短編 | ナノ


 彼はわたしのお守りだ。

 やらなきゃいけないこと、やりたいこと、できなかったこと、まだ手をつけられないけれどいつかはやらなくちゃいけないこと。いろんなことがぐちゃぐちゃになって、苦しくなりながら気持ち悪くなりながら、泣くのをこらえながら家へ向かった。
 一人暮らしをしていたけれど今となっては恋人が一緒に住んでいて、狭いながらも小ぎれいにどうにかやっている家へ。
 夕飯作らないと。ここ数日うまく笑えていないことが申し訳なくて、今日は彼が好きなグラタンにしようと思ったんだ。材料だって揃えたし、レシピだって朝に読み返した。それなのに、もう今はそんな気力がどこかへ行ってしまっていた。
 見上げた先、三階の角部屋。電気が灯っていた。彼はもう家にいるらしい。今日はグラタンにしようと朝に言ったら、やったぁと子どものような笑みを浮かべてくれた。でも今は、なんだか会えない。会いづらい。

「ただいま」
 鍵を回した音で気付いたのか、ドアを開けたらすぐに彼の姿が目に入った。にこやかな笑顔だ、優しくて温かくてかわいらしい。いつもは心が柔らかくなるのに、今日は固いままだった、むしろどこか苛立ちすら感じる。ああもう能天気なんだから。そんな理不尽な怒り。
「おかえり」
 優しい声に涙腺がゆるむ。だめだ、今日はほんとうにだめ。一人じゃないと、だめな日だ。
 彼が家に来る前からこういうことがよくあった。もっと言えば実家暮らしのときから。だからこそ一人暮らしを始めたと言っても過言ではないのだ、わたしには一人の時間が必要だった。誰のことも気遣わずに済む、たった一人の、わたしだけの、自分勝手な時間が欲しかった。
「今日は、ごめん、寝るね」
 グラタンを作るはずだったのに。今日は笑顔で接するはずだったのに。最近聞いていない彼の愚痴を聞くはずだったのに。週末の予定を立てるはずだったのに。いろんな“だったのに”がわたしを責め立てて首を絞める。苦しくなった。一人だったら、この家にわたししかいなかったら、こんな思いもせずにすんだのに。
 さびしそうな、悲しそうな、どこか申し訳なさそうな彼が視界の端に映る。そんな顔しないでよ、もっと苦しくなるじゃない。なにも悪くないあなたに八つ当たりしているわたしが、どんどん惨めになるじゃない。

