カーテンを閉め忘れた窓から差す日差しが、私に朝の訪れを知らせた。
 ベッドから起き上がろうと身を捩ると、うぅ、と小さな呻きが聞こえた。私のものではない。隣で眠る什造さんのものだった。彼の細くて白い腕が、しっかりと腰に巻き付いている。
 縋ってくるかのようなその姿に胸を高鳴らせつつ、私は什造さんの肩を揺すった。

「什造さん、朝ですよ」
「うむ〜……。成長期なのでもう少し寝るです……」
「じゃあその間に朝御飯用意しますから、腕離してください」
「はあい」

 あっさりと什造さんから解放されたあと、軽く身嗜みを整え、早速台所に向かう。そして……自分の失態に気付いた。

「まずい、ご飯炊くの忘れてた……」
「パンでもいーですよお」

 ベッドの上から届いた呑気な声に、「じゃあそうします」と私は頷いた。

「ツナ缶……きゅうり……。あとは、ああ、ハムと卵。十分かな」
「まだですか〜? 僕お腹空きましたあ」
「あれっ? 寝るって言ってたのに寝てないじゃないですか! あ、あとちょっと待っててくださいね」

 いつの間にか後ろに立っていた什造さんを振り返りながら、話を続ける。心臓がばくばくしているのがバレないよう、必死に自分を落ち着かせようと努めた。

「飲み物は何が良いですか?」
「お砂糖入れたコーヒーと、あと昨日名前チャンが作った野菜ごちゃ混ぜスープが飲みたいです」
「ミネストローネです……。朝から食欲ありますね」
「成長期だから沢山食べて沢山育つですよ」

 笑いながら什造さんは、ミネストローネの入った鍋が置かれたコンロの火をつけた。手伝ってくれる什造さんを見て、申し訳ないという気持ちより嬉しさが勝る私。

「名前チャンも沢山食べて大きくなるです」
「いや私はもう成長期過ぎちゃいましたから……」
「ありゃりゃ、そうでしたか」

 鍋の中身をお玉でかき混ぜながら、什造さんはぼやいた。

「よく考えたら、名前チャンがこれ以上大きくなったらくっつきにくくなりますねえ。成長期終わってて良かったです」

 什造さんにとっては何てことはない呟きでも、私は大いに動揺した。
 けれどこんな動揺、今に始まったことではない。私は昨日から動揺しっぱなしだった。
 その原因が、今隣に立っている什造さんである。
 昨夜唐突に携帯電話が鳴り、慌てて出てみると、相手は什造さんだった。什造さんは職場の上司であり、かつて私が“喰種”に襲われた際に救ってくれた恩人でもある。
 その什造さんが電話口でこう言った。

『明日休みだから、名前チャンのお家行きたいです。いっぱい歩いてきたですけど道判んないです。名前チャン、何処ですか?』
「む、迎えに行きますから場所教えてください!」
『わっかりましたぁ〜』

 そうして急ながら、私はこの部屋に彼を招くことになった。一人で暮らすには十分な広さのワンルーム。普段からこまめに片付けるようにしていたのが幸いした。
 来るなり「お腹が空いた」という什造さんに、私は素早く夕飯の残りや駄菓子を献上した。そして、ふわふわとあちらこちらに話題が揺れる彼との会話に花を咲かせた……。
 こんなに私は幸せで良いのかな。
 ばちが当たったりしないかな。
 そう思いながら。
 什造さんといることは嫌じゃない。間違いなく嬉しかった。嬉しすぎて、親愛なる上司が自分の部屋にいるという現実を受け止めきれなかった。部下になれただけで、私は夢心地だったのに。
 恵まれ過ぎてはしやいないか、私。
 そんな私を他所に、お腹も膨れて満足したらしい什造さんは、笑いながらベッドに飛び込んだ。勿論、普段私が使っているベッドに。

「名前チャン、寝てもいいです?」
「お風呂入らなくて良いんですか?」
「はいー、明日でいーです」

 ごろんと寝返りを打ちながら、布団を叩き、什造さんは私を見る。大きなその瞳が、私を捉えて離さない。

「早く名前チャンも寝ましょー。こっちおいで〜」
「え、えっ!! いや私は……」
「名前チャン、もうお風呂入ったですよね? いいニオイするです。ならあとは寝るだけでしょう?」

 ニコニコと屈託ない笑みの什造さん。
 私は立ちながら夢を見ているのかもしれない。頬を思い切りつねった。何回も。痛い、痛い。でもベッドに什造さんはずっといる! 夢じゃない!

