気づくと私は不可思議な道を歩いていた。幅は人が二人すれ違うのがぎりぎりなほどしかなく、横は何も見えない闇に囲まれている。そんな道を落ちないようにそろそろと進む。そんな中、急に体を貫いた痛みが私の意識を支配した。
 その痛みしか感じることができず、しゃがむことでそれを抑えようとした瞬間だった。
 私の足は何もない場所に踏み出された。
 あっと思った時はすでに遅く。私はずっと、ずっと、あるかわからない底へと、墜ちてゆく。銀の髪がたなびくのが見えた気がした。

 「名前」

 誰かが私の名前をそっと、呼ぶのが聞こえる。
 誰かはわからないけれど、きっと、そう。誰よりも大切な人。

 「名前」

 それは涙を流し、何かを抱えている黒髪の男性だった。
 彼の身体中に付着した赤は、奇妙なほど色鮮やかに私の目に映って見えた。鮮明なその色はどこか不気味で、私が感じている痛みと何か関わりがあるように思えた。
 そこで私の夢は途切れた。けれど、黒髪の男は私の頭から離れないのだ。真っ直ぐに据えた視線から目をそらせず、ただただその吸い込まれそうな瞳を見つめていた、ということ。私はそんな儚い情景を思い返した。ただの夢だとは思えなかったのである。

 目を開く。頭上に広がる真っ白な天井を見上げながら、私は思った。
 −−彼は、誰だろうか…?
 見たことがないとは言い切れないようなそんなこそばゆい感覚。どこか納得できないという、ぼんやりとした思考で、私は廊下を歩く看護師さんを見つめた。


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 「元気でやっているか?」

 度々、私の病室に訪れる彼。名前は何と言っただろうか。少し思案し、浮かび上がった名前をそろりと呼んだ。

 「秀一、さん。…元気ですよ」
 「そうか、そりゃよかった」

 赤井秀一。
 最近教えて貰った、彼の名前だ。
 自分からそう名乗ったのだから、それが彼の名前なのだろう。わざわざ他人の名前を名乗る必要性は感じられない。

 「名前、」

 そして、時々この彼は、私の名前を呼びながら辛そうな顔をする。
そんな彼の表情を見ると、私も何故だか胸が苦しくなる。

 「………いや、なんでもない」

 いつも、こうなのだ。彼はいつも私のところに来て、切なそうな声で私の名前を呼ぶ。
 −−けれど、彼はいったい誰なんだろう?

 「秀一さん…」
 「ん?」

 名前だけしか知らない彼と私は恋人同士だったらしい。しかし、私が付き合っていた気がするのは、銀髪の男性だった気がするのだ。

 「秀一さんは優しいんですね……」

 私がそういうと、彼は驚いた顔をした。そして、暫しの沈黙が部屋を埋めた。

 「……思い出させてくれるなよ」

苦笑いしながら、今にも泣きそうな表情をしてから彼は私に背をむけた。

 「あんた…一昨年もそんなこと言ってたんだよ」
 「………」
 「……悪い、分からないよな」

 俯いていて彼の顔は見えなかったが、声が震えていてどのような表情をしているのか推測することは出来た。

 「…あの時、俺がいれば、こんなことにはならなかったのにな」
 「しゅ、ういちさ……「すまない。今日はもう帰ることにするよ」

 背中を向けてしまった彼に声をかけるも秀一さんは振り向かずに帰ってしまった。白い部屋に取り残される。ぼんやりと窓の外を眺めるのも良かったけれど、それも飽きて来ていたので寝ることにした。


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 また、夢を見た。
 今度は暗い部屋にもう一人の私と、男が座っている。男は銀の長い髪で、私に話しかけている。それに答える私の顔は甘いような、冷たいような良く分からない顔をしていた。その様子をぼんやりと見ていると突然私は彼を突き飛ばして部屋を出て行ったのだ。そして、男の方は銃、おそらくライフルだろう、を持って私を追うように部屋を出て行った。
 ……恋人同士では無かったのか。あまりにも不可解な状況に私の頭は動きを止め、彼らを追うべきか悩み、そして……急に襲って来た頭の痛みに気を失った。


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 「………ここ、は?」

 目を開けたら目の前に映った天井が黒くなっていた。私は病院にいたのではなかったのか。ここはどこなのか、どういうことなのか。浮かんだ全ての疑問のうち、口から出たのは一つだけ、ここがどこなのか、ということだけであった。

