短編 | ナノ


 いつだって、彼女は口を閉じたままだ。



「沙原ー、世界史ノート」

 廊下でたまたま会った世界史担当教諭にこれ返しといてくれ! とノートを預けられたのは、つい数分前のこと。クラスメートのほとんどは一昨日がノートの返却日だった。提出日に沙原は世界史の授業を、というかその日を休んでしまっていたから。

「ありがと」

 目を合わせず、にこりとも笑わず。ノートを俺の手から引き抜くと、彼女はそう言って目線を手元に落とした。先程までやっていた古文のノートであろうそれは、何種類かのペンで色が付けられている。
 目的は果たしたし、と一番廊下側の沙原の席から遠ざかった。俺の席は一番窓側だ。前から三番目というのは同じでも、俺と沙原の席が遠いことに変わりはない。

「真鍋はほんと、沙原に嫌われてんな」

けらけら。俺の後ろに座る長瀬は、悪戯っ子のように持ち上げられた目尻を垂れさせて、愉快そうに笑っている。

「嫌われてねーよ、つーか見てんなよストーカー」

「は? 沙原に興味無いんだけど」

「違う、俺のストーカー」

 うっわキモ、と容赦の無い毒。クラスの大半はこいつを優しいだとか明るいだとか人気者扱いするが本性はこんなもんだ。とんだ猫かぶり野郎である。

 沙原は、誰にでもああいう態度なわけではない。男子にだけ冷たいというわけでもない。俺だけだ。俺にだけ、沙原はああいう態度を取る。長瀬が沙原に嫌われてる、と判断するのも無理はない。
 沙原はあからさまに俺だけ、ある意味で特別扱いする。

「でもなー、そこが可愛いんだよなー……」

「お前そっちだったんだ」

「勘違いするなよ、お前やめろそれは」

 別に俺だけが知っていればいいことだ。だから、長瀬にも、誰にも、言ってなんかやらないけど。

 俺の中にだけ秘めた楽しみを思い起こしながら、窓から入る生ぬるい風を感じていた。後ろから聞こえた「にやにや真鍋キモ」という暴言は聞かなかったことにする。



 放課後、人目につきにくい地下階段。
 この学校に似たような場所は何箇所かあるが、それでも極端に汚かったり、上から見えやすかったり、謎の扉があったりと状況は様々だ。その中でも俺は此処を気に入っている。人目につきにくく、そこまで極端に汚れているわけでもない。一度俺が掃除をしたからということもあるけれど。

「さーはら、」

 小さな背中に呼びかけると華奢な肩が揺れた。肩甲骨を通り越している黒髪は、少し癖っ毛らしく背中で曲線を描いている。そのふわふわとした髪を撫でていると、沙原は戸惑ったような顔を此方へ向けた。

「なに、なんで撫でてるの」

「なんとなく」

 そう、と納得がいかないような顔で。いつまでも後ろを向いているのは辛かったらしく、しばらくしたら彼女は前へ顔を向けた。階段の段差もあるだろうが、背の低い彼女は俺の胸にすっぽりと収まってしまいそうなほどに可愛らしい。
 小さいなーと思いながら、髪に隠された耳を撫でる。びく! と大げさなまでに跳ねる肩。沙原が一々反応するのが面白くて、思わず声に出して笑った。その声に反応して、再び沙原が振り向く。

「なんで笑うの……!」

「沙原、面白いから」

「面白くない、からかわないでよ」

 拗ねてしまったのか、沙原は勢いよく前を向いた。耳を触っても、髪をいじっても、彼女は反応しない。
 ……ように、頑張っていた。それでも、小さく身じろいでしまう沙原が可愛くて。

「さーはらー」

 髪をくるくると指に巻きつけながら、彼女の名を呼ぶ。一向に反応してくれない彼女は、自分が怒っているという意思表示をしたいのか、わざとらしく携帯を取り出した。いわゆるガラケーのボタンをぽちぽちと打っている彼女の名前を呼び続けても、こちらを向いてくれない。

 そう、最初はこうだった。わざとではなく、素で。俺と何を話せばいいのかわからなかったらしい沙原は、恐らく意味もなくこうして携帯をいじっているばかりだったのだ。





 半年ほど前のこと。俺がまだ一年だったとき。お気に入りの場所である地下階段から、誰かの泣き声が聞こえた。

 嗚咽が混じり、声も濁っていて。長い間泣いていたのだろうとわかるような、そんな感じ。階段の曲がり角まで来てしまっていた俺はしばらくそこで固まっていた。俺の足音にすら気づけないほど余裕がない泣き声の主だ。引き返したってきっとわからなかっただろう。
 でも、それができなかった。一人にしたらいけない気がしたから。でも、出て慰めるような行動力も俺には無くて。
 知り合いである可能性なんか極めて低かった。声の高さからして明らかに女子。泣いてる女子を容易に慰められるほどのプレイボーイでなければ、そこまで親しい相手もいない。
 なら帰れよ。そう結論付けて腰をあげた。埃まみれの階段に腰を下ろしていたから、音を立てないように気をつけて汚れを払う。

