緤めいて咲う [しおりを挟む] 静。 その漢字一つがぴたりと当てはまる光景だった。海を飲み込んだ青い瞳。作り物のように白い肌。消えてしまいそうに繊細な灰の髪。色の抜けた薄い唇。一枚の白いシャツから伸びる細く長い手足。華奢なのに女性らしさのある柔らかな曲線。異様なまでに生活感のない真っ白な部屋。小さな窓から差し込む微かな光。わずかな隙間から入ってくる、風に揺らされたレースのカーテン。 簡素な椅子の上に生気なく座っていたその人は、外の世界をぼんやりと眺めていた。 キャットシッターの依頼が増え出したのは、俺が自ら足を運んで近所にチラシを投函しだした頃からだった。それまでは口コミのお陰で知り合い近辺がよく利用してくれていたが、流石にそろそろ手を広げなければと思ってやったことで。 それから数日後、メールで依頼が一つ入っていた。普通ならば鍵の受け渡しなど、打ち合わせを数日前に終えてからシッターに入るが、急用と飼い猫の体調不良が重なってしまいどうしてもと言われて、異例とも言える形で引き受けたのだ。せめて電話だけでも、とメールに添えてみたが、何故だか頑なに断られてしまった。怪しすぎる。 相手のことが、住所と猫を飼っていることくらいしかわからない。一抹の不安を抱きつつ、問題の当日になってしまったのだが。 依頼主の家に辿り着くと、そこは一室のアパート。住所が送られてきたときから、ここは見覚えがある場所だと思っていた。チラシを配った辺りだ。白を基調とした、シンプルで小洒落た外観。外国にありそうな建物といえばわかりやすいだろうか。昼間に注ぐ夏の強い陽射しを浴びながら、その白は一層輝きを放っている。 ここの家は猫を飼っていたのか。メールに書いてあった「鍵はポストにあります」という一文を思い出しながら、番号の付いた蓋を開ける。その中には封筒が一つ入っていて、上下に揺するとカサカサと音がした。それを開けると確かに鍵が入っている。他の誰かに盗られていなくて良かったと一先ず安堵。 殺されたりでもしたら、どうしようか。そんな風に考えたりもしたが、猫馬鹿な俺としては引き受けないわけにもいかなかった。季節も季節だし、体調の悪い猫を放っておくわけにはいかない。いざとなったら戦おう。一応男だし。そんなことをうだうだと心の中に吐き出しながら、扉の取っ手に触れた。 ……あ、鍵、開けてない。 一人で苦笑を零しつつ、今度こそはとポストから受け取った鍵を差し込んだ。カチャリ。やけにはっきりと聞こえた軽い音。煩いくらいに喚き散らしている蝉の声が、一瞬だけすっかり聞こえなくなった。まるで、別世界の扉を開けてしまったかのような、そんな音に聞こえた。 入ってみるとまず目に入ったのは、靴が一足も置かれていない、靴どころか本当に何もない玄関だった。 一人暮らしだったらこんなものか? そう思ってもやはり生活感が無さすぎて妙な気持ちになる。今は猫しかいないから当たり前なのだが、シンと静まり返った室内がその気持ちを増長させた。外の喧騒から切り離された室内は、四季がまったく感じられない。 とりあえず靴を脱いで室内へ。埃一つない綺麗な廊下。左右には何も飾られていない真っ白な壁。扉が奥に一つと、その途中に一つ。奥がリビングで、手前の扉は水回りだろうか。恐る恐る歩を進めながら耳を澄ます。物音は何もしない。拳に力を込めた。何かあったら、反撃してやる。 緊張と恐怖と不思議な高揚感に塗れながら、曇りガラスの付いたドアを開けた。静かに開かれた先では、窓から微かな光が差し込んでいて。 そして、その中には、一人の猫がいた。 壁際に寄せられた、木製の簡素な椅子。クッションどころか布の一枚も敷かれていないその上に片足を立てて、その人はぼんやり座っていた。目線は窓の向こう側。光に照らされて半透明に見える灰色の髪。絹糸のように繊細なそれを、細く綺麗な指で弄びながら。 そのうち、その人はゆったりと顔をこちらに向けてきた。深く、青い瞳。空の青よりも、深い海の底を連想させる濃く暗い青。灰色の髪に、青い瞳。ロシアンブルーを連想してしまったが、そこにいたのは紛れもなく人間の女性で。 一人の猫、ってなんだよ。 自分の中に浮かんでいた言葉を打ち消す。この人は紛れもなく人なのに。 でも、猫に見えたんだ。人間味がないというか、人ならざる何かを感じるというか。西洋絵画に描かれるような女性だと思った。儚くて神秘的で、美しいというよりも綺麗すぎる。本当に彼女は人の言葉を話すのだろうかと、この薄く赤みのない唇は会話を成せるのかと、そんな疑問を抱いてしまうほど。 「あ、飼い主さん、ですか」 こちらをじっと見つめている彼女は、俺の問いにゆるゆると首を振った。その動きすらもどこか現実離れしていて、白昼夢の真っ最中かと思わず疑った。一枚の写真が静かに動いているような、昔のフィルム映画を鑑賞しているような。喧騒が微かに開かれた窓の隙間からぼんやり聞こえるが、それすらも一つの効果音のように思える。とにかく、まるで今の時間にいる気がしない。別世界に迷い込んだようだ。この空間だけ、どこかに飛ばされている。 「あの、俺、キャットシッターで」 上手く言葉が出ない。この人は本当にここにいて、俺の言葉はこの人にちゃんと届いているのか疑わしくなったんだ。でも、彼女はちゃんと俺の瞳を深い海の向こう側から見つめている。赤みのない真っ白な小さい頬は、ぴくりと動くこともないまま。 「えっと、その、お世話をする猫ちゃんは、どこでしょうか」 俺の言葉に彼女はようやく頬を動かして、ゆるりと笑う。 「わたし、です」 「え?」 「猫は、わたしなんです」 柔らかい、軽やかな音だった。 どういうことだ。 彼女の言葉に笑うことも、冗談を返すこともできないまま、恐らくは数分が経った。もしかしたら数秒かもしれないが、俺にとってはそれだけ長い時間に感じられたということだ。 まさか、猫の化身? すぐ様馬鹿じゃないのかと自嘲する。そんなファンタジーみたいなことあってたまるか。いくらこの空間が現実離れしてるからって、有り得ない。でも、彼女の表情からは何も読み取れなくて、俺をおちょくって遊んでいるのかどうかもわからなかった。 「それは、どういう」 ほんの少し細められた瞳。夏だというのに異様なほど真っ白な肌と、すべてのパーツが胸を張って寸分狂わず正しい場所に位置している小さな顔。それが、こちらへまっすぐに向けられた。僅かに開かれた薄い唇が、音を発する。 「依頼をしたのは、わたしの伯母です」 静かな部屋にぴったりの、消え入りそうな声で。彼女は泣きそうな顔をしながら。 柔らかな肢体は音を立てることなく椅子から離れた。そのしなやかな動きは猫のようで。白いロングシャツの下からはショートパンツが覗き見えた。そこから伸びる綺麗な足にドギマギしつつも、少し安心する。いや待て、俺は何を考えているんだ。 夢見心地の気分は変わらないままで、彼女の動きを追う。風に遊ばれているカーテンを指先で捕まえて、そっと唇を落とした。その光景は、さながら優れた絵画。 「お話いたしましょう」 座ってください。彼女にすすめられるまま、真っ白なダイニングテーブルにセットされた、同じく真っ白な椅子に腰を下ろす。窓際のものとは違ってクッションが敷かれていた。俺の向かい側にやってきた彼女は、光の側から離れたおかげか幾分か人間らしく見える。 「わたしの両親は、幼い頃に事故で亡くなっています」 そう切り出した彼女の発する音一つ一つが、まるで小さな光となって、俺の中に吸い込まれてゆくようで。 「わたしの両親が亡くなる前に、伯母は一人娘を亡くしています。わたしにとっては従姉にあたる方です。そして、娘を亡くした喪失感から、伯母は猫を飼い始めました」 大きく息を吐く。どこか疲弊した様子の彼女は立ち上がってキッチンへ。「おかまいなく」と声をかけたが、彼女は首を横に振るだけ。 「紅茶でいいですか?」 「あ、はい」 ケトルに水を入れて火にかける。生活音を耳にして、夢から覚めたように意識がはっきりしていった。ここは俺が最初からいた世界で、どこか別の空間でも夢の中でもない。彼女は猫の化身ではなく普通の人間で、俺と会話をしてこうしてちゃんとこの世界に生きている。 妙に安心して、肩の力が抜けていく。当たり前のことをようやく把握できた。さっきまでの気分はなんだったのだろう。 近くでカチャカチャと陶器の音がしたかと思うと、彼女はティーカップやらなんやらを持って戻ってきた。青の瞳が俺を捉える。また一瞬だけ浮遊しかけて、彼女の目線が外れてからはっとした。