 同棲なんてするんじゃなかった。
 メイクを落として、服を着替えて、すぐ布団に潜った。お風呂は明日でいいや。今日くらいこんな日があったっていい、今日はもうだめな日なんだから。
 布団の中に一人でこもっていたい気分だった。彼と顔を合わせたくなかったのだ。彼に当たってしまうのも、悲しそうな顔を見るのも、それで自分を責めてしまうのも、理不尽に苛立ってしまうのも嫌だから。
 もういいや、どうでもいい。別れたいな。彼といると余裕のない自分が顕になるし、こんな風に苛立つ自分が嫌だし、なによりも優しくて穏やかな彼にわたしは合わないと思ってしまう。下手したら別れようなんて口走ってしまうんだ。なんて面倒な女なんだろう。
 可哀想だと思った。わたしと付き合って同棲までしてしまったばっかりに、きっと彼はわたしとの縁を切りづらくなってしまった。同棲する前はこんなんじゃなかったのにな、面倒な感情は一人のときに片付けて彼といるときにはにこにこしていられた。ある程度の距離感と一人の時間がわたしには必要だったんだ、それがなくなってしまったから彼との関係は破綻しかけている。
 最低だと思った。なにも悪くない人に当たり散らして、自分勝手に布団に閉じこもる。明確になにか嫌なことがあったわけでもないのだ、あやふやな負の感情でいっぱいいっぱいになってしまう。もういい歳なのに。大人なのに。感情のコントロールができないなんて情けなかった、恥ずかしかった。
 こんなわたしに愛想を尽かして、さすがの彼も明日にはこの家からいなくなっているかもしれない。それならそれでいいな、もっと穏やかで可愛らしい女の子のほうが彼には合うだろうから。こんなわたしじゃきっと結婚なんてできない。一応結婚を前提にした同棲だった。でも、ここ数日ではっきりわかっただろう、わたしとの結婚は難しいって。籍を入れた後に判明していないだけ許してくれないだろうか、ラッキーだったと思ってくれないだろうか。
 涙がこみ上げてきて膝を抱えた。布団の中で丸くなると安心する。すべてを包まれたようで落ち着くのだ。
 彼のことを考えるのはやめよう、惨めになるから。他のこと、他のことと思っても、彼とのことを考えないようにした途端に会社のことで頭の中がいっぱいになる。こわい、苦しい、つらい、無理だよ、わたしにはできないよ。焦燥感と自己嫌悪と不安で押し潰されそうだ。夜は嫌い、大嫌い。嫌な感情が膨れ上がっていくから。
「あきちゃん」
 ノックの後に寝室のドアが開いた。彼の優しい声が部屋に飛び込む。ベッドの出入口に近いほうに彼は腰を下ろした。振動が伝わると同時に心臓の音がうるさくなる。
 どうしよう、寝たふりをしようかな。全然眠れなかったから一人で思わず泣いてしまったし、声を出したら泣いていたことがバレてしまう。
 どうすればいいのかわからなくて、とりあえず黙っていようと口を固く閉ざす。黙っていたら諦めて出て行くかもしれない。
「きっと起きてるよね。聞いてくれればそれでいいから」
 丸まった背中を優しく撫でられる。その手つきがあまりにも優しくて肩が震えた。惨めだ、こんなわたしにでも優しくできる彼に比べてわたしときたら、なんと器の小さい。
「同棲したこと、後悔してる?」
 目と口を固く閉じていたのに、思わず瞼を上げた。彼にはこういうところがある。わたしがなにも言っていないのに、いつのまにか察してしまうところ。わたしはそんなにわかりやすいのかなと不思議になるくらい。
「俺はね、してないよ」
 彼はどんな顔をしているのだろう。声は、手つきは、ひどく優しくて心が痛むほど。ここ数日あんなにも不機嫌で無愛想だったわたしを、それでも彼はすきでいてくれてるのだろうか。
「ひとりは楽だし、感情の処理は早くなるかもしれない」
 こんなところまで言い当ててしまう彼には敵わない。悔しいと思った。わたしは自分のことでいっぱいいっぱいなのに、わたしの気持ちまでこんなに考えられる彼の余裕が羨ましい。
「でも、俺はあきちゃんをひとりにしたくないや」
 優しさは時として凶器だ。今は彼の優しさが苦しいし眩しいし、妬ましい。彼にわたしは相応しくないとなんども思った。こんな女と付き合わなければ彼はもっといい人生を歩めたかもしれない。
「ひとりで歩くのはつまらないし疲れちゃうでしょ。でも、俺と話しながらとか、俺が手を引きながらとか、そうしたらきっとまだ楽しいしつらくないよね」
 確かにそうだけど、と思った。ダイエットでのウォーキングは楽しくないのに、彼とのお散歩は何時間でも楽しい。ああそうだ、今週末にはまたあの公園に行こうよと言いたかったんだ。暖かくなってきたし、ピクニック気分で行こうよって。
「生きていくのも同じだよ。ひとりは楽かもしれないけど、いつかきっと疲れちゃうから」
 彼の手がわたしの背中をぽん、ぽんと一定のリズムで叩く。後ろに感じる彼の温度は優しくて切ない。
「あきちゃん、俺と一緒に生きてみませんか」
 布団からわずかに出ていた頭に手が移る。ヘアスタイルを悩んでいたとき、彼が伸ばしてみたらと言うからじゃあそうしようと安易に伸ばすことに決めたセミロング。綺麗な髪だねと笑ってくれるのが嬉しくて、わたしなりに丁寧な手入れをしていた。自分でも単純だなって思うけど。
「俺はあきちゃんと生きていきたいです。ここ数日のあきちゃんはなんとなく違ってたけど、それでも俺はあきちゃんといたいなって思ったよ。まだそういうあきちゃんを支えられるまでになれてないことが悔しかった。あと、こういうあきちゃんもいるんだなって思った」
 そうだよ、こういうわたしもいるんだよ。面倒でしょ、本当はそう思ってるんでしょ。いつでも笑顔じゃないわたしは、きっと可愛くないし価値もないよ。
「自分のことを責めてるなら、それは違うよ。俺はそういうのも覚悟してあきちゃんと暮らしてる。責めなくていいよ、隠さなくていい。俺にぶつけていいよ、きっとまだ難しいんだろうけど」
 嘘つきと言いそうになった。ぶつけたら離れるくせに、愛想を尽かすくせに。適当なことを言われるくらいなら、変に優しくされてそれを信じてだめになってしまうくらいなら、聞きたくないよ。
「まだあきちゃんは俺のこと信じきれてないんだよね。でもほんとうに、ほんとうに大丈夫だよ。ねぇあきちゃん、二人で生きていくって、きっとそういうことだよ」
 ずるい。ずるいずるいずるい。
 頬がびしょ濡れだった。枕も濡れてしまっているんだろうな。いつから泣いていたんだろう、彼が部屋に入ってきたときは止まったはずなのに。
 信じないようにしようとどんなに意地を、予防線を張っても、彼はそんなものをすべて飛び越えてわたしのところに来てしまう。
「今までは隠してたそういうところをこれからは俺に見せてよ。俺はね、そういうところをぶつけてもいい相手になりたいんだよ。あきちゃんと家族になりたいんだよ」
 きっと真っ赤になっている目元を見せたくなかった。でも、そういうところも見せていいのかな。彼と家族になるなら、いいのかな。綺麗じゃなくていいのかな。
 寝返りを打って向きを変えた。わたしの頭を優しく撫でていた手に触れた。目線を上げると彼の優しい顔がそこにはあった。目元をふにゃりと和らげるかわいい笑み。固くなっていた心が解けてゆく。さっきまでの抵抗がなくなっていく。お守りみたいだと思った。彼の笑顔も、たくさんの言葉も、優しさも。彼はわたしのお守りなんだ。笑って生きていくための。
 大きくて骨ばった手に触れる。顔の前で指に触れていたから彼がいたずらにわたしの頬を撫でた。気持ち良さに目が細まる。幸せだな、この温もりをつらいときに感じられるこの生活は、ほんとうにかけがえがなくて尊いものだ。彼と生きているんだと思った。ひとりでもなく、他の誰とでもなく、彼と。
「たまねぎの匂いがする」
「グラタンって言ってたから、ローストビーフ食べたいなって」
「ローストビーフ」
「うん、食べる?」
「……食べる」
「じゃあ食べようか、グラタンはまた明日にしよう。一緒に作ろうね」
 この人と生きてゆく未来は温かくて優しくて、とてつもなく幸福なんだろうな。
 夢見がちだと思われてもかまわなかった。そんなに楽しいことばかりじゃないよだとか、これから先なにがあるかわからないだとか、そんなことを誰かに言われてしまうだろうこともわかっていた。それでも、彼との未来が、生活が、どうしようもなく愛しいと思った。
 明日のグラタンはきっと美味しいだろうな。公園にはなにを持って行こう。おにぎりかな、サンドイッチかな。いつの間にかゆるみ始めた頬に、苦しいからじゃない涙が伝った。








***

誰かと生きていくってきっともっと大変なんだろうけど、でも良いなぁって思う。




20180305


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