「何してるんですか、名前チャン」
「現実の確認です……」
「変な子ですねえ」

 什造さんはベッドから下りると、私に向かって歩いてきた。細い両手を伸ばし、ぺちぺちと優しく私の頬を叩いてくる。
 ひんやりする什造さんの手に反して、私の体は熱を増していった。

「疲れてるんです? だったら尚更おねんねしなきゃですよー」
「あ、あの、歯を磨かなきゃ……」
「あ。僕も磨かなきゃです」
「歯ブラシ今出しますから!」

 慌てて話題を変えて、私は什造さんと共に歯磨きをした。……けれどすぐにまた什造さんはベッドの上からこう言った。

「さあ〜、一緒に寝ましょー名前チャン」
「……は、はい」

 話題を変えた意味は無に帰した。
 そして什造さんに呼ばれるままに、私は彼と同じベッドに入り、眠ることになった……。
 何だが什造さんからいい香りがするし、間近にいるし、私が寝返りうったら潰しちゃいそうだし。何よりこんな、まるでそんな関係みたいなシチュエーションで、落ち着いて眠れる訳がなかった。
 ――そんなこんなで、私は今だなお動揺と混乱に包まれている。

「卵焦げちゃいますよ、名前チャン」
「うわっと危なっ! ……有難うございます」
「いいえー」

 ぼさっとしていた私に、什造さんは可笑しそうに笑ってみせた。
 什造さんは相当ご機嫌のようで、色々手伝ってくれた。お陰で調理も――といってもパンに具を挟むぐらいだけど――捗った。

「うわー美味しそうですー」
「大袈裟です、什造さん……」

 やや焦げた炒り卵とハム、ツナ缶とキュウリを具にしたサンドイッチが完成した。什造さんご希望のミネストローネとコーヒーも添え、何時もより遅めの朝食を開始する。
 誰かと朝食をとるなんて何時ぶりだろう? しかもお相手は什造さん。
 元から大して無さそうな自分の運を使いきっている気がしてきた……。

「おいしーです!」

 しかし、サンドイッチを頬張り歓声を上げる什造さんの微笑ましい姿に、思わず頬が緩む。

「空腹は最高の調味料ですからね」
「それもあるですけど、ちゃんと名前チャンのご飯が美味しいからですよ」

 飲みかけのコーヒーを吹き出しそうになった。
 褒められた私は、内心天井を突き破りそうなほど舞い上がっていた。落ち着こう、私。せめて顔色には出ないように。
 そんな私の奮闘など露知らず、什造さんは話し続ける。

「なんか良いですねえ、こういうの。新婚さんみたいです」
「し、しっ……!?」

 私が慌てふためけば、それに比例して什造さんは楽しそうに笑みを深めた。

「穏やかな日常って言うんですか? このほのぼのまったり感、僕、キライじゃないですー」
「わ、私も、什造さんと一緒にいられて嬉しいです」
「名前チャンも僕とおんなじですか! すごく嬉しいですよ」

 眩しい什造さんの笑顔に、私は目を細める。
 ――ああ、本当に嬉しいです。
 だって、ただただあなたの傍にいることが、私の幸せですから。
 私が傍にいることを、あなたは許してくれた。什造さんにとっては小さな気紛れのひとつかもしれないけれど、その気紛れが私に齎した細やかな光は、間違いなく私の生きる糧になっている。
 あなたと一緒にいること。
 そんなちっぽけな幸せを、私は心から望み、こうして手にすることが出来た。
 什造さんの気紛れに肝を冷やす時もあるけど、殆どが私にとっては新鮮で、嬉しいことばかりで。
 私の容量の足りない頭では、零れてしまいそうなほどに、あなたの一瞬一瞬の全てが眩しく、いとおしくて、切ない。

「名前チャン、スープおかわりしていいですか?」
「いくらでもどうぞ!」

 私が答えると、また什造さんは笑った。

「えへへ、名前チャンといるの本当に楽しいです」

 気紛れだけれど嘘はつかない什造さんの言葉に、朝から私の胸は幸せに満たされていく。

「ご飯食べたら、お風呂入っていいです?」
「少しお腹を休めてから入った方が良いですよ。その間に用意しておきますから」
「う〜ん、至れり尽くせりです〜」

 これからもあなたの傍にいられますように――。
 その想いが叶い続けるよう、何処にいるとも知れぬ神様に向けて、ひっそりと祈った。