「…名前、…名前」






春特有の、まるで繭にくるまれたような、何処か暖かくふわふわとしたあの感覚

まあ繭にくるまれた事なんて一度もないけれど



とにかく、意識は覚醒しているが身体はまだ夢を見ている、あの瞬間だ


そんな中微かな違和感を感じて眉を顰める

何だ、まだ目を覚ましたくないのに


そんな願いも虚しく、徐々に身体と意識が同調していく






かくして私は現実に引き戻された。若干肌寒く感じる室温に、感じ慣れた布団の感触






(今何時…?)






空色を確認しようと、身動きせず視線だけ微かに動かすと、視界の隅に何かがちらりと映り込んだ






「!?」






反射的にギュッと目を閉じた。微かに残っていた眠気も一気に吹き飛び、思わず身を固くする


寝起きの為声らしい声も出ず、微かに口から空気が漏れた

寝起きの頭が一気にギアを回し始める



もしこれが泥棒ならみすみす見逃すわけにもいかない

多くはないとはいえ、今月の生活費をかっぱらわれたら生きていけない訳だし



よし、と気合いを入れて恐る恐る薄目を開けると、






(…何だ、またこの上司か)






日頃見慣れた青いジャージではなく、寝衣を纏った私の常なる悩みの元凶が、這いつくばって私の枕元で何かを呟いている



寝ている私の枕元だ。耳元に囁いているのだ。つまり、






顔が限りなく近い



突然視界に飛び込んできたアップに再び息を飲んだが、向こうはその何かを念じるのに必死で気付いてないようだった


そんなにも集中して何を言っているのか。その集中を少しでも公務にいかしてくれればいいのに

そう思いつつ、再び目を閉じ耳を澄ます






「名前は私が好きだ名前は私が好きだ」


「何やってるんですか太子」


「おあま!!」






あまりに意味が分からなくて思わず沈黙を破ると、太子はいつもの奇声をあげながら大袈裟に後ろに転がった



何がおあまだ、あんたよりよっぽど私の方が驚いたんだぞ。一気に寿命が縮まった気分だ

ただでさえ太子の世話で最近めっきり老け込んできたというのに。恐らく長くは生きられそうにないから将来分の給与前借りしておこうかな






「で?何してたんですかあんたは」






てか普通に不法侵入ですよ、出るとこ出ますよ



まあ訴えたところでこんなんでもこの人は一応お偉いさんだから、きっともみ消されるだろう

犯罪がまかり通る職場、よくない






「恋は思い込みというだろう?」


「それが?」


「だから寝ている間に名前が私の事を好きだと刷り込もうと…」


「洗脳かよっ!!」


「失礼な奴だな!睡眠学習というやつでおま!」






それは違う気がする、とこっそり思ったがいい加減疲れたので頭で思うだけに留める



極めつけに、そんな馬鹿馬鹿しい事を口にしている太子の目はどこまでも純粋なのだ。

いい年をしてこのオッさんは…、と思わずため息をついて頭を抱えた






「それに"私が好き"って、太子の名前言わないなら意味ないじゃないですか。何ですか、私をナルシストにでも仕上げたいんですか」






馬鹿正直な太子にこちら馬鹿真面目に
返してあげると、まるで盲点であったという顔をされた






「なるほど、確かにその通りだな」


「そうですよー、もしかしたら間違えて妹子の事好きになってたかもですよ」


「なっ!妹子のやつ許さん芋の分際で…。あいつのジャージの袖長くしてやる!」


「ごめんなさい単なる冗談です」






意味が分からなかったがとりあえず謝っておいた

そもそも袖が長くなるのは、妹子からしたら万々歳なんじゃないのかしら






「それに、そんな事しなくてももう好きなのに」






ふと出掛かったその言葉は口から発せられる前に飲み込まれて分散した



さっきも言ったがこの人はこんなんでも偉い立場の人間なのだ。この国にとって重要な人物

本来部下でない限り、私なんかが関わる事のない人だ



だから、この気持ちを打ち明ける事は決して許されない






「だったら太子」


「ん?」


「法律を変えて下さいよ」






臣下でも上司と付き合えるように。私と貴方が結ばれる世界に



なんて、直接的な事は永久に言わないけれど

核心に触れていないその言葉に、案の定太子はキョトンとした顔をしている



いいんだそのまま、気付かないでくれれば。こんな単なる一個人の我儘を通しちゃダメd
「ああ、任せとけ」






突如遮られた思考に身体の動きがピシリと止まった



この人は本当に分かって言っているのか、それともただ適当に言葉尻を合わせているだけなのか






「名前の為だったら何だってしてやるさ」






そう自信満々に笑ったのだ






(…ああ、)






今度はゆっくりと近づいてくるその顔を、振り払うことなく受け入れた










切なくて、切なくて
(その日がくるまでは)(今宵の事は私達だけの秘密)