ふにゃふにゃの笑顔とふにゃふにゃの声で、名前が俺を呼ぶ。「黒尾君、背ぇ伸びたねえ」なんて、お前は久方ぶりに孫に会ったばあちゃんか何かか。すっかり緩みきった名前の両頬をゆるーく引っ張ってやる。餅のようにとまではいかないが地味に伸びた。「いひゃい、いひゃいよ」名前の細やかな抗議を受け入れてやり、静かに手を離す。 「久しぶりだな、こういうの」 「ふふ、そうだねぇ」 しみじみと俺が呟くと、名前は深く頷いて笑ってみせた。悪戯に対して気分を害したふうはちっともない。 同じ中学に通っていた時も、名前は悪戯に対して寛大だった上に反応が楽しかった。三年間だけ親の都合で東京に来ていた名前。中学を卒業してからは地元の宮城に帰り、烏野高校に進学していた。 男子バレー部のマネージャーになった名前は、俺の通う音駒高校バレー部との因縁を聞いたらしくて、楽しそうに電話してきたことがあった。 『黒尾君の行ってる音駒と烏野の男子バレー部、昔からライバルなんだってね』 『俺も聞いたわ。ネコ対カラス、ゴミ捨て場の決戦って』 『そうそう! また遠征とかできたら良いよねぇ。この目で決戦見てみたいよ……!』 その言葉がまさか、三年生になってから現実になるとはお互い予想だにしなかった。 今年のGW、音駒と烏野は久々の練習試合を果たすことになった。俺たちにとっては再会の機会でもある。 烏野の合宿所に着いたことを名前にメールするや否や、「会えそう?」との返信があり、こうして二人で会うことになったのだ。 「東京からの長旅疲れたでしょ? それですぐ今日も沢山バレーしたでしょ? 休まなくて大丈夫?」 「大丈夫じゃなきゃ会わねーよ」 「そっか、良かった」 名前のホッとしたような笑顔を見ると、つられてこっちの頬も緩む。そんな他愛もないやり取りを数分交わすと、名前は「そろそろ戻らなきゃいけないよね」と話を切り上げた。帰ろうと振り返りかけながら、こちらを見て手を振って名前が言った。 「じゃあね黒尾君」 「おう、また明日」 「……うん!」 俺が“また”と返したのを、名前は律儀に聞いて応えてくれた。 それから遠征中は、毎日ひっそりと顔を合わせた。 一度研磨を引っ張って来たこともあった。名前はやっぱり研磨にも「背が伸びたねえ」と嬉しそうに笑い、精一杯平静を繕う研磨の頭を撫で続けた。耐えかねて赤くなる研磨を俺がからかった時、そっと爪先を踏まれたのも微笑ましいぐらいだ。 お互いそれなりに疲れていたはずだ。それでも、とにかく顔を合わせたかった。 この遠征が終わったらまた暫く名前とこうやって会うことは無いだろうから。 ――そしてその遠征も、明日で終わることになった。 「明日ついにカラス対ネコが見られるんだねぇ! マネージャーだけど、試合に直接出る訳じゃないけど、今からすごくドキドキして目が冴えて仕方ないの」 本当なら公式の大舞台で見たいけど、と付け加えながら、名前は目を輝かせていた。 ベンチから落ちるんじゃないかというぐらい激しい身ぶり手振りで、隣に座る俺に烏野をひたすらアピールしてくる。 「うちの皆はねぇ、すっごい個性的でね、きっとびっくりするよ!」 「お前テンション上がりすぎ」 「だって……って、あ、そっか、黒尾君疲れてるのに私ばか騒ぎしちゃって……」 急に名前はしょんぼりとした。俯いて、膝の上に重ねられた自分の手を見つめながら、寂しそうに背中を丸める。 「明日の練習試合終わったら、すぐに新幹線で帰るんだよね」 「ああ」 「……じゃあ、ちゃんとお話出来るのは今日で終わりかな」 不謹慎ながら、名前が寂しがっているのが嬉しかった。東京と宮城の遠距離、しがない学生である俺たちが自由に会うのは厳しい位置関係。 今回のように遠征出来たのはラッキーだった。……一週間も無かったから、あっという間だったけれど。 「黒尾君といるの、楽しいから。明日からまたしばらく会えないの嫌だなぁ……」 名残惜しいのは俺だけじゃない。 それだけで満たされていく大きな何かがあった。自分でも判る、今の俺はにやにやしてるなって。端から見たら少し怪しいかもしれない。 「名前、今のもーいっかい」 「え?」 「もう一回、聞きたい」 「えっと……会えないの嫌だなぁ」 「その前も」 「く、黒尾君といるの楽しい……」 「はい、よくできました」 そう言ってから、思い切って名前を抱き寄せてみた。 名前はびっくりして身を強張らせていた。「な、なに!?」焦ったみたいに俺の胸を押して退けようとしてきたけど、ぎゅうっと抱き締め直して俺の“離しません”という意思を示すと、大人しくなった。 「くっ、黒尾君、何で?」 「だって名前が俺のこと大好きだって言うから、我慢出来なくて」 「いっ、言ってないよ! 