 その時だった。

 びりびりびり! と何かが破れる音。大きく響いた音に驚いて、俺は思わず曲がり角から顔を出した。泣き腫らした瞳が、こちらを見ている。

 沙原だった。

 彼女の足元に散らばっていたのは、色とりどりに色彩がなされた紙の欠片。
 そういえば沙原は美術部だった。これはきっと一枚の絵だったはず。

 極めて低い確率で泣き声の主は知り合いだったのだから、これも何かの縁だろう。驚きから声を失ってしまった沙原は、近づく俺を丸くなった瞳で見つめていた。かと思えば、足元に散らばした紙を焦ったように拾い集め始めて。
 そんな彼女を横目に、まだ拾われていない破片に手を伸ばした。

「触らない、で」

 クラスでにこにこと穏やかに微笑んでいる彼女とは程遠い、暗い声で。泣いていたからではない。哀しんでいるからだ。

「なんで?」

「真鍋くんには関係ないよ、きつく言ってごめんね」

 謝罪が棒読みだった。余裕がないということが感じとれるほどに切羽詰まった声。言われた通りに手を離せば、彼女は素早くそれを手中に収めた。腕の中に集まったそれらを彼女はどうするつもりなのだろう。

「なあ、それ捨てる?」

「捨てる、けど」

「なんで?」

 ぐっ、と彼女が唇を噛む。眉を哀しげに寄せた彼女は俺から顔を背けた。

「沙原が描いたんだろ、それ。なんで破ったんだよ」

「要らないから」

「要らなくない」

「要らないの!」

 大粒の涙が頬を伝ってゆく。突然大声を張り上げた彼女に驚いた俺は、彼女をただ見つめていた。

「要らないの、他の人にとっては要らないの!
 要らない、の……っ」

 腕に破片を抱えている沙原は、その涙を拭うこともできなくて。居た堪れなくなった俺は、その赤くなった頬に腕を伸ばした。ハンカチなんてもの、持ってないから。

「じゃあ、俺にそれ、くれ」

 シャツで沙原の涙を拭く。汚いと思われたら終わるなと思いつつも、そんな余裕が彼女にあるようには見えなかったから、構わずその行為を続けた。でも、涙は止まることがなくて。
 拭いきれなくなってしまったそれには、お手上げだった。吸い取っても吸い取っても、彼女の瞳からは雫が零れ続ける。いつか彼女が干からびてしまうのではと思うほどに。

 だから、拭うことはやめて、胸の中に閉じ込めた。顔を胸元に無理矢理押し付けて、背中を撫でる。痛いよという声が聞こえたから、少しだけ力を緩めて。それでも、彼女は逃げなかった。それどころか、甘えるように俺に体重を預けていたのがわかった。


 それから、俺は彼女に触れるように。反して、彼女は人前だと俺に冷たくするように。でも、こうして二人だけになると、いつもと変わらない彼女になる。



「真鍋、くん?」

 長い間黙っていたらしい。少しぼーっとしていた意識を沙原の声で引き戻されると同時に、忘れかけていた指先の存在に気づいた。髪を巻き取っていたそれは、いつの間にか佐原の小さな掌中にあって。沙原から触れてくるのは珍しい。

「沙原、手冷たい」

「真鍋くんが温かいだけだよ」

 俺の言葉で急に恥ずかしくなったのか、彼女は素早く手を離してしまった。再び前へと向けられてしまったその顔を、俺はもっと見たくて。

 キュッ、とゴムが擦れる音。俺が立ち上がったことに驚いたらしく、沙原の肩が小さく揺れた。反応が小動物みたいだ。
 とん、とん、とゆっくり二三段下りて、沙原の前に回り込む。後ろを向くような意地悪はされないにしても俯かれてしまった。彼女の顔は見えない。

「なー、沙原」

 寂しくなって、悲しくなって。俺と顔を合わせてほしいだけなのに。
 沙原の頭をゆっくりと撫でながら、俺は彼女の肩口に顔を押し当てた。柔軟剤やシャンプー、あとは何が入っているのかわからないけど、とりあえず沙原の匂い。女の子らしいなあと思う。こんな密着して、汗臭いと思われてないといいけど。でもそんなのは今更だなと、心の中で少し笑った。

