短編 | ナノ


 黒を神秘の色とするのはとても大切なものをその暗闇に隠しているように思えるからかもしれない。だから、夜空に染まった海がどこか不思議な世界と繋がっていてもおかしくないのだ。

 靴下もお気に入りのブーツも纏っていない足が海水と交わる。ぶわっと嫌な寒気がきて、鳥肌が立つ。冷たすぎる水温と波の音は意識を遠くへ連れて行く。それに引っ張られるように足がどんどん前へ進んだ。
 私の後ろにはほの明るい街灯のついた道路があるが、その光はここまで届かない。でも、真っ暗ではなかった。
「満月」
 乾いた唇から零れた言葉。お月さまは真っ暗な海に光を広げていた。水面が銀にきらめくその様は、まるで海の中へと導くよう。
 頭の中にお母さんの顔が浮かぶ。私が夜中に部屋を抜け出してこんな所に来ているなんて知ったら、怒ってくれるだろうか。クラスの女の子たちの声が思い起こされる。友達とも言えないあの人たちは、今の私を見たとして何かを思うのだろうか。
 波の音が一層大きくなり、水の勢いに押されて視界が揺れた。足首までだった水は、いつの間にかひざ下まで。寒いな、冷たいなとそれだけを思った。歩みは止まらない。
「だめよ」
 鼓膜を叩き付ける風音。肩上までの髪がめちゃくちゃに乱された。ふらりと傾く上体、掴まれた腕。
「それ以上行っては、だめ」
 音もなく背後に立っていた少女が、私のことをふわりと抱きしめた。

「だ、」
 だれ。驚きから手を振り払おうとしたが、あまりの腕の細さにそれがためらわれた。もしかして、……幽霊? そう思わざるを得ないほどに現実離れした少女。今にも光を放ちそうなほどに白い肌と、そう、まるで、月のように輝く銀の髪。
「寒いでしょう?」
 彼女はにこやかに言った。動きに合わせてちゃぷと音を立てた海水と、私の腕に伝わる弱々しい力だけが彼女の存在を示している。
「あっちで話しましょう」
 暖かそうなセーターに包まれた腕が、私を海から連れ出した。

 お月さまはいつの間にか雲で隠れていた。今日は雲のない綺麗な夜空だと思っていたけれど、あの大きな雲はいつ運ばれてきたのだろう。
「どうして、海の中にいたの?」
 それは、私が聞きたかったことだ。いや、私が知りたいのはそれだけじゃないのだけど。この海にはくらげがよく出ると言われているし、海辺には注意書きもある。わざわざ危険を冒してまで海に足を踏み入れた理由はなんなのだろう。
「死のうと、していたの?」
 とろりと垂れ下がった瞳が潤む。何者なの、この子は。私とそう歳の変わらない女の子だろうに、どうしてこんな時間、こんな所で、赤の他人のために泣きそうな顔をしているの。
「そうじゃない」
 誰か心配してくれるだろうか、悲しんでくれるだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、月光に惹かれて奥へ奥へと進んだだけだ。それだけだけど、きっとその奥には私にもわからない、冷たくて重くてどんよりとした感情が沈んでいる。
「わたし、あなたが泣いているように見えたの」
 その言葉で、鼻の奥がつんと痛んだ。泣きたかったわけではないはずなのに、どうしてだろう。
 それまでは痛くなんかなかったくせに、傷を見てから急に痛みを感じるときがある。それと同じなのかもしれない。
 悲しみをやっと自覚したように、私はぼろぼろと泣き出した。

 たくさんのことをわけもわからないまま話し続けた。友達が欲しい、お姉ちゃんはなんでもできてずるい、あの子は私のことが嫌いなんだ。大げさなくらいたくさん泣いて、覚えきれないくらい吐き出した。その全てを彼女は静かに聞き入れて、時々優しすぎる相槌を打っていた。
 やがて我に返り謝ろうとした私を、彼女は強く抱きしめた。背中をぽんぽんと叩かれた心地よさと、驚くほどの疲労感。いけないと思いつつもおぼろげになってゆく意識の向こうで、あやすような甘い声を聞いた。
「もう、いかなくちゃ」
 その声を最後に、私の意識は完璧に途切れたのだった。

 あなたの名前は? 
 ぽそりと動いた唇、濡れていない足、体を柔らかく包む布団。飛び上がるように起きて、あたりを見回した。私の部屋だ、砂浜じゃない。
 夢だったの? 
 疑問が頭をもたげるが、私の手のひらにはきらきらと輝く海砂がついていた。

 昨日と同じように綺麗な空だった。遠くまで抜けるような薄い青は、寒そうだけれど爽やかで嫌いじゃない。
 学校に行く気にはなれなくて、砂浜に腰を下ろす。冬の海には人が少ない。散歩中の老人が私のことをちらちら見ていた。昨日のことを思い出しながら、砂浜に指で海と書いて、月と書く。なんだったか、この字面。見たことがある。
「くらげ、好きなのかい?」
 顔を上げると、目の前にはにこにこと優しそうな笑みを浮かべたおばあさんがしゃがんでいた。そうだ、くらげだ。海の月でくらげ。なんて素敵な名前だろう。
 私が頷くと、おばあさんは笑みを一層濃くして私の隣に腰を下ろした。私の書いた「月」の文字をしわくちゃな指でさす。砂におばあさんの指が沈んだ。
「月はね、やって来るんだよ。海を通してね。地上ではくらげになりすますのさ」
 少女のような笑みを向け、おばあさんは「月に会えるといいねぇ」と私の頭を優しく撫でた。そうか、彼女は、きっと。
「また、会えるといいです」
 私の言葉に一瞬目を見開いてから、おばあさんは楽しそうに、嬉しそうに笑っていた。

 前へ進もう。
 また会えたとき、笑って、楽しい話ができるように。








***

一年ほど前に書いたものです。
まだ上げていなかったなと思ったので今更ながらに。




20170526


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