いつも、私には一番を求められていた。 それは物心ついた頃にはすでに始まっていた。 確か、四、五歳の頃に連れて行かれたパーティーで、初めて彼と出会ってから。 彼はうちの会社と提携している赤司グループの社長の一人息子で、全ての才能に秀でていた。 名前は赤司征十郎。 初めて会った時から仲良くはしているものの、時折怖いと思わせる冷たい瞳を持っている不思議な少年だった。 そんな彼が私は苦手だった。 話がそれてしまったが、その存在を知った母は私にあらゆる習い事をさせた。 ピアノ、バレエ、バイオリン、お花、お茶、エレクトーン、書道…。 なぜか運動の習い事は一つもなかった。 持ち前の運動神経と丈夫な体でどれも頑張って様々な賞を取ったが、母は一度も褒めてくれなかった。 一番の賞を取っても、また次頑張ってね、とそれだけ。 幼いながらに私は頑張った。 なんでも一番になれるように、母に褒めてもらえるように、只管頑張った。 まだあの頃、天才と凡人の壁なんて分からなかったから… 頑張って、頑張って、頑張って… けれど、赤髪の彼が出てくればいつも一番は彼に持って行かれてしまった。 その度に母は私を叱った。 父は賞を取ったことや、上位の順であることを褒めてくれたけれど、私はどうしても母に褒めて欲しかった。 こんな母だったが、私は母が私を愛していないのだと思ったことはない。 だって、大企業社長夫人となれば家にシェフが居て料理を作り、メイドや家政婦を雇って掃除をしてもらったりするはずだが、うちでは全て母がこなしていた。 私のために毎日献立を考えてくれて、食事の時にはたくさんのことを私に教えてくれたし、聞いてもくれた。 厳しいけれど、何かあったら相談にのってくれる、そんな頼りになる母だった。 けれど、ある日気付いた。 たしか、小学校の高学年の頃だったと思う。 努力しても越えられない壁があると気づいたのは… いくら私の運動神経がよかろうと、所詮は凡人に毛が生えたくらいの才能の持ち主と、本当の天才の間には天と地ほどの差があるのことを、まざまざと思い知った。 その時は愕然とした。 どう足掻いても、越えられない。 誰よりもストイックにやっている筈なのに結果は出ない。 結局は赤髪の彼や本当の天才達に一番を掻っ攫われて、私はその次。 途端に目の前が真っ暗になって、苦しくなった。 けれどそんな弱音は母の前で吐き出せず、だからと言って習い事を全て辞めることはできなかった。 母を失望させたくなかった。 だから何処か投げやりな気持ちで、惰性で習い事を続けた。 そのまま中学校にあがって、どんなご縁か私と赤髪の彼は同じ学校、同じクラスになった。 小さい頃から変わらず、赤い目にはふとした瞬間に冷たさが含まれていることがあって怖かった。 だから話したりするものの、相変わらず私は彼が苦手であった。 そして、ある時… 私は彼と出会った。 それは、偶々友達と中庭でご飯を食べていた昼休み。 友達は二人とも委員会へ行ってしまって一人でご飯を食べていた。 すると茶色のボールがトントンと転がってきて、 「悪ぃ、ボール取ってくんね?」 と青髪の男の子が駆けてきた。 私がボールを投げ返すと 「さんきゅ」 と笑って走っていった。 その彼のキラキラした笑顔が印象的で、急いで残りのお弁当を食べて彼の後を追った。 すると、ダムダムとバスケットボールのバウンド音が聞こえてきてその音の方へ向かうと、先ほどの彼が楽しそうにボールをついていた。 その姿はキラキラと輝いていて、バスケが楽しくて仕方ないという顔だった。 自分とは正反対な彼の姿に惹かれた。 私は最初こそ楽しんでいたものの、惰性と諦めの中習い事を続けてきた。 だからそんな彼に強く惹かれた。 恋愛ではなく、興味を持ったと言う方が正しいかもしれない。 それから私は大幅に習い事を減らした。 残ったのはバレエとピアノ。 全部辞めるのは母に申し訳なかったから。 母は怒ることはなく、そう、と寂しそうに言っただけだった。 それでも私は彼に惹かれた気持ちを抑えられず、習い事のなくなった日は全てバスケ部の見学にあてた。 因みに私の惹かれた彼の名前は青峰大輝。 後にキセキの世代と呼ばれる彼も、この時はまだ周りから頭一つ飛び出たほどの存在だった。 プレーしながら嬉しそうに笑う彼は私の憧れの存在となった。 そして、その日もバスケ部の見学に行った日だった。 帰り道一通の電話が、突然の母の死を告げた。 父から聞く話だと、母は昔から身体が弱く持病持ちだったらしい。 