実は俺達は、とっくの昔に出会っていた。
 まだ名前は小さな小さな少女で、俺は「お兄さん」と呼んで貰うくらいに若かった。ただ、今ほど愛想がよくなかったものだから、名前を呼んで貰うことは無かった気がする。
 あどけなくて真っ直ぐで、暖かいあの頃のまま、彼女は成長してくれていた。
 まさか10年もしてから鉢合わせることになるとは思わなかったけれど――。


「おっきくなったわねぇ……」
「まだ言いますか、レイヴンさん」


 何度目になるか判らない俺の呟きに、名前は苦笑した。
 テーブルを挟んで向き合い、言葉を交わす。普段の戦いとはかけ離れた、穏やかな時間だ。「生きてるって良いわねぇ」呟く言葉を変えてみたが、やはり名前は苦笑するばかりだった。
 目の前の乙女はまだ大人と言うには可愛らしく、少女と形容するには色気がある。


「名前ちゃんがこんな立派に成長した姿を見ることができて、おっさんは本当に幸せよ」
「お父さんじゃないんですから。それに私だってもう子供じゃないんですよ」


 少しばかり拗ねたように呟き、名前は紅茶を啜った。


「子供扱いは勘弁してください、お兄さん」
「やだもー名前ちゃんったら! お兄さんだなんて! もうおっさんだから俺!」
「まだ大丈夫、お兄さんでいけますって」
「若い子におだてられると調子乗りたくなるわね」
「ほどほどに乗ってください」


 ふわりとした言葉が逆に大人っぽく思える。昔、無邪気に笑って駆け寄ってくれた頃とは全く違う雰囲気だ。けれど根本的なところは何も変わらない。名前の深い情は、隠れることなく眼差しに染みていた。
 こういうのも悪くはない。


「うーん、おっさんがあと10年若かったらねぇ。乗りに乗ってたんだけれど」
「男は30代から本番ですよ、レイヴンさん。今からだって大丈夫ですって」
「どんだけ乗せたいの、名前ちゃんったら!」


 彼女が全て本音であることは判っている。伊達に彼女を見ているわけじゃあないのだ。知っていながらこんなに軽い調子の俺を、名前はやっぱり真っ直ぐに受け止めて笑ってみせる。


「あの頃より、レイヴンさんがレイヴンさんらしくって好きなの」


 勿体無いぐらいの愛情だ。
 流石に気恥ずかしくなって口ごもる俺に、名前は笑ったまま続ける。


「印象変わってて最初はびっくりしたけど、今は事情も全部知ったし、だからつい、口が滑っちゃうみたいです」
「そ、そっかぁ……」
「はい。何だかすいません」


 あまり申し訳無さを感じさせない謝罪だった。多分俺は今、柄にもなく赤面している。表情や体裁を繕うことが大得意なはずなのに。一回り以上も下の女の子にしてやられているのだ。
 男は女に口では勝てない――とは、やはり真実だったのか。
 とりあえず温くなったコーヒーを飲み干し、次の句を考える。このままやられっぱなしも男が廃るというものだ。


「俺様もね、気兼ねなく名前ちゃんとこうして話せるのは嬉しいよ」
「本当に?」
「うん、本当に。おっさんも名前ちゃん好きだからねぇ」


 さらりと返す。今度は名前が赤面する番だった。その内にある純真さが、恥ずかしがりながらも大層嬉しそうな笑顔となって俺に向けられる。


「ありがとう、レイヴンさん」
「それはこっちの台詞。まるで娘を持ったような幸せな気分にさせて貰ってるからね」


 そう、本当に娘のように思っていた。――少し前までは。
 一緒にいるうちに、あの頃を思い出すうちに、今の彼女と接するうちに。感情は確かなものに変わっていたのだ。
 にこにこと笑い返しながら俺は、嘘を吐いてみる。


「名前ちゃん、良い人見つけて幸せになるのよ?」


 輝く彼女の瞳は、真っ直ぐに俺を見つめていた。そして、ほんのり赤いままの顔で、しっかりと頷く。


「良い人なら、もう見つけてるから大丈夫です」
「あらま。いつの間に」
「ずっと前から、何年も前から決めてましたから」
「えっ!? 名前ちゃんったら一途なのねぇ〜」
「はい。一途ですよ」


 名前はわざとらしく驚く俺に、わざとらしく尋ねてみせた。


「一途なの、レイヴンさんが一番判ってくれてるでしょう?」


 ――ああ、判ってる。
 けれど俺は頷きそうになるのを堪えた。通じあっているのは気付いているけれど、まだ答える時じゃなかった。俺達にはやることがまだあったし、俺自身、もう少し覚悟を決める時間が必要だった。
 何時もの調子で惚けながら、俺は肩を竦める。俺のこの反応さえ判りきっていたのか、名前は「やっぱり」と笑う。


「全部片付いたら、またこうしてお話してくださいね」
「じゃあその時は名前ちゃんの本命教えてくれる? おっさんくらいの良い男じゃなかったらお嫁になんてやれないわ」
「だからお父さんじゃないんですから……。それに安心してください」


 テーブルに投げ出していた俺の手に、名前の手が触れる。仄かな体温が染みてくるようだ。


「ご希望通り、とびっきりの良い男です。少なくとも私にとってはね」


 優しく両手を包まれて、体が熱を持ってしまった。
 無垢な少女から一人の女性となった彼女に、俺の心はどうしようもなく傾いているらしい。


「レイヴンさん、顔赤いね?」


 からかうような声音に、負け惜しみのように俺は返す。


「……俺様、最近風邪気味なの。熱でもあるのかしらね」


 我ながら、つたない嘘だった。
 たまらず笑い出す名前の姿を、俺はぼんやりと眺めていたのだった。