言ってない!」 「言ったも同然だろアレ」 名前の唸り声が萎んでいく。その沈黙は、俺の言葉を認めた印と言ってもいい。 諦めたように名前は俺に凭れてきた。更に、さっきまで逃げようと動かしていた手を俺の背中に回してきた。 密着すると流石に俺も緊張した。というか名前の行動は予想外だった。恥ずかしさに萎んでそのままになるかと思ったら、こんなに積極的に来るとは。 「いっぱいくっついて色々当たってんですけど、名前さん」 「……好きだもの」 「……名前?」 くっついたまま、名前が俺を見上げてきた。真っ赤な顔で、今にも泣きそうなうるうるの目をして。余りにも可愛いと言うかなんと言うか、衝撃に心臓が跳ねる。 何だか悔しそうに、名前が口を開いた。 「好きだからこそ、言わないで我慢しなきゃって、じゃないと黒尾君帰ったときに寂しいのが辛くなると思ってたのに」 「何それ、いじらしいな……」 「こんなときまでからかわないでよ……。私の馬鹿さが際立ってくるから……」 申し訳なくなってきた。少しでも何時もの調子でからかうような真似をした自分が腹立たしい。 「馬鹿じゃねえよ名前は。たとえ馬鹿でも愛すべき馬鹿だ」 「励ましてるの……それで?」 「勿論。俺も名前が好きだからな」 しがみついてくる名前の背中を撫でながら、俺は真面目に話した。何時もだったら「真顔は逆に怖い」とか茶化す名前も空気を読んで――というか余裕を無くしていて大人しい。 好き。改めて口にすると重さがある言葉。 嬉しい重さだ。 「好きだから、名前が寂しがってんの嬉しかった。俺もメチャクチャ寂しいから」 「そ、そんな、好きってあんまり言わないで……」 「何でだよ。こういうのはやっぱり直接言ってナンボだろ」 少し体を離して不貞腐れながら返すと、名前は小さく呻くような、何とも頼りない声音を絞り出して、こう言った。 「黒尾君に“好き”って言われると……もっと一緒にいたいのに、いられない寂しさが……酷くなるから」 言葉はおろか声にすら表現できない感情に震えながら、俺はまた、名前を強く強く抱き締めた。 苦しいよ、と言われたが気を遣う余裕なんて無い。言葉のわりに名前の声が嬉しそうだったから、きっと大丈夫だ。そう信じる。 暫く名前のいろんなものを堪能してから、名残惜しいけれど離れた。いい加減に戻って休まなければ、お互い明日が大変だろう。 名前はまだ赤かった。ぼんやりとした顔が何だか色っぽい。 「ゆ、夢みたい。好きな人に好きって言われるなんて……」 「俺も良い夢見させてもらったわ。現実だけど」 「そ、そうだね。現実だね!」 嬉しそうに笑って名前は頷いた。しかしその笑顔はすぐに寂しそうなものに変わる。 つ、と伸びてきた名前の手が、俺の手を掴んだ。 「明日はお互い頑張ろうね」 「お前マネージャーだけどな」 「ま、マネージャーなりに頑張るからっ!」 「そっか、そうだな」 控え目な名前の指先が何だかもどかしくて、きゅっと手を掴み返してやる。「ひゃうっ!」あられもない声を上げられて変にどぎまぎしてしまった気持ちが半分、良いもん聞いた気持ちが半分、俺の胸中を占める。 ……気を取り直して俺は口を開いた。 「じゃあ、おやすみ」 「うん、おやすみなさい」 ゆっくりと名前の指が滑って、遂に離れる。 一度背を向けると、振り返ることなく名前は帰って行った。 俺も俺で、合宿所に向かって歩き出す。 さっきまであんなに幸せで嬉しくていっぱいだったのが、一歩、また一歩と足を動かす度、なりを潜めていく。その代わりに、寂しいとか名残惜しいとか、そういう切ない気持ちが膨らんでいった。あと、不安も生まれた。傍にいられないうちに他の奴を好きになるんじゃないかとか。 もう少し言うべきことがあったんじゃないか。もう少し名前の体温を感じていたってバチは当たらなかったんじゃないか。もう少し、何かしてやれることが……。 未練がましい後悔がうねって、蟠る思いを拗らせていく。 「……本当、なんでもっと一緒にいられねえかな」 人の気持ちも知らないでキラキラ輝く夜空に向かって、そう吐き出してみる。 言わないよりマシかと思っていたのに、ちっとも気持ちは晴れやしなかった。 今度は、さっきまでの名前とのことを振り返ってみた。 “一緒にいたい” そう言ってくれた名前との僅かな時間を。 ――あいつもきっと、今の俺みたいに色々考えてるんだろうな。 それに気付いたら、少し蟠るものが無くなった気がした。これならすんなり眠って、明日には疲れも取れそうだ。 名前を抱き締めた感覚なんかを思い出すと、更に調子が良くなってくる。 我ながら単純だと、小さな笑いが漏れた。 |