涙でぐちゃぐちゃになった顔を、あの人は笑って「かわいいね」と言ってくれたんだ。
「だから、私はあの人を恨めないよ」 切り取ってワンピースにしたら、きっと素敵に違いない。そんなグラデーションをした空だった。橙から青へ。さらりとした生地に染み込ませたいくらい魅力的な色だ。
「そう」 それなら良いんだけどね。 言いながら鉄柵を掴んだまま腕を伸ばす。屈伸するように体を動かした彼のせいで、屋上と空を隔てるそれがぐらと少し揺れた。
腕を乗せて体を預けていた私の心臓がちょっと慌ただしくなる。こんなことで壊れることはないって、わかってはいるけど。
「でも、泣いたよね」 「すきだからね」
想いは、現在進行形だから。まだ“だった”と言い切れる私ではない。
さようならを告げたのは私からだった。優しい彼は私に別れを言えなかった。 でも、あるようでないような、そんな愛情を無理に向けられることに耐えられなくなった私は、彼に笑って「別れよっか」と言ったのだ。彼は俯きながら「ごめんね」と言った。 ねえ、少し安心したでしょう?
醜い私も弱い私も、彼は全て包み込んでくれた。だから私も彼の全てを愛した。良い関係を育めている気分になっていた。 でも、私たちの関係は、まるで根っこが腐敗した観葉植物だったのだ。
「俺ならね」 屈伸運動は終わったらしい。私より十センチほど空に近い彼の頭が、夜に染まってゆく中をゆらり、ゆらりと不安定に揺れていた。
ぴたり、その動きが止まって、ずっと何処か遠くの建物を見つめていた瞳が私を捉える。 きらきらしていた。満天の星空みたいに。
「俺なら、あの人が言った可愛いを、全部愛おしいにする」 張り合ってるのか、本心なのか。わからないけれど、語る瞳は至って真剣。
思わず一歩距離を置いた。なんとなく気付いてはいた彼の気持ち。でも、見ないようにしていたのだ。 そう、もうずっと。
「いい加減気づいてよ、認めてよ」
彼の想いに布を被せて、隠して、知らないふりをして。
「俺にとって、お前は特別なんだってば」
この距離を、この居心地の良い関係を壊さないように、彼の想いには触れないようにし続けて。 そして、彼を傷つけた。
二歩、三歩と後退りを続ける。彼は追いかけて来なかった。
悲しそうな色をした二重の垂れ目。 息が詰まる。 此処から逃げ出したくなる。 聞かなかったことに、無かったことにしたくなる。
「逃げないでよ」
そんな顔しないでよ、捨てられた犬みたいな、そんな顔。私はまだあの人がすきなの。それでもひとりは嫌で、寂しいのは耐えられなくて、だから、あなたの優しさに甘えて。 まだ、気付かせないで、このままでいさせて。
「すきだよ」
夜だ。 そう思った。
しんとした空気も、輝きはじめた月や星も、この澄んだ匂いも。
夜が来たよ、ねえ。
「すきなんだよ」
また、明日にしよう。その話は、また今度にしよう。
だから、見ないで。もう何も言わないで。そんな顔で、そんな真剣な声で、私を苦しめるのはもうやめてよ。
「大嫌い」 来ないで。まだだめなの、踏み込まないで。今の私はだめなの、あなたの想いだって無碍にするくらい嫌な女で、恨んでないなんて言いながらもいつまでも被害者ぶって、悲劇のヒロインを気取ってて。 加害者は、最低なのは、私のくせにね。
だから、だめだよ。もう近寄らないで。 そんなに真剣な想いを私に向けたりするのは、間違ってるんだよ。
「ねえ、」 彼が一歩を踏み出した。また一歩。一歩。私が置いた距離を、詰めるようにして。動くことは出来ない。
いっそ、このまま彼が私を罵倒してくれればいいのに。 そう思いながらぎゅっと目を閉じた。夜よりも深い黒。彼は見えない。見たくない。あの瞳も、彼の想いも、変わってしまうこれからも。
温もりが私を包んだのがわかった。肌寒かった背中を大きな温かい掌が優しく滑る。 そっと目を開ければ、がっしりとした肩の上に私の顔があって、彼の顔は見えなかった。 腕に力がこもった。ほんの少しだけ、痛い。
「もうさ、いい加減、俺を見てよ」
離しまいとする腕。 私の体を包み込む温かい体。
今まで彼はこの言葉を何度飲み込んできたのだろう。私があの人をすきになった頃、彼はすでに私のことを意識していた。 本当は、ずっとわかってた。彼はわかりやすいから、隠せないから。
「いいよ、すきじゃなくてもいい。でも、俺を見て」
ぐ、と彼が私の肩を掴む。 顔が歪んでしまったのは痛かったからじゃない、強すぎる彼の想いに胸が締め付けられたからだ。
「だから、もう誰のところにも行かないで」
春がくるよ、季節が変わるんだ。 そうして夏がきて秋がきて、また冬がくる。
私の気持ちも変わるかな。私のずるさに、弱さに気づいていながら、私のことを待ってくれていたあなたの気持ちが変わってしまう前に、私は変われるかな。 一年後の今頃は、あなたの笑顔を、瞳を、真正面から見れているかな。あなたの気持ちに、しっかりと向き合えているかな。
あなたの瞳を見ながら私は言う。
「待ってて」
もう少しだけ。 あなたの想いに被せていた布は、もう夜の向こうに投げ捨ててしまったから。
***
高校時代の文芸部数人で作成した冊子に載せたものです。 この話には表紙もありまして。
ちょっと画質落ちてますが。 近所で撮影して加工したものです。夕月は部活でのペンネーム。 なんだかんだ少し気に入ってたりするんだと思う、そんなちょっと不思議なお話でした。
20150515
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