短編 | ナノ


 涙の流し過ぎでわたしは干物になってしまうんじゃないだろうか。ぐずぐずと落ち着かない鼻をティッシュでどうにか抑えてから、もう一度腕で目元を拭った。

 お腹が減った。ぼふりとベッドに背を預けながらお腹を鳴らす。勝手に鳴っただけだけど、誰もいないし隠すこともしなかった。そういえば夕飯を食べていないんだ。
 煌々と輝いている蛍光灯から時計に目を移した。午前三時四十五分。当たり前のように家族は寝静まっていて、家の中は酷く静かだった。さみしさで胸が痛む。また瞳がじわりと潤んだ。
 もう嫌だ、何度泣けばいいのだろう。こんな泣き虫だからだめなんだ。自分に嫌気が差して、また視界が歪む。寝転がったままでぼろぼろと泣いた。すぐそこの部屋で寝ているお父さんやお母さん、お兄ちゃんは、わたしがぐっすり寝ていると思っているんだろうか。まさか今わたしが一人で大泣きしているとは考えていないだろう。びっくりするのかな、それとも泣き虫だなと呆れるんだろうか。
 またお腹が大きな音を立てる。だんだんと気持ち悪くすらなってきたわたしは、食欲に抗うことなく部屋を出たのだった。

 みんなを起こさないようにしなきゃ。
 そう思ってそろそろと階段を降りたのに、辿り着いたリビングには明かりがついていた。
 誰かの消し忘れかな。そう思ったけど、微かに流れる音楽からその考えは打ち消された。お兄ちゃんがいる。この曲を聴いているのも、そもそも一人でいるときに音楽を流したりするのも、お兄ちゃんだけだ。
 こんな時間にどうしたんだろうと思ったけれど、それはわたしにも言えることだ。リビングのドアに手を掛ける。こっちを向いたお兄ちゃんの顔。ちょっとだけ、びっくりしていた。
「なに、腹減ったの?」
 あ、やっぱり。お兄ちゃんの指にある白い筒。換気扇の下にいるし、臭いもするからそうだろうと思ったけど。
 小さくなっているそれからは、煙が細く出ていて。お兄ちゃんの細い指先に煙草はよく似合う。吸っている姿も嫌いじゃない。煙草は、大嫌いだけど。
「うん、お腹空いた」
「何も食ってなかったしな。カレー食べる?」
 うん。言いながら頷くと、お兄ちゃんは手のすぐそばにあったコンロのスイッチを入れた。そう言えばそうだ、今日は家に帰ったらカレーの匂いがしたんだった。わたしも、お兄ちゃんも大好きなお母さんのカレーライス。でも、わたしは今日みんなと一緒に食べなかった。大好きなのに。
「準備してやるから座ってな」
「いいよ、自分でやる」
 くるくると慣れたようにおたまを回す。お兄ちゃんは料理が得意だ。お母さんの代わりに晩御飯を作ることもある。でも、それはお兄ちゃんの気が向いたときだけ。
「具合悪いんだろ?」
 ぎくりと飛び上がる心臓。外からもわかってしまうのではないかと、ちょっと不安になったくらいだ。
 家に帰るなり、わたしはみんなに嘘をついた。お腹痛いし、頭も痛い。だから、晩御飯食べないで寝るね。お母さんはちょっと悲しそうな顔をしていた。心がちくりと嫌な痛みを発した。でも、そのまま食べていたら、わたしはきっとみんなの前で泣いてしまっただろうから。
 お母さんのカレーがある日、わたしはいつも笑顔になる。それはもちろんお母さんも知ってるから、きっとわたしの笑顔が見たかったんだ。なのに、わたしは食べることもしないで寝てしまった。
 コップに氷を入れて、ペットボトルの中に入った麦茶を注いだ。食卓のソファに腰を下ろして、お茶を口に含む。喉も渇いてたんだ、そりゃそうか。涙を流すってことは、体内の水分を出してしまうってことだもん。
「最近、笑わねーなって」
 リビングに漂い始めたカレーの匂い。鼻をひくひくとさせていたら、お兄ちゃんが煙草を灰皿に押し潰してからそう言った。
「母さんが心配してたよ」
 コンロをくるりと回して火を止める。すっかり部屋の中に充満したカレーの匂い。お母さんの優しさ。ずっと変わらないお兄ちゃんの横顔。
「サラダ、作ろうか」
 鼻の奥がつんとしてきたとき、危ないと思って急いでお兄ちゃんに背を向けた。背を向けて、ぼろぼろと泣いた。ごめんね、ごめんなさい、ごめん。声が出そうになって、でも生み出されそうな言葉は全部同じもので。だから、喉をぐっと押し潰して、ただただ、たくさん泣いた。肩が震えて、背が丸まって、ズッと鼻が可愛くもない音を立てて。その音を掻き消すように、お兄ちゃんがリズム良く包丁を動かしていた。細く小さく、お兄ちゃんが好きな人の低くて落ち着く歌声が流れている。
「あのね、」
 包丁の音が、ちょっとだけ止まって。それからまた鳴り出した。でも、スピードは落としてある。
「ふられちゃったの」
 ぼろぼろと涙は止まることがない。それと、小気味よい包丁の音も。トン、トン。心臓にしみ込むように、ぽっかり空いた穴を優しく埋めるように。
「ずっと、すきだったの。小学校から、今まで」
 同じ小学校だった。最後の四年間は同じクラスで、中学に上がっても中学二年の今まで同じで。いつも話すし、周りからも仲良いねって言われるし、少しだけ期待してた。意識し出したのは、つい最近。彼との距離が空きだしたのも、きっとその頃から。
「でも、友だちだって言われちゃった」
 そういう風には見れない、ごめんって。彼は、仲が良かった頃にいつも見せていた明るいおちゃらけた顔なんて声なんて、何処かへやってしまっていた。真面目にそう返してきた彼に、ああこれは本当なんだ、ふられてしまったんだと。察していたからこそ、わたしと距離を置いていたんだと。
「ほれ、」
 話しているうちに心の整理がついたのか、涙は止まっていた。ズッと鼻を鳴らして、身体の前に置かれたカレーライスとサラダを見つめる。それから、後ろに立つお兄ちゃんを振り返った。
「食べな」
 わたしの独白には何も口出ししないままで、ただそれだけ言った。頭の上に乗せられた大きな手。ぽん、ぽん。さっきの包丁と同じリズムだ。
「あったかいうちに、食べちゃいな」
 湯気が立ち上る美味しそうなカレーライス。わたしが、お兄ちゃんが大好きないつものカレーライスだ。いつもよりわたしの好きなジャガイモがたくさん入ってる。きっと、お兄ちゃんがそうやって入れてくれたんだ。
 それから二、三回お兄ちゃんはわたしの頭を撫でた。いつも吸っている煙草の臭いと、カレーライスの美味しそうな匂い。やがて冷蔵庫からドレッシングを出してそれを食卓に置くと、お兄ちゃんはまた換気扇の下に戻って行った。
 カチリ。ライターの音と、それから少し後にお兄ちゃんが息を吐く音。曲の変わり目だったみたいで、音楽が少し途切れた。換気扇がカラカラと回って、それでもやっぱり煙草の臭いは完璧に吸い込まれない。漏れた臭いがこっちにまで漂ってきていた。口の中に広がるカレーの味。お母さんの優しい味と、お兄ちゃんの温かさを食べているようで。そういえば、さっきお茶を出した時、私の大好きなシュークリームがあった。きっと、あれはお父さんが買ってきてくれたんだ。
 カチャカチャと鳴る、食器とスプーンが触れ合う音。後ろでお兄ちゃんがフーッと煙を吐き出す。いつもと同じはずのカレーは、しょっぱかった。わたしの涙のせいで、しょっぱかった。でも、すごく美味しくて。優しさとか、温もりとか、愛情とか。馬鹿みたいだけど、本当にそれが嬉しくて、幸せで、何よりも心を満たしてくれた。
「食って、寝て、また明日学校行って」
 ギィ、と鉄の音がした。きっとお兄ちゃんが椅子に座ったんだろう。
「絶対、そのうち何でもないようになるからさ。大丈夫、お前は可愛いし」
 いつもブスとかデブとか、そんなことしか言わないくせに。こんな時だけ褒めたって、バレバレだよ。そう思うのに、それでも、七つも年上のお兄ちゃんの言葉は、わたしにとってすごく大きくて。
「だから、なんてことない顔して笑ってやれ」
 お兄ちゃん、お兄ちゃん。
「落ち着くまで、起きててやるから」
 眠いのにごめんね、心配かけてごめんね。ありがとう、いっぱい、ありがとう。
「お兄ちゃんみたいな人、と、つきあ、……っ」
 泣きすぎてちゃんと喋れなかった。せっかく作ってくれたサラダも、温めてくれたカレーも、もう食べられなくて。ただただ、胸がいっぱいで苦しかった。家族に大事にされていると実感できた嬉しさと、こんなにみんなに心配をかけてしまった苦しさと、お兄ちゃんとお母さんの優しさを残してしまった悲しさがごちゃごちゃになって、わーわー泣いた。
 お兄ちゃんは、そんなわたしのそばに来て、また頭を撫でて。
「俺みたいな良い男、そうそういるわけないだろ」
 自分で言うなって、そう言いながらも「そうだな」なんて思ったことは秘密で。「お兄ちゃん大好き」って、そう思ったことも絶対に秘密なんだ。
 それから、二人でカレーライスとサラダは半分こしてがんばって食べ切った。

 ある日の、明け方午前四時のこと。リビングには、優しさと温もりが含まれた、幸せな匂いを残して。







***

今回コミティアにて無料配布したものでした。
ずっと書きたかった話だったので、書けて良かったです。



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