※大人設定





月明かりが街を照らす午前1時。

ベッドへ入ったのはもう随分前だけど、なんだか眠れなかったわたしは窓際に座って外を見ていた。

ひと気のない路地。
街灯の明かりがグレーの道路に規則的なオレンジを散らしている。

なんとなくそのオレンジの線を目で追っていると、後ろのベッドからごそりと衣擦れの音が聞こえた。
起きてしまったのかと思い静かに振り向くとまだ仙道は眠っていて、どうやら寝返りをうっただけのようだ。

別にやましいことをしているわけではないのに、なぜかほっとした自分に驚く。

やはりわたしは怖いのかもしれない。


一緒に住むと決めたとき、ふたりで選んだ優しいブラウンのダブルベッド。
それにかかったシーツの白い海にひとり眠る仙道はどこか寂しそうに見える。
かといってもう一度隣に戻ってもわたしはきっと眠れないのだろう。

足元にひとつ、溜め息が落ちた。

いくら空の月を眺めても、街灯のオレンジを数えても、いっこうに目は冴えたまま、とても眠れそうにない。
だけどそんな憂鬱な気持ちの片隅で、いつまでもこの夜が続けばいいと思ってしまうのは、今日が最後の夜だからだろうか?


今日で最後。

改めて思うと胸が苦しくなる。

ベッドサイドに座り、彼の顔を覗き込んだ。


「彰…」


呼び慣れない彼の名前を小さく呟いてみても、彼は身動ぎひとつしない。
完全に眠っているようだ。

長い睫毛、さらさらとした黒髪、少し薄めの唇を緩ませているのはいったいどんな夢なのだろう。



高校時代から校内、校外、全国の女の子の憧れだった彼。
そのたくさんの女の子のなかのひとりだったわたしが、こうして彼の隣にいることができたのはきっと奇跡だ。

想いが届いたあの日が今でも鮮明に思い出される。



「あのね、わたし仙道のことが……好き、なの…」

「………」

「ごめん、迷惑だよねこんなの…」

「や、そうじゃなくて。……ごめん、喋るとにやけそう……」

「……?」

「…俺も好きだよ、名前」



それからいくつもの甘い季節を過ごし、信じられないくらいたくさんの幸せをもらった。

初めてのデート。
初めてのキス。
初めてひとつになったときは幸せすぎて、思わず泣いてしまったのだっけ。



「名前、泣いてるの?ごめん、痛かったよな」

「……ち、がうの…。仙道とこうなれたことが、嬉しくて……」

「あー、もう……。止まらなくなるから、そんな可愛いこと言うなよ」



そんなに昔のことではないのに、ひどく懐かしく感じられる。

あの頃のわたしには目先の幸せが全てで、何年か先の近い未来にこんなことが起こるなんて思ってもみなかった。

こんな最後の夜が来るなんて、思ってもみなかった。


「仙道…」


もう一度、今度は呼び慣れた名前を呟く。

この夜が終わったら、こんな風に彼の名前を呼ぶこともできなくなるのだろう。
だったら今夜だけはこの名前で呼びたい。



二年前の春に同棲を始めてからもわたしたちの仲は変わらずに、毎日が充実していた。

仕事が忙しい仙道とは時々けんかもしたけれど、そのたびに仲直りして、そのたびに愛を深めあって。

幸せだった。
幸せすぎて、おかしくなりそうなくらい。



「仙道、今日も帰り遅いの?」

「…ごめん、たぶん10時過ぎると思う」

「……いいよ別に」

「ごめん…、いってきます」


――――……


「ただいま」

「仙道?…まだ9時前だよ、どうしたのこんな早く…」

「一日集中して、全部片付けてきた。だってほら、今日は名前の誕生日だろ?」

「……ばか」

「誕生日おめでとう」

「……ありがとう」



平凡で、楽しい毎日に変化が起きたのが三ヶ月前。

いつも通りの水曜日で、仙道より早く帰宅したわたしは夕食の準備のためにキッチンに立っていた。

仕事から帰ってきた仙道は着替えを終えてリビングやって来ると同時に、わたしを呼ぶ。
なに、と頭にはてなマークを浮かべるわたしを隣に座らせた仙道は、真面目な顔をしていた。
いつものへらりとした笑顔はどこにいったのか、すごく真剣な眼差しだった。



