あたしの好きな人には、好きな人がいる。
 それはずうっと昔から知ってた。だからあたしは、自分がこの人が好きだと気付いた瞬間に、その恋を失うことになった。でも、それを悲しいとは不思議とあまり思わない。だって、一番最初の、たった一つの恋が手のひらから零してしまったのは、その人も同じなんだから。

 赤司家の総本家は、名だたる寺院にも劣らない佇まいと落ち着きをたたえている。飛び石のように幾つも離れがあって、あたしは分家筋だけが集まる総会に顔を出させられていた。長くて、無駄な会議。学校の生徒会よりも無為だ、とあたしは思った。
 浅く流紋を描かれた白い玉砂利に、丸い植木と黒い奇岩が浮かべられている。
 その庭の向こう側、分家の会議と時間を重ねて開かれていたのだろう、本家筋の総会に出席していた人影がぞろぞろと連なっていた。
 あたしはその影の群れを、廊下の端に体を寄せて、軽く頭を下げて見送った。見咎められたら、また変な縁談を持って来られかねない。騒々しい足音が過ぎ去ったあと、あたしは縁側を急いだ。
 最も広い大座敷に面した縁側には、ダークグレーのストライプの入った黒いスーツに身を包んだ男性の姿。去年まではどことなくくすんだ暗灰色の制服だったのに、今年は彼のしなやかな体にぴったりとした拘束具みたいな礼装であることに、あたしはがっかりした。
 あれを着ていると、本当に、冷たく見えるから。
 あたしが声をかける前に振り向いた再従兄の赤い目が、優しげに細められた。
 赤司征十郎、それが兄さんの名前。お互い一人っ子で、何となく兄妹みたいに接していた。一族内での立場は全然違うんだけど、あたしの父さんと征兄さんの父さんも従兄弟で、やっぱりあたしと征兄さんみたいに本当の兄弟みたいに扱われていたみたい。
 あたし達以外の人気が途絶えた静かな庭園を眺めながら、あたしは兄さんに近づいた。
「征兄さん、長かったね」
「ああ、名前か」
 兄さんの問いかけにうん、と答えつつ、部屋の中に入って座布団を両手に一枚ずつ。それを縁側に投げると、征兄さんが苦笑を漏らした。房のついたふかふかの座布団を並べて、あたしと兄さんは並んで腰を下ろした。
「お前の方も、去年に比べれば随分長くなっただろう?」
「ん、そうかも。どうでもいいことなのに」
 どうでもいいこと。あたしは十六歳になった。
 この国で定められている、結婚出来る最低年齢。だからってすぐに結婚しなくちゃならないって訳でもないのに、大祖母様もお祖父様もこぞって縁談の釣書をあたしの前に積み重ねて来た。
 高校に入って一年も経ってない。
 結婚なんて、まだ早いよ。
 そうぼやくと征兄さんは、だろうね、と薄い瞼を伏せて目を隠してしまった。
 あたしは兄さんの宝石みたいな目が瞳が好きだったから、兄さんにこんな表情をさせる大祖母様達が心底憎くなった。
「僕達よりもご老人方の方が一生懸命なんて、よくある事だよ」
「……征兄さんも、二年前はあんなのだったの?」
 征兄さんはあたしの二つ年上だ。
 そしてあたしが今年結婚可能年齢になったのと同じように、兄さんも十八になったから結婚が出来るようになった。
「そうだよ。と言っても僕は本家筋の長男だからね。話自体は中学の時からあった」
 だから征兄さんはあの人と別れたのね。
 そんなこと言えるはずがなかった。
 頭の中にさっと過った面影。あたしは兄さんと同じ、帝光中学に通っていた。だから、あたしは征兄さんがどんな女の子と恋をしていたのか、知ってしまっている。
 そして、卒業の時に、その人とどんな風に別れたのかも。
 あの先輩は、洛山高校には進学しなかった。それが全て。