 「目を、覚ましたか。よかった」
 「秀一さん」
 「名前、どうかしたのか」
 「……ここは、どこですか」

 私の問いに秀一さんは少し困った顔をして、言った。

 「ここは、俺が今借りている部屋だ。あんたを殺そうとした人間からかくまっている。病院じゃ、少々立場が悪かった」
 「そう、ですか……じゃあ、あれは」
 「あれ?………良かったら、話してくれないか」

 私が漏らした言葉に秀一さんは異常なほどに反応した。しかし、私の話は記憶が戻ったとか、そういう話ではなくて、ただの夢だ
。いや、ただの、ではないかもしれない。あれだけ不安になる夢はなかなか見ないから。

 「くだらないかもしれませんけど…」
 「いい。話してくれ」
 「暗い部屋に、私と銀髪の男性が二人きりでいるんです。男性が私に何かを言って、私が男性を突き飛ばして逃げた、そんな夢だったんです……」
 「そうか…分かった。此方でも調べてみよう。何か、名前の記憶を取り戻す手助けになるかもしれないからね」
 「はい、、、ありがとうございます」

 連絡を入れてくると言って秀一さんは部屋の外に出て行った。一人で残された私は夢を思い返していた。私は、あの男の人を何と呼んでいたのだろうか、あの人と私は付き合っていたのだろうか。でも、そうしたら秀一さんが言ったことは嘘になる。……………ぐるぐると情報が混じり合う脳内から必死に記憶の糸を手繰る。

 「………ライ、とジン……?」

 私の呟きと重なって何かが解ける音が聞こえた気がした。


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 どうやら、私はまた寝てしまったようだ。風景をみると最初に見たのと同じ道を走っているようだということが分かった。
 そろり、と後ろを振り返ると銀の長い髪を持った男の人がライフルをこちらへ向けて構えているのが見えた。恐怖で足が止まりそうになるのを無理に動かして、掛ける。走って、走って………私は埠頭の先端らしき場所についた。もう、逃げる場所がない。絶望に満たされる。

 「残念だったなァ……もう逃げ場はないぜ」

 獲物を追い詰める肉食獣のような緑の目が見えた。……秀一さんと同じ色の、瞳。それに睨まれ、動けなくなる。

 「ジン………」
 「なんだ。覚悟は決めたか?」
 「……2年間、私があなたからもらっていたものは、愛情?」
 「…………さぁな。もう話は終わりか?ライには逃げられたが、お前を殺せばFBIは痛手を負うだろうからな…………あばよ、シャルトリューズ」

 撃たれるのだと分かった。私は、この状況を、知 っ て い る。
そう思うのと同時に焼けるような痛みが身体に走り、私は崩れ落ち、そこで意識はフェードアウトしたのだった。

 あまりにもあっけない夢の終わりと、記憶の復活だった。取り戻したものは私の空白の全てだった。自分がおかれている状況を理解出来た私は秀一に会いに行こうとそっとベッドから降りる。

 「……くっ」

 痛みが駆け抜け、私は床に膝をついた。その音を不思議に思ったのだろう、ドアが不意に開いて秀一が顔をのぞかせた。私が床に崩れそうになっているのを見て、それを支えようとしたのだろう、しゃがむと手をこちらへ伸ばしてきた。

 「どうした、大丈夫か」
 「……秀一は優しいわね」
 「……!名前……戻ったのか!?」
 「えぇ……さっきね……っ!」

 私の声に秀一は辛そうな顔をする。それを見て私は心が痛むのが分かった。あの時、撃たれる少し前まで、私は確かにジンに恋していたのだ。あの日、私が答えをミスるまで優しくしてくれていた、彼に。そう、秀一が宮野さんを愛していたのと同じように。
 でも、私は、ジンの申し出にはどうしても応えられなかった。私の心の一番奥には目の前の人がずっと居るのだから。それを、私の態度から見抜いたジンは私がFBIの人間であったライの関係者、だと気づいたのだろう。
 痛みに耐えられなくなり、秀一に体をもたれる。そっと背中に回された腕に懐かしさを感じて、抱きついた。潜入前に付き合っていた時はこんな関係ではなかった。付き合っているとはいえ、こんな甘ったるい事をするような二人ではなかった。これが、組織に潜入した代償か、とふとそんな事を思った。
 でも、こんなのも悪くはない。私が記憶を失って居る間の秀一の作られた優しさも、好きだった。確かに、秀一に恋をしていたのだから。そんな、昔の私が見たら鼻で笑うような事を考えながら目を閉じる。
 今度は夢を見るような感じはせず、ただ感覚が遮断されて行くのを感じた。それで恐らくもう夢を見る事はないのだ、と分かり私は少し安心しながら意識を飛ばした。

−−名前
−−シャルトリューズ

暗闇の中、私の名前を呼ぶ二つの声が聞こえた気がした。