そうだ、この人の持つ雰囲気がそうさせるのだ。俺を、この世界から切り離す。 「話を続けましょうか」 無駄のない動きを続けて、また白い椅子に戻る。白がよく似合う人だと思った。その中に溶けて消えてしまいそうなくらい、この人は白と仲が良い。 「伯母は、わたしを引き取ってくれました。彼女は、母の姉にあたります」 濃く澄んだ茶色に、ミルクを落とす。くるくると円を描いて入れられた白が彼女の手によって崩されていった。その中に角砂糖を二つ。自分の紅茶を飲むことすら忘れて、彼女の全てに魅入られてゆく自分がいた。 「この見た目からもわかるように、わたしは純血の日本人ではありません。わたしの父はイギリス人です」 淀みなく続く彼女の話。すると、じっと見つめられていることに戸惑いを覚えたのか、カップから視線を外した彼女が俺を見て苦笑した。 「どうぞ、飲んでください。妙なものは入れていませんから」 そうじゃない、そうじゃないんだ。確かに依頼の段階から怪しいし、猫がいると言われて来てみたのにそこにいたのは人間なんて、本当に俺は犯罪に巻き込まれるんじゃないか、何かされるんじゃないかと、そう思っても不思議ではないのだけど。 でも、ずっと見つめられていれば監視されている気分になってもおかしくはない。反省して、彼女をじっと見ないようにしながら紅茶に口を付けた。香り高い、上品な味がした。 「母方の祖父母はもう亡くなっています。父方の祖父母が引き取ろうかという話も出たそうですが、わたしが生まれも育ちも日本だったので……。何かとこっちの方が良いだろうと、伯母がわたしを引き取ってくれたのです」 もしかしたら、娘さんの代わりでもあったのかもしれませんね。 そう零した彼女の表情から悲哀は読み取れなかった。それどころか、穏やかな微笑みを浮かべていて。 「伯母と暮らしているうちに、わたしよりも先に伯母といた猫が息を引き取りました。わたしが来たとはいえ、少しでも娘さんの悲しみを和らげるために飼い始めた子です。伯母の哀しみは、深くて」 ところが、どうだ。その話を始めた途端、彼女の表情に影がさした。彼女に埋め込まれた青い海が揺れている。波を立てるようにして。 「そのうち、伯母の中で、わたしは猫になっていました」 彼女が無理に笑うと同時に、青い海は決壊して、大きな雫を落としていた。 「そんな、」 そんなことって。 彼女が涙を零し始めてから、数分後。思わず発しそうになった言葉を飲み込む。身内の悪口は、部外者が無闇に言っていいものじゃない。俺の様子に彼女は綺麗な笑みをつくって、それから止まることのない涙を拭った。真っ白な肌が摩擦でほんのり赤くなる。 「伯母にとって、猫は娘さんだったのでしょう。でも、わたしもたんと可愛がってもらいました。わたしは伯母が大好きです。だから、わたしは伯母の気が済むまで、猫を演じています」 最近元気がないから、と俺にキャットシッターを頼んだのは、その演技が疲れ始めてあまり話さなくなったからだろうと彼女は言う。会話もするし、ご飯もちゃんと人間のものをもらうらしい。でも、外出はできないし、伯母がいるところでの人間らしい行動も控えているという。伯母の中で、自分は「猫の化身」なのだと彼女は言った。 「長話をしてしまいましたね」 彼女がすっかりぬるくなった紅茶に口をつけた。俺はずっとカップを握ったままで、持ち手が少し温まっている。何も混ぜていない澄んだ茶に目線を落とした。 彼女は人間だ。それなのに、ずっとこんな生活を続けていくのか。伯母の目が醒めるのがいつかなんてわからない、もしかしたらこの先永遠にこのままかもしれないのに。それでも、彼女は良いのか。 「でも、」 「あなたは、」 彼女が何かを言いかけるが、俺はその言葉を遮った。驚いたような彼女の瞳がこちらを向く。躊躇うことなく言葉を続けた。 「あなたは、一人の人間だ。何者の代わりでもない。あなたは、あなただ」 見開かれた瞳。さっきまで荒れていた海も、今は穏やかで。 「お、俺!」 唐突に恥ずかしくなって、そう切り出した。 小さな顔が傾いて、細く真っ白な首に筋が浮く。壊れてしまいそうなほどに繊細な人だ。硝子のように、いや、泡のように。 「俺は、ようたです。