 綺麗な人だった。顔かたち、スタイルじゃない。肌の中からにじみ出るみたいな、ふんわりとした薔薇色の香りに、あたしはただ、心の中で咲きかけていた花を散らす事しか出来なかった。
 征兄さんなら、彼女の手を取ってこの場に連れて来れたんじゃないの。それとも、あの人が拒んだのかな。あたしなら、兄さんの手を離したりしないのに。
「名前」
 一瞬、息が詰まった。
「なに?」
 何を考えていたのか悟られたくなくて、素知らぬ振りで問い返す。すると、胸を貫くみたいな強い光が兄さんの目に宿っていた。息が出来ない。
「嫌だったら嫌だとはっきり言え。お前は序列も高くないし、本家の人間でもない。年寄り共の決めた婚姻に従う必要なんて無いんだよ」
「でも、征兄さんは逃げなかったじゃない」
 代わりにあの人の手を離した。
 赤司家に抗えないと恐れたからなのか、彼女をこのしがらみだらけの魔窟に迷い込ませたくなかったからなのか。それとも。
「それは……」
「あたし、好きな人がいたの」
 兄さんは何を言おうとしたんだろう。でも、それはあたしが聞くべきじゃないもののように思った。だから声を被せて隠した。
 自分の声で征兄さんを封じ込めるなんて、初めてだった。
「だから、その人と結ばれないのなら、誰と結婚したって同じよ」
 赤司家の序列の中では、征兄さんには指先でも触れられないほどにあたしは低い。ただ年が近くて、帝光中を浮けるからっていうそれだけで、あたしは征兄さんに声をかけてもらったにすぎない。
 結婚なんて、夢見る資格すらないんだから。
 でも、兄さんはあたしの肩を掴んで、ぎゅっと力を込めた。その痛みと手のひらの熱さに、涙が出そうになる。
「これからもっと大切に思える人が出来るかもしれないだろう」
「征兄さんがそんな風に言うなんてね」
 絶対的な勝利を求める、赤司家の後継とは思えない言様に、あたしは唇を歪めた。だって、征兄さんにだけはそんな風に言って欲しくなかった。
「ねぇ、その眼には、本当にそう見えてるの? あたしが好きになれる人、映ってる?」
 征兄さんにだけは、見えない。
 見えないはずなんだ。あたしが一番好きな人は、征兄さんが覗き込む鏡の中にしか存在しない。太ももを包む、プリーツスカートを握りしめた。ざらついた生地が手のひらにぎゅっと食い込む。
「…………ああ、見えているよ」
 肩を掴んでいた手に、くしゃりと頭を撫でられた。総会の為に整えた髪が目の前に一房滑り落ちる。それが、潤むあたしの目を隠してくれた。
 黒い紗のカーテン越しに、征兄さんの冬の湖みたいな瞳が煌めく。
「名前、お前が赤司家のくびきから逃れて、どことも知れない場所で、僕の知らない男と幸せに笑っている未来が」
 それは、きっと貴方ではないんでしょうね。
 だなんて、お芝居の台詞みたいに、あたしの中のあたしが囁いた。征兄さんは、あたしの気持ちを知っているんだと思う。どうしてあたしはこの家に生まれてしまったんだろう。何も知らないで、赤司家から離れて生きていれば、きっと、こんなにも好きな人と出会う事はなかったのに。
「そう。そうかも」
 震える声を冷えた空気ごと飲み込んで、無理矢理唇を歪めて笑みを作った。
「征兄さんがそう言うのなら、そうなるのかもね」
 未来を見通す紅い竜眼。
 絶対だけを口にする生まれながらの王者。
「少なくとも、僕は望んでいるよ。お前の幸せな未来をね」
 優しい手つきがあたしの心と髪の毛をかき乱す。
 あの人に寄せた恋を、あたしにうつしてくれたなら、二人とも幸せになれるのに。
 あたしの目の中に映っていただろう、あたしが一番好きな人。その熱がほろりと目尻から零れて、スカートの上に小さく滲んだ。