私がまだ子供だった頃、身寄りがなく路地裏で餓死しそうになっていた私をキャバッローネファミリー9代目ボスが屋敷の使用人として住み込みで雇ってくださった。倒れている私を見付けて拾ってくださったのは現在10代目ボスを勤めているディーノ様。私からするとディーノ様は命の恩人で上司なのだが、ディーノ様からすると私はただの使用人ではないらしい。 「おかえりなさいませ、ディーノ様。」 「ただいま、名前。あのなー、敬語は禁止だって言っただろ。」 以前から「敬語はやめろよ、家族なのに堅苦しいだろ?」などと言われてはいたが、先日いよいよ禁止だと言われた。しかしキャバッローネファミリーに入って教育を受けてからというもの丁寧な言葉遣いしかしたことがないので、これは私の個性として定着しているもので直す必要はないと思っている。 「こういった口調の妹キャラも存在すると伺いました。」 「そんなこと誰に聞いたんだ?名前は正真正銘俺の妹なんだから、ちょっとくらい兄貴の望みも聞いて欲しいもんだ。」 ディーノ様は笑いながら私の頭を撫でた。出会った頃から妹だと言われ続けて、今でも変わらない。最初は家族ができてとても嬉しかった、けれど今では少し嫌だ。 「私はディーノ様を兄だとは思っておりません。」 「なぁ、前より俺に冷たくないか?もしかして俺が何かしたのか?それとも好きな奴ができたから他の男にベタベタされたくない……そうなのか?!」 自分の予想に勝手に驚かないで頂きたい。元々そんなに親しげにしていたつもりはないし、特別に冷たくしているつもりもない。ただ最近、大人になった私が雇い主と使用人という区別をよりハッキリと付けただけのことだ。 「違います。そちらの条件が当てはまるとすればディーノ様でございましょう。婚約者以外の女に気安く触れてよろしいのでしょうか?」 「名前は俺の妹なんだからいーの。それに名前と居ると安心するんだよな。」 ディーノ様のちょっと甘えたような顔が憎らしい。今の言葉を婚約者の方が聞いたらどんな反応をするだろう。とても心優しくおおらかな方だから、素敵な家族愛だと笑っておられるかもしれない。想像するだけで悔しい。 「お土産買って来たから、一緒にお茶しようぜ。名前の大好きなシフォンケーキ。」 「仕事中なのでお断りさせて頂きます。」 「じゃあ今から休憩決定。」 「職権乱用はおやめくださいませ。」 残念がるディーノ様を置き去りにして仕事に戻った。そもそも今日は予定にない休憩を取る余裕などない。明日はディーノ様の婚約者が屋敷においでになるということで、使用人はいつにも増して念入りに掃除をしていた。掲げられたスローガンは『塵1つ逃すことは、ディーノ様が婚期を逃すことと同じ』という大袈裟なもの。それくらいキャバッローネ全体がディーノ様の結婚を応援している。私は余計なことを考えないように掃除に没頭した。いつしか夜中になっていて、そろそろ終わりにしようと掃除用具を片付けに向かった。いきなり背後から人の気配がして手に持っていたモップを取られた。 「お疲れさま、手伝うぜ。書類を見飽きて出てきたら、名前がまだ働いててビックリした。」 驚いたのは私の方だ。この掃除用具庫はディーノ様がよく使われる仕事部屋から息抜きに歩きに出るようなルートではない。 「ディーノ様、そろそろご就寝なさらないと明日は…。」 喋っている途中で私のお腹がクーと鳴った。仕事に集中している時は平気だったのに、片付けをしていて気が抜けたのか急にお腹が空いていることに気付いた。ディーノ様にも聞こえたようで笑われてしまった。恥ずかしい。 「名前の仕事は終わったし、今度こそ一緒にシフォンケーキ食べようぜ。俺も小腹が空いたんだよなー。」 私の返事を聞かずに、ディーノ様が私の手を引いて歩き出す。昔から変わらない暖かい手。でも明日からはこの手が私に向けられてはいけない。そんなことはあってはならない。 「ディーノ様、大好きです。」 「えっ?」 繋がれた手に私がキュッと力を込めると、呆気に取られたディーノ様の手が緩んだ。私が力を抜くと繋がっていた手は解れた。 「私にとってお菓子の中ではシフォンケーキが1番でございます。」 「だよな、小さい頃から名前の大好物だもんな。」 シフォンケーキの話だと思われるような言葉を続けると、ディーノ様が焦ったように後ろ頭を掻いている。そのまま歩き出したディーノ様の数歩後ろを付いて行く。 「シフォンケーキを買って来てくださるような優しい兄を持って、私は幸せでございます。」 「何だよ、改まって。もしかして俺の兄貴としての価値ってシフォンケーキなのか?!そうなのか?……また買って来る。」 複雑そうな顔をしながらも兄と呼ばれたことが嬉しいのか満更でもない様子だ。でもついさっき私はこのお屋敷を出ると決めてしまった。誤魔化したとはいえ婚約者の居るディーノ様に使用人が想いを告げるなど大罪だ。それでも言っておきたかった。ケジメという潔い考えではなく、ディーノ様と私の居場所に他人が入って来て汚れない内に自分の欲を優先した。このまま一緒に居ればこの罪はいつか、きっと、自分でも制御できなくなる。これから一緒に食べるシフォンケーキが最後の思い出。 (さようなら、ディーノ。) |