなければ、人間生きて来れないし、生きる事自体がやってられなくなる。 でも、この訳もなくやってくる侘しさは違う。理性で対処できるある程度の事柄とは気色が違う。 侘しさは突如やってきて、まず肺を侵し、呼吸をきゅっと細くして、心臓を一口齧る。 その齧られた跡に宿るのがまた、言葉に替え難い持続的な傷みなのだ。 私がその痛みが詫びさ、と呼ばれるものであると知ったのは、中学生の時。 その侘しさが何かに似ている、思い至ったのが高校生の時。 以来、私はその正体を探りつつ、訳のない侘しさと共存しながら、どうにかこうにか生きている。 そしてソイツは、今日も不意打ちでやって来る。 * ねぇ、お母さん。なんとなく、淋しいの。 7歳の私の告白に、母は動じることなく微笑んで、呪文をかけた。 貴方は少し過敏なのね。その淋しい気持ちはね、大人になったら治るわよ。 信じ続けて、十数年。どうにもその呪文は私の病気には効かなかった様だ。 くだらないバラエティ番組の奏でるノイズにあてられて、気付いたら床を蹴っていた。 窓をあけてベランダへ出る。眼下には遠からず近からずの街並み。それが、余計に不味かった。 こんな郊外のちっぽけな街灯りじゃあ、私の膨れ上がった侘しさは吹き飛ばせない。 ベランダから隣家を覗くと、既に遮光カーテンがおりていて、ほんの少し開いた隙間から、人の気配が伺えた。 果たして私の判断が英断であったか知れない。兎にも角にも私はこの侘しさから脱出しなくてはならなかった。 放っておくと、侘しさは肥大する。 本体を喰い尽す。 ベランダの鍵を閉め、ジーンズの後ろポケットに携帯と部屋のキーをねじ込んだ。 お尻のあたりをストラップが揺れている。 私はクローゼットから去年の秋口に購入したブカブカのカーディガンを引っ張り出し、引っ掛けた。 隣家のインターフォンを長押しすると、チェーンの外れる音がして、家主が顔を覗かせた。 「うるっさいんですけど」 「こんばんは。黒尾さん」 「……一応挨拶はするのね。はい。こんばんは」 「入れて」 「駄目」 「なんで?」 「お前、中々帰ろうとしないもん。だから、駄目」 「ケチ」 「じゃあ、そういうことで。帰りなさい」 早々に閉められそうになったドアを掌で制する。ギリリと軋む音がした。 「ウチ、セールスは受け付けてないんで」 「仏様の様な黒尾さん、お願いします。入れて下さい」 押しあいへしあいが続く事数分。 「お前は物の頼み方どこかで教わってきなさいね」 勝手に俺を殺さないでくれる? ブツブツと不平を言いつつも、ドアを開けてくれる。馬の耳に念仏。私はその隙間に身体を滑り込ませて、ほとほと呆れた表情を浮かべる隣人を見上げて、ニィと笑った。 * 黒尾鉄朗というこの隣人が、他大学の3回生であるというのを知ったのが半年前。 上京して、入学式やらコンパやらに忙殺されていた私の生活が落ち着きを見せ始め、顔を合わせば、世間話をするようになったのがその3カ月後。 例の発作が起きて、家に転がり込むようになったのは更に2ヶ月後だった。 DVDを物色する私の背中に声が投げられる。 「あ、そこ荒らすな。せっかく片づけたんだから」 「彼女が?」 「お友達が」 「黒尾さん、お友達いるの?」 「今、純粋に聞いただろ」 腹立つわー。キッチンに立って、小言を零しつつも黒尾さんはお湯を沸かしてくれる。 ココアがいいな、とリクエストしたら、買ってこい、と一蹴された。 何度かこの部屋にあがり込んで、ココアの粉等存在しないのは把握している。 洗面台には、青色の歯ブラシと桃色の歯ブラシが1本ずつ挿してある事も、この語順音順に並べ揃えたDVDが本当は誰の趣味で、私物であるのかも、把握している。 人の手によって、小奇麗に整えられた黒尾さんの部屋が私には何故か居心地が良く、それでいて、そんな清潔な空間をほんの僅かに荒らすのが、どうにも私は好きらしかった。 ガラスのローテーブルの上に、カフェオレがコトリと置かれる。 黒尾さんは、いつもの通り、ブラックコーヒーだ。 「濃いの飲むと、眠れなくなるんじゃない?」 