太陽を反対にして、陽太! あなたの、名前は?」 お互い名前も何も知らないのは事実だし、別におかしくはないだろう。タイミングは、少し変だけど。いまいち格好のつかない俺のそんな態度に、彼女は可愛らしく笑った。 「れいら。玲瓏の玲に、良好の良で。玲良です」 「玲良さん」 「はい」 最初の儚げな笑みとは違って、血の通った笑みだった。明るくて、女の子らしい。この世界にちゃんといる、地に足のついた笑みだ。 「俺と、逃げよう」 俺が勢いよく立ち上がった瞬間、二つのティーカップに入った紅茶がちゃぷんと波を立てた。 返事を聞くこともしなかった。ただ、手を伸ばせば彼女は握ってくれた。 必要な物は? と聞いても、ただ首を横に振るだけ。繋がれた手はひんやりと冷たくて、破けてしまいそうなほどに薄い。でも、彼女という存在が確かにここに在ることを教えてくれる手だった。頼りなくても、消えてしまいそうでも、彼女はここにいる。 靴を履いた彼女の手を再びしっかりと握って、走り出した。走って、走って、俺でもよくわからない場所へ行こうとした。彼女をあそこではない何処か遠くへ連れて行かなきゃいけないんだ。何処まで逃げよう、終わりはあるのか、どれだけ逃げれば彼女は解放されるのか。必死で走って、でも、彼女の体力がそう続くわけもなく。 だんだんと遅くなってゆくスピード。腕にかかってゆく彼女の頼りない重さ。走るのをやめて振り向いた。激しく上下する肩に思わず触れそうになって、慌てて手を引っ込める。なれなれしい、と自分を叱咤した。誤魔化すように彼女の顔を覗き込む。声をかけようとしたのに、出来なかった。 「どうしたんです、か」 こういうとき、どうすればいいのかわからない。 彼女はぼろぼろと大粒の涙を流していた。さっきとは比にならないくらいの量を、止め処なく。そんなに苦しかっただろうか、それとも恐くなってしまったのだろうか、伯母に対する後ろめたさからか? いろいろな考えが浮かんでは消えてゆく。 でも、彼女はおろおろしている俺に向かって、ただ首を横に振るだけだった。そのうち、彼女の体から力が抜けた。地面に座り込んでしまいそうになった華奢な体を腕で支えると、そのあまりの軽さに心臓が飛び跳ねる。この重さが、彼女のすべてだ。 「わたしは、やっと、」 呟くように小さな声。耳を寄せようとしたが、彼女が一人でしっかりと立とうとしたことを察して体を離した。自分の小さな手をじっと見つめている彼女。 一際大きな雫が、ぽたりとその上に落とされた。 「あそこから、出ることができた」 はっきりとそう言って、胸元に手を当てる。瞼を下ろして、彼女はゆっくり時間をかけながら、ひとつ、とても丁寧な深呼吸をした。 「陽太さん」 涙で濡れた瞳が、俺を射抜く。夕焼けの浮かぶ海面を思い出した。 「話には、続きがあったんです」 止まることのない涙を流し続けて、彼女は俺を見据えていた。 公園のベンチ。日陰になっているそこからは、子供たちが楽しそうに遊んでいる様子がよく見えた。 「まず、謝らなければならないことがあります」 青のペンキが剥げかかった木製のそれも、彼女が座ってしまえばアンティークな家具に見えてくるから不思議だ。 「あなたにキャットシッターの依頼をしたのは、わたしなんです」 「え、」 蝉の声が煩いくらいに俺の鼓膜を叩き続ける。子供達のはしゃぎ声、車のエンジン音、自転車が鳴らす軽やかなベル。 「わたし、なんです」 でも、彼女の声だけが、俺には浮かび上がって聞こえてきた。 「嘘をついたこと、お詫びします。キャットシッターの依頼をしたのは、伯母ではなく、他の誰でもない、わたしです」 何度も強調されて、ようやく飲み込んだ。でも、そうなるとすべてが食い違ってくる。一体どういうことなんだ? 彼女は弱々しく笑って、それから語り出した。俺にシッターの依頼をしたことや、食い違ってしまう箇所の真実を。 伯母がわたしを猫扱いするようになったことは本当です。でも、伯母はすぐに自分の異常に気がついた。そして、あの家を出て行ったのです。今では何処にいるのか、何をしているのか、……生きているのか。何もわかりません。私は一人取り残され、あの家で望みのない伯母の帰りを待っていました。あなたを見たのは、伯母がいなくなってからです。チラシを配っていたのでしょう? その帰り際、わたしの部屋の窓から見える位置で、あなたは野良猫と戯れていました。ポストを後で確認した時、チラシに顔写真が載っていたので、すぐにわかったのです。 ……あなたなら、連れ出してくれると、思った。外が、太陽の光が似合うあなたなら。 ドクドクと心臓が音を立てる。彼女が言うように、俺はこの手を引いてあの家を飛び出した。彼女はそれを望んでいたということだ。でも、伯母からはもう、解放されたはずなのに。それなのに、何故。 「猫は、家につくと言います」 凛と前を向いて、彼女がベンチから立ち上がる。日が傾き始めた空をバックにして、彼女は泣きそうな顔をして笑った。 「わたしは、あの家を離れることができなかった。伯母が帰ってくる気がして。あの家を離れたら、伯母との大切な思い出がすべて消えてしまう気がして」 風が吹いて、彼女の髪が広がった。光を反射する灰色。そのまま光に溶け込んでしまうような気がして、思わず細い腕に手を伸ばす。 「わたしは、本当に猫でした」 俺の焼けた褐色の手に、白い手を重ねて。 「でも、わたしは、あなたのおかげで、あの家を振り切ることができた」 何も言うことのできない俺から目線を外して、彼女はただ手の甲を撫でていた。力を込めてしまった掌を緩めて、その感覚に心を落ち着かせる。冷や汗で滲んだ手が、少しずつ元の渇きを取り戻していった。 「わたしは、もう、あの家から出ることができるんです」 しがらみから逃れて、彼女は自由になる。野良猫のように、どこへでも行ける。 嬉しいと全身で叫ぶような笑顔だった。可愛らしく、瑞々しく、生き生きとして。最初の表情とはまるで違う。きっと、彼女が持つ本来の表情に違いない。 「陽太さん」 俺の手をぎゅっと握りしめる。真剣な瞳がこちらを見つめていた。引き込まれそうだった。彼女の世界に、瞳に、空気に。 「わたしに、たくさんの世界を、見せてください」 暑い夏も吹き飛ばす爽やかな笑顔が、俺に向いていた。 「元気だった?」 ごろごろと気持ち良さそうに喉を鳴らす黒猫。警戒心のいっとう強いあいつを手懐けるなんて、彼女はなにか持っているんじゃないだろうか。 「陽太さん、マムがご飯変えてほしいって」 「残念でしたー、今回お願いされたご飯はこれだけです」 だって。ごめんね。 玲良ちゃんの綺麗な声を聞きながら、俺はその様子を眺めていた。心なしかマムがこちらを睨んでいる。俺に懐かないからって意地悪をしたわけじゃないぞ、お前が最近太り気味だからって飼い主様が指示を出したんだからな。 そう念を込めて見つめてみると、マムはぷいと顔を背けて玲良ちゃんにごろごろと再び擦り寄った。 あの家に住みながら、彼女は休学していたらしい大学に通い出している。どうやら今後はイギリスにいる祖父母が全面的に援助をしてくれるようで、金銭面での心配はしなくていいとのことだ。そして、彼女はいま、アルバイト代わりに俺の手伝いをしている。 「玲良ちゃん、そろそろお暇しよう」 「はい」 じゃあね、またね。 優しく声をかける玲良ちゃんに、マムはニャーと可愛らしく鳴いた。俺にもそんな声出したことないくせに。言っておくが、俺が一番最初にシッターをしたのはお前なんだぞ。 扉を開けると、まだ暑さの残る風が出迎えてくれた。夏がもうすぐ終わる。彼女とシッターを始めてから、二カ月以上は経っていた。 「陽太さん」 夕方のオレンジ。照らされる道路と、彼女が身に纏う清潔感のある白いブラウス。日に焼けない陶器のような肌。深い青に染まっている大きな瞳。ほんのり色づいた肌と、薄くルージュのついた桃色の唇。出会った頃に背中を覆っていた灰色の髪が、今では肩の上で切り揃えられていて。風で揺らされた髪が光を通してきらきらと輝く。 あの部屋にいた頃は、蕾のような笑みだった。閉じこもって、自分を遠ざけて、そして僅かな光にすがっていた。でも、今は違う。自分のすべてでたくさんの光を受け止めて、満開に咲っている。 しがらみを解き放ったのは彼女自身だ。俺はただのきっかけでしかなかった。彼女は、自らあの檻のような家から飛び出した。 「明日は、なにを見せてくれるんですか?」 彼女はもう、どこにでも行ける。 [ prev | index | next ] |