この街は一年中綺麗だ。どこまでも続く海と、ほんの少しの陸。朝と昼と夜が世界の色を塗り替え、美しい感性が間違いなく生まれる場所。

彼が来てから、私のお気に入りの時間は短くなった。



サザナミタウンという名前に違わぬ細波の音が、沈みかけた太陽のオレンジ色を柔らかく包む。
「綺麗ですね…」
陽炎のように揺れて歪む水平線。水面には白の絵の具を落とした煌めきが踊っている。
返事がないということは、彼も同じように思っているということだ。
「不思議ですよね。昼間は、空も海も青いのに」
「……それは日光の射す角度によって、っ」
言いかけて彼は、しまったとでも言うように口を噤んだ。わざとらしく目を合わせると、気まずそうに顔を逸らした。
「…角度によって?」
強請るように訊ねれば、眉間に深い皺を寄せた彼は無言の抵抗を諦めたようで、徐に口を開いた。
「日光の射す角度によって、空気中や水中で散乱し可視化する光の色が異なるからだ」
「光の色。虹の、あれですか」
「赤橙黄緑青藍紫……その中でも日中、窒素や酸素など空気の生成物によって最も散乱するのは青色……であるからして、空は青い。日が傾くと、上手い具合に赤色や橙色、黄色も散乱する、故に夕空はこの色なのである」
彼の腕の中で開いたきりの本が、一陣の風に撫でられはらりと捲れる。
「緑色の空は?」
「条件が合えば、一面とまでは行かずとも有り得る。グリーンフラッシュという現象もその一例だ」
「あ、あの見たら幸せになれる、っていう」
「ただの迷信だろう。グリーンフラッシュなど、土地によっては比較的容易く見られるものである」
その眩しさから逃れるように、私は麦藁帽子を深く被り直す。
「藍色は、夜の空?」
「あれは光が届かぬだけだ。尤も、早朝に見られる紫紺という色は黒に近い、深い藍色を指しているようであるがな」
「じゃあ、紫は?」
「……紫色の定義は曖昧である。しかし科学的には、空にはほぼ現れないとされている」
じりじりと、端を水平線に削られる太陽。いよいよ濃くなったオレンジは、街を一色に染め上げていく。
「紫の光は地上へ届くには脆過ぎる。ほぼ全てが大気の外で消える。また別の一説には、青紫の光は人間には見えにくい、ともある」
ジワリジワリ夕陽の赤色が減っていき、目も開けられないようなオレンジ色が肌を焦がす。
「……紫色の空は、ない」
かなしいですね。すんでのところで、その言葉は暖かすぎる陽気に掻き消された。
「見てみたかったなぁ、紫の空」
背中には藍色の闇が迫る。あと少しで、太陽が消える。

「だが時に自然は、奇跡を起こす」

呟くようにそう言って、彼のしわくちゃの手が空を指した。
「………、わあ」
赤とオレンジと、青と藍の境界線。混ざり合った何色が、うっすらと確かな紫色をキャンバスに落としていった。
私が紫の空に見とれていると、少し誇らしげに、ちょっぴり嬉しそうに、ふん、という声がした。
「希少であるからこそ。紫は、美しいのである」



夕焼けが夜と融ける時。彼の好きな色が、泡沫の幻のように空を彩る時。
私が好きな時間はとても短い。










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