ここ最近はあまり体調が良くなかったそうだ。 だけど母は私に心配をかけまいと頑張って隠していたらしい。 突然のことに、ショックと信じられない気持ちが大きすぎてお通夜でもお葬式でも涙が出なかった。 確かに言われれば最近あれだけ雇ってなかった家政婦さんがくるようになった。 ご飯を食べたらすぐ寝室に入っていた。 朝も私が家を出る頃にしか起きてこなかった。 なぜ、気づかなかったのだろう。 家族、なのに。 ああこんなことなら何か一つでも頑張って一番を取れば良かったな。 そんな事を思いながら歩いていたら気づいたら学校の体育館の前に来ていた。 開いたドアから眩しい彼の姿が見えた。 けれど、その姿は今の私には眩しすぎて、思わず目を反らしそのまま校舎へ向かって歩いた。 放課後の誰もいない教室。 そう言えば三者面談で先生を待っている間、母とここで喋ったっけ。 懐かしいな。 名前の席はどこ?って聞かれて、私が教えると其処に座って笑ったっけ。 いつも一番一番と私に言って聞かせる以外には、優しくて暖かい母だった。 「本当は、母さん良く褒めてたんだぞ名前のこと」 先ほど父に言われたことを頭の中で反芻する。 「お前が入賞したり、発表会に出るたびに本当によくできてたって。」 褒められ続ければ、上を目指さなくなる。 そう思った母は私を褒めなかったらしい。 事実、私は母に褒められようと上を見続けた。 結局、何一つとして母に一番を送れたことはなかったけれど。 ああ、こんなことなら習い事あんなに辞めなければ良かったな。 もう少し頑張ってみればよかった。 母はあんなにも応援してくれていたのに… 自席の机に手をおいて、ゆっくり母のことを思い出していると誰かが廊下を駆けてくる音がした。 誰だろう、このクラスに来るのだろうか。 なら出て行ったほうがいいかしら。 そう思っていると、ガラガラと教室の引き戸が開いて、その向こう側で赤い髪の彼が息を弾ませていた。 「あれ、赤司くん?」 どうしたの、と言う前に駆け寄られて抱きしめられた。 まるでそうするのが当たり前のように。 「へっ、ちょっ…」 「聞いたよ、お母上のこと。お悔やみ申し上げます。」 ぎゅっと、私を閉じ込める腕に力が篭った。 「御葬儀にも参列できなくてすまない。今父から聞いたものでね。俺も母を亡くしているから少しは君の気持ちが分かるつもりだ。」 あれ、私と彼はこんな関係だったっけ。 こんな抱きしめられて、慰められるような関係だったっけ? 「俺は幼い頃から、顔を合わせる度に君を見ていた。だから知っている。辛い事があっても君はそれを隠そうとする。けれどそんな辛そうな顔で笑うくらいなら、泣いていいんだ。」 いつも一言二言しか交わさない彼なのに、今日はやけに饒舌だ。 けれど、ああ、彼はこんなにも暖かかったのか。 いつもどこか冷たさを含んだ彼はどこにもいない。 目が急に熱を持ち、鼻の奥がツンとした。 「頑張ったな」 優しく頭を撫でて、彼は優しくそう言った。 それと同時に、一筋涙が零れて彼の少し汗の染みたシャツに吸い込まれた。 一粒零れれば、後から後から湧き出てくる泉のように涙が零れて行く。 頑張ってなどいない。 だって私は母さんに一度も一番をあげたことがなかった。 親孝行なんてこれっぽっちもしていなかった。 その旨を途切れ途切れに彼に零すと、彼は優しくそんなことないと言った。 「俺は知っているよ。君はいつも、どんなときでも全力だった。結果がついてこなくても、必死だった。違うかい?きっとお母上にはそれで充分だったんだと思うよ」 その言葉が胸の奥に染みていく。 余計に涙が止まらなくなって、無我夢中で彼に縋り付き泣いた。 彼は優しく私を抱きしめてくれた。 「頑張ったな」 もう一度彼が言ったその言葉が、不思議と母さんの声に重なって聞こえた。 今思えば、綺麗事のようにも聞こえる。 漫画の台詞のようだとも思える。 けれど、その言葉に私は救われた。 「そろそろ行こうか」 あれから10年。 私達は紆余曲折を経て、明日結ばれる。 「ええ」 閉じていた目を開けて、最後にそっと墓石を撫でた。 「征十郎」 「なんだい?」 赤い瞳にもう冷たさはない。 「私、やっと一番になれること見つけた」 それはあの頃やっていた習い事や、得意だった運動でも、頑張っていた勉強でもない。 「そうか。それはよかったよ」 聡い彼だからきっとそれが何なのかくらいお見通しなんだろう。 「じゃあ、行こうか」 優しく取られた左手の薬指がキラリと光る。 私達の背中を、母がそっと押してくれた気がした。 |