「なんで、沙原はクラスだと俺を嫌うの」

 嫌ってるわけではない。そんなこと、わかりきってるけど。でも、いつも俺がされてる仕打ちを思い起こせばこれくらいの意地悪は許されるはず。

「嫌ってなんか……っ」

「俺、今日長瀬に、お前は沙原に嫌われてるって言われた」

 顔を上げて否定する沙原の慌て様が面白くて。さらに追い打ちをかけるようにあの人気者の名前を出せば、沙原は一層あたふたとしだした。これ以上苛めるのは酷かなと思いつつ、やっぱりそんな沙原が可愛くて少し俯いてみる。

「ちが、真鍋くん、私、真鍋くんのこと嫌ってない、」

 予想通り沙原は焦り出す。俺が沙原の本心に気づかないはずも、察せないまま落ち込むはずもないのに。

「じゃあ、なんで、沙原は俺のこと避けるの」

 笑いそうになるのを抑えたせいで声が震えた。それはきっと、沙原からすれば俺が泣くのを堪えているように聞こえたはず。顔は俯かせているから沙原に俺の表情は見えない。

「……わらわ、ない?」

 震えている沙原の声。冗談抜きで彼女が泣き出してしまうのではないかと少しだけ不安になった。意地悪が過ぎたかもしれない。少しだけ反省して、ちらりと沙原の方を伺う。目が合うと俺の茶番がバレてしまうから、顔を上げるのはほんの少しだけにして。

「あの、ね」

 でも、目は合わなかった。合う可能性も無いと思って普通に顔を上げた。だって、今度は沙原が俯いていたから。さっきまでは心配そうに俺のことをじっと見つめていたはずの潤みやすい瞳。今は少しもその瞳は見えず、俺と同じ色のラインが入った上履きを一心に見つめている。

「……思い出しちゃう、の」

 触れたい。弱々しく声を吐き出す彼女の柔らかな髪に。赤くなっているであろう、小さな耳に。

「真鍋くんの顔見ると、触られたときとか、抱きしめられたときとか、思い出しちゃうから、恥ずかしいから、顔赤くなっちゃうかもしれないから、だから、」

 そっけなくなっちゃう、の。

 途切れ途切れに。沙原の言い方も、雰囲気も。告白をされているのではないか、そう思わせるには十分すぎて。スカートを握り締める彼女の小さな手は小刻みに震えている。

「いいよ、思い出して」

 思わずその手を取って包み込んだ。さっき、沙原が俺にしていたように。あんなに冷たかった沙原の手が今は俺と同じくらいに温まっている。

「顔、赤くなっちゃえばいいじゃん」

 恐る恐る顔を上げる沙原。さっきまでの行動が茶番だったことに気づく余裕なんて、きっと今の彼女にはない。
 でも、と言いかけた彼女を思いっきり抱きしめた。体勢がキツイとかそんなのどうでもいい。ただ、こうしたくてしょうがなかった。彼女を自分の中に閉じ込めたくて、彼女の頭を自分でいっぱいにしたくて。

「俺のことだけ、考えてればいい」

 沙原がほんの少しだけ息を止めたのがわかる。そんな反応をされたのがまた可愛くて、耳元で追い打ちをかけるように「ね?」と囁くと、沙原はびくりと大きく震えて俺の胸を押した。
 沙原の弱い力に俺はおとなしく体を離す。このまま抱きしめていたら、嫌われてしまう気がしたから。

「からかわないで……!」

 泣きそうな顔をしていた。いや、泣いていた。

「わたし、わたしは、真鍋くんのこと、」

 ぼろぼろとこぼれ続ける涙はあの日のことを思い出させる。俺と沙原がはじめてまともに話した日。沙原が絵を破って泣いていたあの日。
 続く言葉を沙原は紡がない。口をぱくぱくと動かして、勢いを失ったようにまた俯いてしまう。

「沙原」

 触れたら、怒られてしまうだろうか。本当は頭を撫でたいし、抱きしめたいし、俺は沙原の視界にいたい。

「俺さ、」

 ちらりとこちらを窺った沙原に顔を近づけた。これまでで一番近いところで顔を見つめる。
 赤い頬、驚いて見開いた瞳、濡れてしまった睫毛。逃げようとした身体を引き止めるように腕を掴んだ。鼻と鼻が触れ合って、それから。

「沙原のこと、すきだよ」

 口を抑えて、今にも倒れそうなほど真っ赤になった沙原が愛おしい。今まで我慢していた感情全てをこめて彼女を抱きしめた。

 言うべきことは俺が言ったからさ、許してよ。今までの曖昧な関係も、からかうような態度も。
 こんなにも俺は、君のことがすきだから。







***


恐らく2年ほど前に書き始めたものです。
それからずっと眠っていました。

恥ずかしいくらいに甘かった!
こんな青春はありませんでしたぞ。



20151126



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -