短編 | ナノ


 細い瞳を見つめるのが好き。
 笑ったときに、困ったときに、私の頭を撫でるときに、やんわりと細められる瞳を見るのは、大好き。


「また泣いたの、」

 疑問形であるはずなのに、彼の喋り方ではいまいち語尾が上がりきらない。私の眼尻に細い指を添えながら、彼は悲しそうにその瞳を細めた。

 彼から香る柔軟剤の匂いに包まれるような感覚に陥って、その指に全てを委ねようと肩の力を抜きながら瞼を下ろす。大好きな瞳が見えなくなってしまったけれど、それでも彼の表情はなんとなく把握できた。
 きっと、困ったような顔をしながらも優しい眼差しで私のことを見つめてくれているのだろう。

 手が髪を滑る。優しい手つきで私のストレートを撫で続ける彼は、もう片方の手で私の背中をぽんぽんとあやすように叩き始めた。
 彼の胸元に目を閉じたまま擦り寄る。心臓に、胸元に耳を当てると、そこからは彼の心音が伝わってきた。
 安堵から身体の力がより一層抜けていく。背中で刻まれているリズムは彼の心音になぞらえていたようで、彼が体内に血液を送ると同時に私の背中では優しい衝撃が生まれていた。

 なんだか不思議な気分だ。まるで、彼と私が一つになってしまったかのような、そんな感覚。暗闇に慣れてしまった瞳は、閉じていても開いていても変わらない。
 どちらも闇だった。でも、開けた世界には彼がいる。

 彼がいつまでも私の背中でリズムを刻むから、思わず夢の世界へと再び旅立ちかけた。とろりと下がってきた瞼を押し上げる。
 彼としては眠ってもらいたいのだろうけど、私はまだ嫌だった。
 悪夢の続きを見てしまうからではない。彼の優しさに触れ続けていたかったからだ。

「どんな夢だったの」

 胸元で呼吸を繰り返す私に彼は問いかけた。暗闇に溶けてしまいそうに静かな声。

 さっきまでの悪夢は、いつもと同じだった。
 彼が私から離れてしまう夢。彼は悲しそうにしながら私のそばを離れてゆき、私は無様なまでに泣き崩れながら、それでも彼の名前を呼び続けるのだ。
 いつもリアルだと我ながら感心する。実際もきっと、そんなようなもの。

 彼の手が私の耳に伸びる。びくりと肩を揺らせば、彼は「もう大丈夫だから、言ってごらん」と優しく私の耳元で囁いた。

 融けてしまいそうだ。いや、融けてしまえればと願っているのだ。
 彼の声で、彼の中に。そうすれば永遠が叶う。彼の中に私はずっといられる。不可能が可能になる。
 彼から私という存在が消えることはない。

「消える夢」

「なにが」

「あなたが」

 彼の胸元で身じろぎながら淡々と短い言葉で返事をする。彼の表情が、ごめんねと零す声音が何度も頭の中を駆け巡る。

 この夢を見るたび。逆夢であることを心の底から願いながら、私はしばらくの間どこか息苦しい日々を過ごすのだ。そうして大丈夫だと安心した頃に、この夢は私の首を絞めるために訪れる。その繰り返しだった。
 私は、毎日さよならに怯えながら生きている。

「俺は消えないよ」

 彼はそう言って優しく笑った。声音から、ちょっと震えた胸板からそれがわかる。
 私がこんなにも不安になっているのに笑うなんて。

 黙ってしまった私からその空気を感じ取ったのか、彼は慌てたように私の肩を掴んで顔を合わせた。
 久しぶりに見た彼の瞳は、やはり優しくて温かい。

「そんな夢に惑わされるなんて、かわいくて」

 だから、馬鹿にしたわけじゃない。愛おしいだけ。
 二言目はぼそり、呟くように。
 聞こえていたけれど、私の悪魔がむくりと顔を出す。

 聞こえなかったよ、もう一度言って? 彼とは違ってはっきり上がる語尾。ちょっとわざとらしいくらいに。

 彼はあーとか言いながら視線をずらす。愛おしい瞳が困惑に揺れていた。視点が定まらないそれが正直過ぎて笑いそうになる。
 合わせてきたのはそっちのくせに。ああもう。

「ずるいよ」

 ろくに甘い言葉なんて囁いてくれなくて。それでも大事にされているのは痛いほどに伝わる。
 子供扱いしないでと腕を振り払いたくなる時もあるけど、その温もりは首輪に変わって私を彼のそばから離さない。

 彼なしでは生きていけないのかもしれないと思うときがある。それを人は依存と呼ぶのだろう。そうして好ましくないと非難の目を向けるに違いない。
 一人で歩けない人間は役立たずだ。

「不安にならなくても大丈夫だって、それだけ」

 暗闇でよくわからなかったから、彼の耳に手を伸ばす。いつもはひやりとしているのに熱を持っていた。彼の顔はきっと赤くなっているに違いない。

 耳にかかった黒髪を指先で退かす。余計に羞恥を煽られたらしい彼が私の手首を掴んだ。
 細身のくせに、足なんて私よりも細いくせに。手は、力はしっかりと男の人で、本当にずるい。

 この手がいつも救い出してくれるのだ。暗闇から。深い穴の底から。
 奈落の底にいる私を上から覗き込んで、彼は優しく笑いながらこの手を伸ばす。ぐいと力強く引き上げる。

 おいで。
 融けてしまいそうに優しい声で、私を光へと、地上へと導いてくれる。彼は落ちない。上で私を待ってくれている。
 だから私は、何度でも立ち上がってその手を取ることができるのだ。歩くことが、前を見ることが。

「起きよう、このまま寝ないなら」

 時刻は午前四時五十二分。
 甘い言葉は苦手な彼の手を取り、不安と別れるように私はベッドを抜け出した。


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