「誰かサンのおかげで、どうせ、今日も眠らせてもらえないので」 「黒尾さんが言うと変な意味に聞こえる」 「貞操の危機を感じたら、いつでも速やかに部屋に戻ってね」 レポート、死ぬ程出てるんだわ。 PCの置かれた方の机を見ると、資料が乱雑に重ねられていた。その乱雑さが黒尾さんの本来で、彼に一番近い人ですら、そのだらしなさを正す事が出来ない。 人の寂しさを見つけると、発作的な自分の侘しさはどうにもちっぽけに思える。 重大な発明をしたエジソンの様な気持で、私はその机を眺めた。 「大変だねぇ」 「うん。良かった。その目が節穴じゃなくて」 「これを片づけるの、大変だねぇ」 「……」 そっちデスカ。黒尾さんが椅子を引いて、腰かける。それでその空間は完璧になった。 「黒尾さんの学部、めちゃくちゃ忙しそう」 「分かってんなら帰ろうよ」 「私、この部屋好きだよ」 「そいつはどうも」 「この間、ベランダに出てた人だよね」 黒尾さんの彼女。 黒尾さんはコーヒーを啜り、視線だけちらりとこちらへ投げて、黙秘した。 「何年続いてるの?」 「そっちも色々とお忙しいようで」 「何の話?」 「この間の、全部、彼氏?」 私は考え、ゆるゆると首を横に振り、彼の口調を真似て答えた。 「オトモダチ」 ああ、そう。黒尾さんは、PCにログインすると、ENTERキーを2回押し、オトモダチねぇ。と私の言葉をなぞった。 「お隣の佐藤さん、そういう話大好きだから、痴話喧嘩は他所でやりなさいね」 「皆、向こうが勝手にキレるんだよ」 「なんて?」 「『お前にはオトモダチが何人いるんだよ!』 って」 ぷは! と吹きだすと黒尾さんは、口元を拭って、それはそれは。他人事のように言った。実際他人事なのだろう。 訳もない侘しさを紛らわすのに、男の子は都合が良かった。 大学に入ってそれは顕著になった。皆ギラギラした目をしているし、何より、人恋しい子は人恋しい顔をしている。 そんなものだから私が彼らの中から最も人恋しそうな子を選びとる事は自然の摂理に逆らわないごく自然な事だった。 この世は需要と供給で出来ている。 ベッドの上で、何度思った事だろう? 1度、そんな話を黒尾さんにしたら、優しく頭を撫でられた。 それが同情だと分からない程、私は馬鹿ではなかった。 * 黒尾さんの彼女とは一度だけ、話をした事がある。天気の良い日、ベランダで缶コーヒーを開けていたら、ひょこりと顔を覗かせた。小柄な、色白の、バンビの様な足の持ち主だった。 「あら、こんにちは」 こんにちは。と返すと、彼女はにこりと相づちを打って、せっせと洗濯物を干し始めた。私は横目でそれを眺め、その内ベッドの上でだらしなく眠るオトモダチから名前を呼ばれ、そうして部屋に戻った。 私達が顔を合わせたのはその一度きりだった。 黒尾さんがだらしなく彼女の名前を呼ぶのを、私はまだ聞いた事が無い。 どうせなら私はもっと彼女と話してみたかった。それで尋ねてみたかった。 貴方は訳もない侘しさに襲われる事がありますか? そういう病気があるのを知っていますか? 彼女は何と答えたろう? やはりにこりと笑うのだろうか。相づちを返してくれるのだろうか。 もしそうなら、私は口にせずにはいられない。 (貴方の隣はいつも、満たされていていいですね) 「黒尾さん、このDVD部、観た? 全部、好き?」 「全部は観てねぇけど。途中で寝ちまったのもあるし」 「1本、借りて行ってもいい?」 「……」 「ねぇ」 黒尾さんはPCのキーボードを打つ手を止め、もうすっかり冷えてしまったブラックコーヒーに手を伸ばした。 ゆるりと視線を動かして、その目が私を捉えた時、どんな言葉が降って来るのか、私には容易く予想がついた。 「駄目」 私はニィと笑い、じゃあここで観せてね。と、適当に1本を選びとり、ケースを開いた。ケースの上には微塵の埃も降っていない。 電源ボタンを押すと忽ち私の指紋がついて、起動音が聞こえた。 DVDを差し込む。たいして趣味でもなければ、観たくもない映画のガイドが始まる。DVDは、『ま』で始まるタイトルだった。この一晩で恐らく3本。 DVDの羅列は乱れ、訳もない侘しさを私はそうして満たすのだ。 |