「名前、来月記念日だよな」

「そうだけど、突然どうしたの?」

「いや…。長いよな8年って……」

「…そうだね」

「……なぁ、同棲、やめない?」



最後は突然やってきた。

仙道が声を震わせながら、はっきりと言った言葉は今もわたしの胸に残っている。


いつもはそんなことしないのに、遠慮がちに握られた指先。
心なしか彼の手は汗ばんでいた。

一度長い睫毛に縁取られた目をふせて、次に開けたときにはわたしの瞳をじっと覗き込む。

ちょっと不安げで、どこか泣きそうな視線を向けた仙道はゆっくりと口を開いた。



「結婚、してくれないか?」




俺でいいのかわからないけど、なんて小さく付け足した可愛い彼。

俺でいいか、なんて、決まっているでしょう?
仙道がいいんだよ。
仙道じゃなきゃだめなんだよ。

そう伝えたいのになぜか言葉にならなくて、嬉しさと愛しさと不思議な切なさに押し潰されそうなわたしができたのは、思いきり仙道の胸に飛び込むことだけだった。



それからふたりでお互いの両親に会いに行ったり、指輪を見に行ったりと、初めてのことにあたふたしながらも楽しく準備を進めてきたこの三ヶ月。

そして気づけば今日で最後。

式こそ挙げないものの、明日ふたりで市役所に行くことになっている。

先週もらってきた婚姻届にはいつもより丁寧な仙道の字といつもより震えたわたしの字が並んでいて、今それはリビングのテーブルの上でおとなしく朝を待っていることだろう。


朝がくれば、わたしは仙道の彼女でなくなる。

ふたりで過ごすこの空間が同棲でなくなる。
わたしは仙道のことを仙道と呼べなくなる。
そしてわたしは名字名前でなくなる。

色んなものをなくして、わたしは彰との未来を手に入れる。


不安がないわけではない。

わたしは仙道がいいけど、仙道にわたしでいいのかわからなくてなんだか怖い。
わたしのせいで彼の人生が潰れてしまったら……、もしかしたらそんなくだらない恐れに苛まれてわたしはこの眠れない夜を過ごしているのかもしれない。


――カチリ


壁に掛かった時計の長針が12を指し、時刻は2時になっていた。
もう一時間以上もこうしていたことになる。
いい加減そろそろ眠らないと、明日寝坊なんてしたら格好がつかないではないか。

ゆっくりと立ち上がりもうすっかり冷えてしまったシーツへと向かった。


毛布をめくりあげたとき、不意に隣から延びてきた手がわたしを引きずり込む。


「…やっと、寝る気になったの?」

「起きてたの?」


うん、と頷いて仙道はわたしを抱き締めた。


「名前が隣にいないと寂しくて自然と目が覚めちゃうんだよ。それに、あんなに切なげに名前呼ばれたら、ね」

「…なにそれ」


聞こえていたのか。

途端になんだか恥ずかしくなって、体は彼に委ねたまま顔を背けた。

仙道の腕の中は落ち着く。
残りの人生をこの狭い世界で過ごしてもいいなんて、馬鹿なことを考えてしまうくらいに。

それでも今はやはりもやもやしてしまって、感情に任せて額を広い胸に押し付けた。


「……どうした?」

「どうもしないけど、……なんだか怖くて」

「もしかしてマリッジブルーってやつ?」


楽しそうに笑う彼に、なんだか泣きそうになる。


「…そうかも」


ふうんと気のない相槌が聞こえて、二人の間に少しの隙間ができた。
数十センチ上で緩く弧を描いていた彼の唇がゆっくりとその隙間を縮めて、わたしの額に触れる。

柔らかくて、温かくて、心地いい、まるで春風みたいなキス。

春風はそのまま瞼、耳、頬、鼻先を吹き抜けて、わたしの顔を桜色に染めた。


「別に、そんなに改まって考えなくてもいいだろ。ただ一生想い合う約束を法的にするだけなんだから」


言葉に続いて、最後に春風はふわりと唇をくすぐる。


「名前は俺のことが好きで、俺も名前のことが好き。それの何に怖いことがあるの?」


真っ直ぐこちらを見つめる瞳に、心臓が一瞬止まった気がした。

あぁ、もう。
仙道彰とはなんてひとなんだろう。

その仕草で、視線で、言葉で、わたしのすべてを拐ってしまう。
見事に拐われていった不安は後ろ姿でさえもう見えなくて、わたしの心はただじんわりとした優しい温もりに覆われているだけだ。

その温もりの正体はきっと、愛しさという言葉では言いきれない愛しさ。

結婚とは、これを生涯持ち続ける約束なのか。

今のわたしたちにとって“一生”なんて途方もなく長いものに思えるけれど、この想いに身を委ねて生きていけばきっとあっという間なのだろう。


何が不安だったのか、何が怖かったのか、もうわからなくなっていた。

ただ、想いに身を委ねればいい。
ただ、仙道を愛し、仙道に愛され、ふたりで同じ未来を見つめればいい。


溢れる気持ちのまま自然に頬を緩ませると、仙道が左手でその頬を優しく撫でた。

微かに、先週までは感じられなかった固い感触がする。
わたしの指にあるよく似たそれは紛れもなく彼のものの対だ。

その事実が嬉しくて仙道の顔を見上げると視線がふわりと交わり、二人でくすりと笑みを溢す。


「…彰」

「……うん?」

「…ありがとう」


数秒間の沈黙の後、彼は照れたような顔をしながらさっきまでわたしの頬にあった指をわたしの左手に絡めてきた。
互いの薬指に光るそのお揃いの銀の輪は、まだ見ぬわたしたちの未来を綺麗に照らしてくれることだろう。
















ただ、貴方を愛するだけの約束


病める時も健やかなる時も
共に歩み共に笑い
死が二人を別つまで

貴方を愛することを誓います